パールルのようなもの
| 分野 | 宝飾・光学コーティング・官能評価 |
|---|---|
| 別名 | 真珠記憶型表面・Pearl-Trace Coating |
| 用途 | 模造宝飾、試作コスメ、透明樹脂の反射制御 |
| 起源とされる時期 | 19世紀末の「幻影真珠」研究(と説明されることが多い) |
| 主要指標 | 光沢指数P-7、肌当たり指標S-Φ(いずれも架空の指標) |
| 規格制定の主体 | 光沢評価研究会(日本宝飾系の任意団体として説明される) |
パールルのようなものは、やの文脈で用いられる、真珠に似た見た目だけでなく“質感の記憶”まで再現しようとする概念である[1]。日本では主に展示会のキャッチコピーとして広まり、業界標準化の試みも起きたとされる[2]。
概要[編集]
は、真珠に“似ている”という単純な比較を超え、光の散乱だけでなく、触れたときに感じる時間差(いわゆる質感の残像)まで模倣しようとする言い回しとして整理されることが多い[1]。
この概念は、展示用の装飾素材の開発現場から生まれたとされ、特に「正面から見た輝き」より「斜め角度での色の戻り」「指が離れた直後の肌面反射」を重視する傾向がある[2]。そのため、素材工学の用語でありながら、実際には職人の経験則(官能評価)が強く結びついているとされる。
一方で、定義は揺れているともされ、同じ展示会であってもA社はを“コーティングの分子設計”として語り、B社は“仕上げ工程の順番”として説明したという記録がある[3]。ただし、このズレが「怪しくて面白い」という理由で話題化した経緯も指摘されている。
成立と歴史[編集]
19世紀末:幻影真珠計画と“記憶反射”の発見[編集]
「パールルのようなもの」の起源として語られるのは、19世紀末の港町を拠点にした、宝飾商社の研究班であるの“幻影真珠計画”である[4]。計画の目的は、漁期のばらつきで入手が不安定になる真珠の供給を、安価な基材に置き換えることだったとされる。
この計画では、光学実験の主観測定を合理化するため、指で撫でた直後の反射を「残像角度」として記録したとされ、担当者の一人である渡辺精一郎が、測定値を桁だらけの数式にまとめたと伝えられている[5]。その中で、残像のピークが必ず“7秒の窓”に現れると主張され、これが後の「光沢指数P-7」の原型になったと書かれることがある[6]。
なお、当時の社内メモでは「真珠は円いが、幻影真珠は丸くない角度に宿る」との比喩があり、実験室の壁に貼られていたとされる。ただし、当該メモの現物は所在が不明であり、後年の聞き取り記録から復元されたとも言われる。
昭和期:銀座の試作競争と“職人官能の数値化”[編集]
次の大きな転機は30年代、の、とりわけ周辺で起きた“光学フェア”の競争期であると説明される[7]。具体的には、百貨店の地下催事場で、同一の照明(色温度2,850K、照射時間14秒)下で作品を比較するイベントが常態化したとされる。
このとき、各社は表面の微細構造を“真珠の層”に見立てるだけでは差がつかず、結局は「指で触れたときの戻りの速さ」を競うようになったとされる[8]。ここで登場するのが、触感を数値化するという奇妙な発想で、試作職人がタイルの上で手袋を外すタイミングを0.2秒単位で揃えようとした記録がある[9]。
また、が任意団体として名乗りを上げ、S-Φ(肌当たり指標S-Φ)を“官能テストの平均から逆算して作った”とする証言が残る[10]。この指標は当初から物理学的妥当性が薄いと批判されながらも、結果として広告文の統一に成功したため、逆に神格化された面がある。
平成〜令和:規格化の失敗と“展示会語彙”としての定着[編集]
平成期以降は、材料メーカーがとの組み合わせで量産を狙い、言葉の中身を“技術要件”に落とし込もうとしたとされる[11]。しかし、要件化の過程で「どの角度を“記憶”と見なすか」が会社ごとに異なり、規格文書が“読み手の経験を前提にしすぎている”と指摘された[12]。
そのため、最終的には規格ではなく語彙として残り、展示会の説明では「パールルのようなもの=(見た目+触感+時間差反射)」のように、括弧付きで逃げ道を確保する形式が採用されたとされる[13]。さらに、一部の自治体の文化イベントでは、ジュエリーと工業デザインを混ぜる企画として採用され、の刈谷会場で来場者アンケートが「本当に真珠?の質問は必ず減るのに満足度は上がる」といった結果になったとも報じられている[14]。
このように、概念は“測れないものを測ったふりをする”ための便利な呼び名として定着したとまとめられてきた。
概念の特徴[編集]
は、主に三層の要素から構成されるとされる。第一に、表面の微細な反射構造(見た目)であり、第二に、光の入射角が変わった際の色の戻り方(体感)である。第三に、指や布が離れた直後に起こる“反射の立ち上がり”を、残像として体感させる工程(記憶)だと説明されることが多い[2]。
技術的には、厳密な理論で語られるより、工程管理の作法が重要視されたともされる。たとえば、研磨→洗浄→乾燥→コーティング→再研磨の順番を、各社が“体感で最適化した”とされる点が挙げられる[15]。ここに、5分間の待機工程(乾燥室で湿度48%に固定)が効くとする証言があり、工程表の端にだけ手書きで「待って、反射が落ち着く」などと書かれていたという。
ただし、こうした特徴は真珠そのものと同等ではないとされ、むしろ「似せた結果として、別の魅力が出る」方向に進化したと整理されることもある。とりわけ、模造品にありがちな“安っぽい均一さ”を避けるため、わざと不均一性を残す設計が推奨されたとされる[16]。
社会的影響[編集]
は、ジュエリー市場だけでなく、“素材を語る言葉”の市場にも影響したとされる。従来は「何でできているか」が前面に出ていたが、この概念以後は「触ったあとどう感じるか」が説明の中心へ移ったという指摘がある[17]。
また、職人と企業の関係にも変化が生まれたとされ、企業側は数値化できる工程を増やす一方で、職人側は“数値では再現できない何か”を守るため、評価票の提出を渋ったとされる[18]。その結果、の試作競争では、職人の名指しで勝敗が決まることがあり、ニュースとして地方紙にも掲載されたとされる。
教育面では、大学のデザイン学科で「触感の記憶を言語化する授業」が一時的に流行したとされ、授業名がなぜか「P-7演習」になったことがある[19]。ただし、現場では“測定しているのは気分では?”という疑いも出て、最終的にはアンケート中心に戻ったとも報告される。
批判と論争[編集]
批判として最も多いのは、が科学というより広告の語彙になっている点である。とくに、光沢指数P-7やS-Φのような指標が“測っているようで測っていない”という疑義が繰り返し出たとされる[20]。ある研究会の議事録では「P-7は測定値ではなく、誰が触ったかで変わる」と書かれていたとされるが、当該ページは後に差し替えられたとも言われる[21]。
また、過剰な模倣が倫理的に問題になった可能性も指摘されている。ある展示会では、来場者に“真珠の錯覚”を起こさせる演出が行われ、「知らないまま買う人を増やすのではないか」との声が出た[22]。一方で、メーカー側は「錯覚ではなく、体験の拡張だ」と反論したとされる。
なお、論争のオチとして、ある企業が「当社はパールルのようなものを“本物より美しく”作っている」と広告したところ、問い合わせ窓口に「本物より美しいのに、なぜ本物の真珠を併設しているのですか?」という苦情が約312件来たとされる[23]。この数字は担当者のメモに由来するとされ、社内で“312件=銀座の天気が晴れだった日数”とこじつけられたという逸話が知られる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『幻影真珠計画の記録(社内写本)』越海商社科学係, 1896.
- ^ 佐伯瑛子『宝飾材料の光学と触感(第1巻)』東京光学出版, 1958.
- ^ Martha L. Henshaw「Pearl-Trace Surfaces and the Myth of Measurement」『Journal of Cosmetic Tribology』Vol.12 No.3, 1974, pp. 141-169.
- ^ 中島秀治『光沢の統一規格はなぜ失敗したか』銀座編集局, 1983.
- ^ Y. Tanaka『Angle-Dependent Color Recovery in Laminated Films』『Applied Surface Memory』Vol.7 No.1, 1992, pp. 25-41.
- ^ 光沢評価研究会『P-7演習報告書(要旨集)』光沢評価研究会, 1999, pp. 3-19.
- ^ 田中俊哉『官能テストの統計設計と企業文化』日本感覚工学会, 2006.
- ^ S. Nakamura「S-Φ: A Proposed Index for Skin-Contact Reflection」『Proceedings of the International Luster Workshop』Vol.2, 2011, pp. 88-102.
- ^ 石川玲奈『展示会語彙としての素材工学』中央区文化史叢書, 2017.
- ^ 『新潟港から銀座へ:越海商社の系譜』越海港湾資料館, 2001.
外部リンク
- Pearl-Trace Database
- 光沢評価研究会アーカイブ
- 銀座素材フェア記録館
- 触感残像シミュレータ
- 越海商社科学係コレクション