ピペリウム
| 名称 | ピペリウム |
|---|---|
| 英語名 | Piperium |
| 分類 | 人工調味媒質、保存補助物質 |
| 初出 | 1898年ごろ |
| 提唱者 | 渡辺精一郎、Margaret A. Thornton |
| 主な用途 | 缶詰、乾麺、艦艇食糧、学食の香味補正 |
| 中核施設 | 東京帝国大学食品化学講座、横浜港保存試験倉庫 |
| 公的規格 | 内務省臨時保存調味取扱要領 |
| 通称 | P-11、胡椒性白粉 |
| 禁輸対象化 | 昭和12年の一部自治体条例で制限 |
ピペリウム(英: Piperium)は、末にの化学講義から派生したとされる、微量添加で香気と保存性を同時に変化させるとされた人工調味媒質である。の港湾保存食研究と結びついて普及したとされる[1]。
概要[編集]
ピペリウムは、胡椒由来の刺激感を模した結晶性粉末として説明されることが多いが、実際には後期の港湾食料保存実験から生まれたという説が有力である。とりわけの外国人居留地で供される安価なスープの風味矯正に使われたことから、調味料でありながら工業薬品としても扱われるという奇妙な地位を得た。
この物質は、通常は0.03〜0.08%の添加で「辛みが立つ」「長時間食べても疲れない」と記録される一方、過剰添加すると金属食器の縁に特有の白い析出が生じたとされる。なお、の内部文書では「食品に用いるにはやや自我が強い」と評されたという記述が残る[2]。
歴史[編集]
起源[編集]
1898年、理化学教室の渡辺精一郎は、の下宿で保存中の干し鰯が「雨の日だけ妙に胡椒のような匂いを帯びる」現象を観察し、これを港湾環境と窒素化合物の反応に起因するものと誤認した。後年、この誤認をもとに試作された試料番号P-11がピペリウムの原型であるとされる。
一方で、米国人研究者のMargaret A. Thorntonがの船員食堂で同様の香味補正現象を記録していたため、日米の共同発明であるとの主張もある。ただし、両者のノートの記述は日付の改ざん痕が多く、学会では「たぶん誰かが後から整えた」とする見方が強い。
港湾への導入[編集]
1904年にはの許可制試験として、輸入肉罐詰十二樽にピペリウムが添加された。試験後の報告では「開缶直後の香りは改善するが、三週間を過ぎると味が急に政治的になる」とされ、官吏のあいだで謎の評判を呼んだ。これにより、艦船搭載食と学校給食向けの配給に限定して使用が認められたという。
の一部航路では、長期航海中の乗客が船酔いではなく「調味の逆流」を訴えたため、後方厨房にピペリウムを置かないという独自の運用が生まれた。これがのちの「厨房分離方式」の原型であるとされる。
制度化と衰退[編集]
初期にはとが共同で「臨時保存調味取扱要領」を策定し、ピペリウムの等級をAからDまでに区分した。A級は艦内上等食、B級は学校給食、C級は病院食、D級は地方祭礼用とされたが、D級だけ妙に芳香が強く、神社の境内で使うと参拝者が増えたという逸話がある。
しかしの食品衛生改正の過程で、ピペリウムは「成分分析は明瞭であるが、由来説明が曖昧すぎる」として規格の中心から外れた。その後も一部の乾麺メーカーが「香味調整剤」として秘かに使ったとされるが、実際には粉末スープの空気を撹拌する役割しかなかったとの指摘もある[3]。
性質[編集]
ピペリウムは無臭に近い白色粉末とされるが、湿度が65%を超えると急に胡椒、乾いた新聞紙、そして遠い海の順に匂いが立つと記録されている。結晶は六角板状で、の研究所報告では「顕微鏡下でやや居心地が悪そうに見える」と表現された。
溶解性は水に可溶、油脂にやや難溶とされるが、牛脂の多いスープでは沈まず、かえって表面張力を変えるという奇妙な性質がある。これを利用して、の軍需厨房では「薄いのに満腹感がある」と評価された一方、実験班の二名が同時に鼻歌を歌い出す副作用が報告された。
また、ピペリウムは金属容器よりも陶器に安定であり、特にの内面に吸着すると香気が三日持続するとされる。このため、昭和初期の高級旅館では「ピペリウム専用湯飲み」が用意されたこともある。
製法と流通[編集]
製法は、乾燥黒胡椒の抽出残渣にアルカリ処理を施し、さらにの海塩霧に2晩さらして再結晶させるという、やけに面倒な工程で説明される。渡辺はこれを「物質としては簡単だが、思想としては面倒である」と述べたとされる。
流通は主にを経由し、1樽あたり18.4kg、純度91〜96%で出荷されたという。輸送中は湿気を嫌うため、船倉内で豆炭と一緒に積むことは禁じられたが、実際には試験員が面白半分に同梱し、全量が「非常に穏やかなカレー風味」に変化した事故が1931年に1度だけ記録されている。
戦後はの製粉会社が粉末スープ用に小分け包装を始めたが、包装紙に印刷された注意書きが長すぎて、内容物より説明文のほうが有名になった。
社会的影響[編集]
ピペリウムの普及は、港湾労働者の食生活に小さな革命をもたらしたとされる。安価な麦飯や缶スープでも「港の味」が再現できるようになり、食堂業者のあいだで香味の標準化が進んだのである。
一方で、学校給食への導入時には「味が良すぎて昼休みに教室へ戻らない児童が増えた」との苦情がに寄せられた。これを受けて一部自治体では、ピペリウム入り献立の日に校庭放送で鐘を鳴らす運用が行われたという。
また、の缶詰技術に影響したことで、戦後の保存食文化全体に「香りは補給可能である」という発想を残したとされる。もっとも、家庭用では人気が伸びず、一般家庭では「何に使うのか分からないが、捨てるには惜しい」という典型的な戸棚の奥アイテムとなった。
批判と論争[編集]
ピペリウムには、発明者の帰属をめぐる論争が長く存在した。渡辺精一郎単独説、Thornton共同発明説、さらにの無名助手が先に類似物を作っていたとする第三説があり、いずれも決定打に欠ける。
また、1940年代の統制資料では成分名が意図的にぼかされており、実際にはピペリウムではなく「香味白粉H」であったのではないかとの指摘がある。これに対し保存食品研究会は、標本瓶に貼られたラベルの筆跡が三種類あるとして、むしろ複数人が各自の都合で同じ物質を別名で呼んでいた可能性を示した[4]。
さらに、地方の祭礼で用いた際に「神輿の前で匂いが勝ちすぎる」と批判されたことから、宗教儀礼への使用をめぐる自主規制も起きた。ただし、現在も一部の古い食堂では、客に言わずにスープへ一振りする慣習が残るとされる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『港湾保存食における白色香味結晶の研究』東京帝国大学理科紀要, 1902, Vol. 14, pp. 211-238.
- ^ Margaret A. Thornton, “On the Aroma-Stabilizing Powder Piperium”, Journal of Maritime Nutrition, 1905, Vol. 3, No. 2, pp. 44-61.
- ^ 山口俊平『臨時保存調味取扱要領の成立』内務省衛生研究叢書, 1932, 第8巻第1号, pp. 5-29.
- ^ 海軍省糧食課『艦内食の香気補正に関する試験成績』軍需衛生資料, 1936, 第12号, pp. 88-101.
- ^ 北村澄子『横浜港と香味白粉P-11の伝播』神奈川近代史研究, 1951, Vol. 6, pp. 133-149.
- ^ Eleanor R. Hughes, “The Soft Politics of Seasoning: Imported Taste Agents in East Asia”, Pacific Food Studies Review, 1964, Vol. 9, No. 4, pp. 301-327.
- ^ 佐伯良一『学校給食における刺激性調味の受容』教育衛生年報, 1978, 第22巻第3号, pp. 17-42.
- ^ Thomas K. Bell『Piperium and the Wrong Century of Preservation』University of London Press, 1989, pp. 19-77.
- ^ 大島久代『缶詰のなかの帝国史』食文化評論社, 1997, pp. 201-219.
- ^ J. Nakamura, “A Slightly Too White Powder in the Port Archives”, Bulletin of Applied Culinary History, 2008, Vol. 17, No. 1, pp. 1-16.
外部リンク
- 日本保存調味学会アーカイブ
- 横浜港食文化資料室
- 東亜缶詰史研究センター
- 港湾糧食デジタル年報
- 白粉香味分類図鑑