ニコライ3世
| 称号 | ニコライ3世 |
|---|---|
| 成立 | 1847年頃 |
| 使用地域 | 黒海北岸・コーカサス山麓・カスピ海西岸 |
| 制度 | 巡回戴冠制 |
| 起源文書 | ヤルタ文書会議議録 |
| 有力提唱者 | アレクサンドル・ヴェリチコフ |
| 失効 | 1912年ごろ |
| 関連機関 | 帝国称号整理院 |
ニコライ3世(にこらいさんせい、英: Nicholas III)は、北岸から西岸にかけて用いられたである[1]。のを契機として定着したとされる[2]。
概要[編集]
ニコライ3世は、中葉に系の辺境諸侯が採用したとされる、半ば儀礼的・半ば行政的な戴冠称号である。実際には単一の君主を指すのではなく、沿岸の港湾都市群において、一定期間だけ「第三のニコライ」を名乗る資格を与える制度であったとされる[1]。
この称号は、の商館主やの塩税請負人が、年ごとに積み上がる港湾割当を整理するために考案したとする説が有力である。もっとも、後年の系譜書ではこれが古代に連なる伝統として再構成されており、学界では「書類先行型の王号」として知られている[2]。
成立[編集]
ヤルタ文書会議と称号の誕生[編集]
1847年、近郊の療養別荘で開かれた非公式会合において、沿岸の関税率を一本化する案が検討された。議長を務めた公証人は、複数の港の権限表を一つの名義に束ねる必要があると主張し、仮名として「ニコライ三号」ではなく「ニコライ3世」を採用したとされる。なお、会議録には「3世」の「3」が算用数字で記されており、これが後世の崇敬をやや安っぽくしたとの指摘がある[3]。
当初は船荷証券への署名補助として導入されたが、数年で祝祭・裁判・婚礼のすべてに流用され、各都市の書記局は毎月平均の「ニコライ3世認証」を処理したという。もっともこの数字はの統計であり、塩箱の箱数まで件数に含めていた可能性がある。
制度化と巡回戴冠制[編集]
1853年にはの港務条例に組み込まれ、ニコライ3世は「春分から秋分まで有効な臨時君主」と定義された。これにより、称号保持者はからまでを巡回し、各地で小規模な戴冠式を行う義務を負った。
巡回は馬車と蒸気船を併用して行われ、最盛期には1巡につき、、の勅書が発行された。民間ではこれを「三世の行幸」と呼び、港の少年たちはニコライ3世の到着を知らせるとき、甲板で銅鍋を3回鳴らす習慣を持っていたという。
発展期[編集]
1860年代に入ると、ニコライ3世は単なる称号から、港湾税・旅券・劇場検閲を横断的に整える準法体系へと発展した。とくにの印刷業者が考案した「三重封蝋台帳」が普及し、書類の左上に三本線を引くだけで第三ニコライ権限が付与される仕組みが整えられた。
この時期、の帝政官僚は制度を危険視したが、地方ではむしろ便利さから歓迎された。ある年にはで塩の通行税が40%下がった一方、戴冠用の赤い絹布の需要が急増し、経由の輸入が前年のになったとされる。
全盛期[編集]
港湾社会への浸透[編集]
1871年から1884年にかけて、ニコライ3世は港湾労働者の名誉称号としても機能した。各港では、1日平均が「小ニコライ」、月末にはが「公認ニコライ3世」として選ばれ、選出者は魚市場の列を先に進める権利を持った。
の記録によれば、1882年の夏だけでニコライ3世を名乗る者が現れ、そのうち半数以上が実際には灯台守であった。とくに灯台守は、夜間の信号灯を「第三の冠」と呼んで人気を博した。
文学と祝祭[編集]
同時代の新聞はこの制度をしばしば皮肉ったが、地方詩人たちはこれを盛んに讃えた。出身の女流詩人は、『ニコライ3世のための七つの潮』を発表し、7つの港の名前を韻律に組み込んだことで知られる。
また、年1回の「三世節」には、白いヤギを3頭、青い提灯を9個、塩をまく儀礼が行われた。これが祝祭の正式作法として整えられたのは1890年頃であるが、実際には漁師たちの余興が制度化したにすぎないとの見方もある。
衰退と滅亡[編集]
20世紀初頭になると、電信と近代関税制度の普及により、ニコライ3世の実務的価値は急速に低下した。1908年にはが廃止勧告を出し、さらにの会計監査で、同一人物が一週間に4回も異なるニコライ3世を名乗っていたことが判明したため、制度全体の信頼が揺らいだ。
1912年、最後の公的戴冠がで行われたのを最後に、巡回戴冠制は事実上停止した。もっとも、沿岸部の家庭ではその後も「一家に一人の三世」を置く習俗が残り、戸棚の鍵を管理する家長をこう呼ぶことがあった。
遺産と影響[編集]
ニコライ3世の影響は、行政史よりもむしろ書式文化に強く残ったとされる。現在でも北部の一部公証所では、重要書類の欄外に三本線を引く慣行が残っており、これは第三権限の痕跡と説明されることがある。
また、所蔵の『第三王号配当簿』は、港湾官僚の机上政治を示す資料として研究対象になっている。ただし、同書の第14頁には明らかに子どもの筆跡で「ニコライ3世はたぶん魚の名前」と書かれており、史料批判の必要性を象徴する一例として有名である[4]。
研究史・評価[編集]
ニコライ3世をめぐる研究は、長らく帝政末期の地方制度史の一部として扱われてきたが、1980年代以降は儀礼人類学の文脈でも論じられるようになった。とりわけのマルガレット・サンダーソンは、これを「書類による王権の代替装置」と呼び、現地調査で収集した印鑑の摩耗具合から実効性を論じた。
一方で、のセルゲイ・プリヴァロフは、ニコライ3世はそもそも単一の制度ではなく、船舶登録・婚姻許可・塩税免除の三制度が後世に統合されたものだと主張している。どちらの説も決定打に欠けるが、近年では「便利だったから広まった」という実務起源説が比較的有力である。
脚注[編集]
[1] ただし、当初の名称は「第三臨時ニコライ令」であったとする史料もある。
[2] この議録はに清書されたが、本文より余白の方が長いことで知られる。
[3] 近年の紙質分析では、会議録の一部が後年の補筆である可能性が指摘されている。
[4] 同頁には魚拓のような塩の染みも確認されている。
関連項目[編集]
脚注
- ^ アレクサンドル・ヴェリチコフ『黒海沿岸における第三王号の成立』帝国文庫, 1898.
- ^ M. Sanderson, "Ritual Kingship and Paper Sovereignty in the Northern Littoral", Journal of Maritime History, Vol. 18, No. 2, 1996, pp. 113-141.
- ^ セルゲイ・プリヴァロフ『港湾書式と称号行政の比較研究』モスクワ歴史叢書, 2004.
- ^ Ivan Petrov, "The Nicholas III Problem: A Bureaucratic Crown in the Caucasus", Slavic Studies Review, Vol. 27, No. 4, 1987, pp. 201-229.
- ^ エレーナ・ヴォロビヨワ『ニコライ3世のための七つの潮』黒海詩人協会刊, 1883.
- ^ N. Akhundov, "Seal Marks and Trifold Authority on the Caspian Coast", Caucasus Historical Quarterly, Vol. 9, No. 1, 1972, pp. 44-63.
- ^ 『帝国称号整理院年報 第12巻第3号』帝国称号整理院, 1909.
- ^ 渡辺精一郎『東方港湾儀礼史』港湾文化研究会, 2011.
- ^ Olga S. Karpenko, "Nicholas III as a Seasonal Office", Review of Invented Imperial Institutions, Vol. 5, No. 1, 2018, pp. 1-26.
- ^ 『第三王号配当簿解題』オデッサ国立図書館調査室, 1994.
- ^ Mikhail Voronin, "Why Was the Number Three Painted in Red?", Baltic and Black Sea Notes, Vol. 2, No. 7, 1961, pp. 77-88.
外部リンク
- 帝国称号整理院デジタルアーカイブ
- 黒海書式史研究会
- ヤルタ文書会議資料館
- 第三王号民俗博物誌
- オデッサ港湾公証史センター