ハナノオパンティ
| 名称 | ハナノオパンティ |
|---|---|
| 読み | はなのおぱんてぃ |
| 英名 | Hananoo Panty |
| 起源 | 1890年代の横浜港周辺とされる |
| 分類 | 装飾下着・識別衣料 |
| 用途 | 儀礼、興行、個人識別 |
| 流行期 | 大正末期 - 昭和30年代 |
| 主な生産地 | 神奈川県、東京府下の小規模縫製工房 |
| 代表的資料 | 港湾服飾史料帳、花縫会記録 |
ハナノオパンティは、後期ので考案されたとされる、花弁状の装飾布を前面に配した下穿きの総称である。もとは向けの識別具として始まったとされるが、のちにやを経て、独特の美意識を伴う生活文化へ発展したとされる[1]。
概要[編集]
ハナノオパンティは、布地の一部に花弁を模した縫い込みや重ね合わせを施し、前面の装飾を強調した下穿きの一種であるとされる。の外国人居留地周辺で、に従事する者の識別のために考案されたという説が有力である[2]。
のちにの洋裁店や女学校の制服補修係のあいだで改良が進み、通常の実用品というより、季節の行事や舞台衣装の内部構造として使われることが増えた。なお、1934年にが行った調査では、同種の意匠を持つ布帛が関東一円に少なくとも42種確認されたとされるが、この数値の算定方法には異論がある[3]。
起源[編集]
港湾識別具としての成立[編集]
最初期のハナノオパンティは、ごろの倉庫街で、荷札が破れやすい季節に備えて考案されたとされる。作業者が互いの班を見分けやすいよう、前面に花形の当て布を付けるのが慣例となり、これが「花の尾」を意味する俗称の由来になったという[4]。
この用途は、雨天でも色落ちしにくい藍染め木綿を用いることで安定し、単なる記号としての布片が次第に「見せるための飾り」として扱われるようになった。とくにの仕立屋・杉浦喜三郎は、花弁の枚数を5枚から7枚に増やす改良を施したとされ、以後の標準型の原型になった。
洋裁学校による再解釈[編集]
、の教師であった秋山としは、既製品の補修技法としてこの意匠を授業に取り入れた。生徒の間で、ハナノオパンティは「下着の上に咲く花」として詩的に再解釈され、卒業制作に採用する者も出たという。
一方で、当時の記録には、前後を誤って着用した受講生が2名おり、講評会で教授が30分以上かけて着脱順を説明した逸話が残る。これが結果として、ハナノオパンティの「正しい着方」を巡る教育的規範を生んだとされる。
見世物興行への流入[編集]
10年代になると、の小劇場や移動興行で、花弁の開閉を舞台装置と連動させる演出が現れた。これによりハナノオパンティは、単なる衣料ではなく、演者の所作によって完成する半可動式の表現媒体と見なされるようになった[5]。
とりわけの看板演目『七輪の朝顔』では、終盤に花弁が扇状に広がる構造が観客の拍手を呼び、1公演あたり平均17秒の静寂が発生したと報告されている。なお、この静寂時間は警備員の記録を基に算出されたとされるが、計測器の名称が不明である。
構造と製法[編集]
標準的なハナノオパンティは、表地、内張り、補強帯、花弁縫合部の4層で構成されるとされる。花弁部にはを細く裁断した芯材を仕込み、湿気を受けても形崩れしにくくする工夫が加えられた。
製法の中心となったのは「三回返し縫い」と呼ばれる方法で、通常の下着よりも縫い目が12〜14針多い。このため、熟練工1人が1日に製作できるのは平均6着程度であり、繁忙期にはの協力工房から応援が送られた。なお、1917年の見本市では、誤って花弁数13枚の試作品が展示され、「過剰な開花」として新聞に短く取り上げられた[6]。
流行と受容[編集]
初期には、祝祭用の衣装や寄席の小道具としての需要が増え、の呉服店が縮小版を販売したことで一般層にも知られるようになった。とくに「朝顔型」「椿型」「梅雨戻り型」の3系統が人気で、世帯ごとに好みが分かれたとされる。
また、に実施された東京市内の小規模聞き取りでは、既婚女性の約18%、未婚女性の約11%が「名前だけは知っている」と回答したとされるが、回答用紙の回収率は56%にとどまった。これが需要の実態を正確に示すかどうかについては、後年まで議論が続いた[7]。
批判と論争[編集]
ハナノオパンティは、その装飾性の強さから「実用性を逸脱した衣料」であるとして、12年ごろに一部の婦人団体から批判を受けた。とくに、花弁部が洗濯機に絡まりやすいという苦情が多く、は簡易版の採用を勧告した。
一方で、服飾史研究者の白河良江は、これを「身体と記号の境界を曖昧にした民間美術」であると擁護した。ただし彼女の論文『下穿きにおける前景化の問題』は、引用元の3分の1が裁縫学校の会報であり、学術性に疑義があるとの指摘もある[8]。
衰退と再評価[編集]
、量産下着の普及とともにハナノオパンティは急速に姿を消したが、の万博関連の民芸紹介展で再発見され、資料保存の対象となった。保存会によれば、現存する完全形は国内に27点、断片資料を含めると84点にのぼるとされる。
1990年代には、の若手衣装デザイナーらが舞台衣装へ転用し、花弁部だけを極端に拡大した「拡大型ハナノオパンティ」が話題になった。もっとも、これはもはや原型の思想から離れているとして、古参研究者のあいだでは「分類上は近縁だが別種」とする見解が優勢である。
社会的影響[編集]
ハナノオパンティは、下着を単なる隠蔽具ではなく、所属・季節・気分を示す記号へと変換した点で注目される。とりわけ後の共同生活では、洗濯後に誰のものか判別するための目印として機能し、近隣の人間関係を円滑にしたとされる。
また、児童向けの図画教科書にも「花のかたちのしるし」として簡略化された図が載った時期があり、これが全国にゆるい親近感を広めたという説がある。なお、1972年にの生活文化番組で紹介された際、スタジオ出演者の1人が名称を3回連続で噛み、放送後に「言いにくい生活史」として社内資料に残された。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 杉浦喜三郎『港湾衣料の変遷と花弁装飾』関内文化出版, 1938年.
- ^ 秋山とし『女子洋裁講習所年報 第7巻第2号』横浜女子工芸会, 1910年.
- ^ 白河良江『下穿きにおける前景化の問題』服飾民俗学雑誌 Vol.12, pp.44-63, 1964年.
- ^ 帝国服飾研究所 編『関東装身具調査報告書』帝国服飾研究所, 1934年.
- ^ 佐伯正雄『浅草小劇場と装飾下着の受容』芸能史研究 Vol.8, pp.101-129, 1971年.
- ^ 村上絹子『花縫会記録抄』花縫会資料室, 1952年.
- ^ Harold P. Wexler, The Petal Underwear Movement in Late Meiji Yokohama, Journal of Imaginary Textiles, Vol.3, pp.88-114, 1987.
- ^ Margaret A. Thornton, Dress Codes of the Port Cities, Cambridge Maritime Press, 1991.
- ^ 田島由紀『戦後民芸と拡大型ハナノオパンティの分類』民俗と生活 第18号, pp.7-21, 1998年.
- ^ 『言いにくい生活史――NHK番組制作覚え書き』日本放送協会内部資料, 1972年.
外部リンク
- 花縫会アーカイブ
- 港湾服飾史研究センター
- 関内民俗資料室
- 装飾下着データベース
- 下穿き文化年表