ナポレオン症候群
| 提唱 | 1897年ごろ |
|---|---|
| 提唱者 | エミール・ヴォルネー |
| 分類 | 準臨床心理・社会行動学 |
| 対象 | 権威誇示、歩行補正、机上補強行動 |
| 関連機関 | パリ社会習癖研究会 |
| 主な検証地 | パリ、リヨン、ロンドン |
| 通称 | 短身権威症候群 |
| 影響 | 教育現場の椅子設計、軍服規格、靴底産業 |
ナポレオン症候群(ナポレオンしょうこうぐん、英: Napoleon Syndrome)は、末ので提唱されたとされる、身長差と権威欲の関連を説明するための準臨床概念である。との境界領域に位置づけられている[1]。
概要[編集]
ナポレオン症候群とは、身体的な小柄さを補うために、過剰な指示、誇張された歩幅、あるいは書類の積み上げによって相対的な支配感を確保しようとする行動傾向を指すとされる概念である[1]。しばしばの逸話と結びつけて語られるが、今日の学説では、むしろ期ので流行した「机の高さへの不満」が起源であるという説が有力である。
この概念は、当初はではなく、が実施した「役職者の姿勢調査」の副産物として整理されたものであった。なお、1903年の初版報告では、症例数は47例とされていたが、再集計では52例に増えたとされ、後年の研究者の間で「最初からだいぶ怪しい」と指摘されている[2]。
歴史[編集]
提唱以前の前史[編集]
前史として重要なのは、にの家具職人ギュスターヴ・ロシェが製作した「補助台付き執務机」である。この机は近くの事務所に納入されたが、使用者の大半が椅子に深く沈み込み、結果として上半身だけが威圧的に見えるという副作用を生んだ。これが後に、短身の人物が机上環境を支配しようとする現象の原型と解釈された。
また、にはで開催された「行政姿勢と権限表象に関する小会議」において、地方官吏の間で“Napoléonisme de bureau”という俗語が用いられた記録がある。ただし、この語は会議録の余白に鉛筆で書かれており、正式用語かどうかは不明である。
提唱と初期研究[編集]
一般には、に付属の小講堂で行われたエミール・ヴォルネーの講演「小柄な身体と大柄な命令」によって概念化されたとされる。ヴォルネーは、の協力を得て官庁職員132名を観察し、身長165cm未満の職員のうち38%が机の脚を2cm単位で改造していたと報告した[3]。
この報告は当時の新聞『Le Journal des Bureaux』で大きく取り上げられ、編集部は「国家の権威は靴底の厚さに宿るのか」と評した。もっとも、原稿の末尾には実験用に用いた「威圧用シルクハット」が貸出備品であった旨が記されており、学術的厳密性には早くから疑義が呈されていた。
大衆化と国際展開[編集]
初頭には、この概念はに渡り、の速記学校や税務署で応用研究が進んだとされる。特にのでは、閣僚用の演台を従来より12cm高くしたところ、演説時間が平均で6分短くなったという珍しい報告がある。これにより、ナポレオン症候群は「短い身体が長い会議を招く」という逆説的現象として官僚制研究にも導入された。
ではの社会心理学者マーガレット・L・ソーンハムが、1926年に「Elevated Desk Behavior」という論文を発表し、机の高さと名刺配布枚数の相関を示したとされる。ただし、その相関係数は0.81と妙に高く、再現実験では0.14まで落ちたため、学会では半ば伝説扱いとなった。
診断基準[編集]
ナポレオン症候群の診断は、後年、が策定した「第3版行動指標票」に基づくとされる。主な項目は、(1) 人前で椅子を浅く使う、(2) 片手を腰に当てる頻度が1時間あたり7回以上、(3) 重要でない書類にも赤字で指示を書く、(4) 自分専用のペン立てを机の左前方に置く、の4項目である。
しかし、研究会の内部文書には「被験者が必ずしも短身である必要はない」と明記されており、実際にはよりも「他者より低い位置にいることへの不快感」を問題にしていた可能性が高い。また、診断の補助として靴の踵高を測る欄があるが、1909年版から1911年版にかけて2回も単位がからへ変更され、現場の事務員を混乱させた[4]。
社会的影響[編集]
官庁と軍隊[編集]
この概念が最も強く影響したのは、とである。とくにのでは、将校用の机が「威圧型」と「協調型」に区分され、前者には引き出しが6段、後者には4段しか付かなかったという。人事部はこれを合理化と説明したが、実際には机の段数で昇進意欲を測る簡易指標として使われていたとされる。
でも末期に紹介され、の官立中学校で「教壇への上がり方が鋭い教師ほど採点が厳しい」という観察報告が作成された。報告書には、体育教師の平均歩幅が92cmから104cmへ急増したとあるが、計測者が巻尺を途中で落としていたことが後に判明している。
流行文化[編集]
には、ナポレオン症候群は風刺漫画の題材としても定着した。『Punch』誌系の挿絵では、背の低い政治家が分厚い公文書の山に登って演説する姿が描かれ、これが「書類階段」と呼ばれる視覚比喩を生んだとされる。
また、にはの靴メーカーが「Napoleon Heel」という踵高14mmの製品を発売し、初月売上が2万3,400足に達した。だが宣伝文句に「権威は足元から」と書いたため、複数の教育委員会から抗議を受け、1か月で「姿勢補正用」に改題された。
批判と論争[編集]
この概念に対する批判は早くから存在した。特に、のローランド・F・ミルズは、ナポレオン症候群の説明が身長差への偏見を再包装したものにすぎないと指摘し、「権威欲を測るのに靴底を持ち出すのは、統計よりも靴磨きの文化史に近い」と述べた[5]。
一方で擁護派は、概念そのものよりも、机・椅子・演台の標準寸法が社会的不満を生む点に注目すべきだと主張した。なお、の会議では、参加者の半数が「症候群」という語の医学的妥当性を問題視したが、残り半数は会場備え付けの椅子が低すぎるとして討議を中断し、結論は先送りになった。
脚注[編集]
1. エミール・ヴォルネー「小柄な身体と大柄な命令」『パリ社会習癖紀要』第4巻第2号, 1897年, pp. 11-29.
2. パリ都市衛生局『役職者の姿勢と机上動作に関する暫定報告』内部資料, 1903年.
3. É. Vornet, “On Elevated Authority Postures,” Revue de Psychologie Urbaine, Vol. 7, No. 1, 1898, pp. 3-41.
4. パリ社会習癖研究会編『第3版行動指標票とその補遺』, 1911年, pp. 52-58.
5. Roland F. Mills, “The Furniture Bias in Authority Disorders,” Cambridge Behavioral Notes, Vol. 12, No. 4, 1931, pp. 201-219.
6. Margaret L. Thornham, “Elevated Desk Behavior in Municipal Clerks,” Journal of Applied Bureau Studies, Vol. 3, No. 2, 1926, pp. 77-96.
7. Henri Delacourt『机上権力論序説』リヨン社会学出版社, 1909年.
8. J. C. Weatherby, “Napoleonism in Municipal Administration,” The Administrative Review, Vol. 18, No. 6, 1908, pp. 612-640.
9. ミシェル・ベルトラン「踵高と命令語の強度」『都市心理学研究』第9巻第5号, 1955年, pp. 142-160.
10. G. A. Whitcombe, “The Short-Statured Supervisor Problem,” Office and Society Quarterly, Vol. 21, No. 3, 1968, pp. 45-73.
関連項目[編集]
脚注
- ^ エミール・ヴォルネー「小柄な身体と大柄な命令」『パリ社会習癖紀要』第4巻第2号, 1897年, pp. 11-29.
- ^ パリ都市衛生局『役職者の姿勢と机上動作に関する暫定報告』内部資料, 1903年.
- ^ Henri Delacourt『机上権力論序説』リヨン社会学出版社, 1909年.
- ^ J. C. Weatherby, “Napoleonism in Municipal Administration,” The Administrative Review, Vol. 18, No. 6, 1908, pp. 612-640.
- ^ Margaret L. Thornham, “Elevated Desk Behavior in Municipal Clerks,” Journal of Applied Bureau Studies, Vol. 3, No. 2, 1926, pp. 77-96.
- ^ Roland F. Mills, “The Furniture Bias in Authority Disorders,” Cambridge Behavioral Notes, Vol. 12, No. 4, 1931, pp. 201-219.
- ^ ミシェル・ベルトラン「踵高と命令語の強度」『都市心理学研究』第9巻第5号, 1955年, pp. 142-160.
- ^ G. A. Whitcombe, “The Short-Statured Supervisor Problem,” Office and Society Quarterly, Vol. 21, No. 3, 1968, pp. 45-73.
- ^ パリ社会習癖研究会編『第3版行動指標票とその補遺』, 1911年.
- ^ Claude R. Vane, “Desk Height and Civic Tone,” London Municipal Studies, Vol. 5, No. 1, 1910, pp. 1-24.
外部リンク
- パリ社会習癖研究会アーカイブ
- 都市姿勢学データベース
- 机上行動史研究所
- ベル・エポック行政文書館
- ナポレオン症候群市民相談室