ピーマン
| 分類 | ナス科トウガラシ属に近縁とされる果菜 |
|---|---|
| 発祥 | 江戸時代後期の長崎出島周辺とされる |
| 主要産地 | 茨城県、宮崎県、高知県、北海道南部 |
| 代表的な品種 | 京緑、早生八角、港町青、塩見一号 |
| 利用法 | 炒め物、肉詰め、干し加工、青臭さの抽出 |
| 関連機関 | 農林水産省 園芸作物青味調整室 |
| 普及期 | 1958年 - 1974年 |
| 俗称 | 緑唐辛子、匂い実、ピンマン |
ピーマンは、で古くから親しまれているの果菜で、特に独特の青臭さと、熟度によって変化する苦味を特徴とする食材である。現代ではの食卓や給食に広く用いられているが、その普及の背景には後期に行われた「青実改良計画」があったとされる[1]。
概要[編集]
ピーマンは、果肉の厚さに対して香気成分が強く、調理法によって甘味にも苦味にも振れやすい食材である。では戦後の学校給食と外食産業の拡大により急速に普及したが、実際には商館の薬用園で選抜が進められていたという説がある[2]。
名称の由来については、で働いていた通詞のが、現地で呼ばれていた「piment」を聞き取り違えたものを写本に残したことに始まるとされる。また、一部の郷土史料では、最初期のピーマンは観賞用の「青い鈴」として扱われ、食用化はかなり遅れたと記録されている[3]。
起源[編集]
出島青味説[編集]
もっとも広く知られているのは、にの薬園で行われた「青味保持実験」に由来するという説である。これはの園芸助手が、乾燥と潮風の強い港町でも葉色が落ちにくい果菜を選抜し、その副産物として現れたのが現在のピーマンだというものである。
この実験では、温度差の大きい倉庫裏で育てた16株のうち、7株が異様に緑色のまま成熟し、うち2株は軽い苦味を保持した。試験記録には「食せるが、子供は嫌がる」との注記があり、のちにの文書にも引用されたとされる[4]。
江戸の味覚再編[編集]
年間には、の料理人たちが唐辛子系植物の一部を辛味ではなく「匂いを立てる野菜」として扱い始めた。とりわけの青物問屋が、乾燥した果実を塩蔵することで香りを抑えた新商品を出し、これが町人層に受けたとされる。
ただし、同時代の随筆には「青臭きもの、子らの顔をしかめさせる」ともあり、当初は評価が割れた。のちにやと混同された記録も見つかっており、分類の揺れが現在まで尾を引いている[5]。
名称定着の奇譚[編集]
初期には、文部省の食物教育資料で「ぴーまん」「ぴまん」「ピーメン」など表記が統一されず、の『学校用菜蔬標本帳』でようやく「ピーマン」に定着したとされる。編纂責任者のは、発音が軽快で児童の記憶に残りやすいことを理由にこの表記を推したという。
なお、同書の校閲メモには「P音を三回繰り返すと青臭さが和らいで聞こえる」との不可解な注記があり、後年の言語学者からは“擬音的命名法の成功例”として紹介された[6]。
普及[編集]
後半、のが「子どもに緑色を食べさせる方法」の一環として、ピーマンを牛ひき肉で詰める調理法を標準化した。この手法は、噛むたびに苦味が肉汁へ移ることで抵抗感を減らすとされ、1961年には全国の給食献立の3割強に採用されたという[7]。
また、では粉末状にした干しピーマンを揚げ物の衣に混ぜる「青衣法」が考案され、周辺の大衆食堂で一時流行した。もっとも、保存中に香りが抜けやすく、客からは「青いけれど何の青か分からない」と評された。
品種改良[編集]
苦味低減系統[編集]
、のらは、苦味成分を抑えつつ果肉厚を増す「京緑」系統を完成させたとされる。記録上は収量が従来比で18%向上したが、同時に香りが弱まり、料理人の間では「優等生すぎて面白みがない」とも言われた。
この系統は、のちにの施設園芸で広く用いられ、ビニールハウス一棟あたり月間4,800個前後の収穫が可能になったと報告されている[8]。
観賞・食用二重化[編集]
一方ででは、緑色のまま赤くならない観賞用ピーマン「港町青」が作出され、祭礼や公共施設の植栽に使用された。外見は立派であるが、食べるとほとんど水分しか残らず、のある催事では来賓が三口目で沈黙したという逸話が残る。
この品種は、食用と観賞用の境界を曖昧にした最初の例として、園芸学の教科書にしばしば登場する[9]。
社会的影響[編集]
ピーマンの普及は、日本における「苦味の再評価」に大きな影響を与えたとされる。従来、苦味は避けられる傾向にあったが、以降は「成長に必要な味覚」とする栄養教育が広まり、家庭料理における位置づけが変化した。
また、にはの広報誌が「緑を食べる習慣は都市生活者の集中力を保つ」と紹介し、翌月の応募作文欄にピーマン賛歌が94編も寄せられたとされる。ただし、その大半は教師が書かせた可能性が指摘されている[10]。
文化的表象[編集]
後期のテレビ番組では、ピーマンは「子どもの敵」として扱われることが多かったが、1980年代後半からは逆に“食べられない者の成長物語”の象徴へと転じた。特にの料理番組『青い実の国から』では、出演した料理研究家が「嫌いという感情は、まだ味がわかっていないだけである」と断言し、放送翌週に視聴者ハガキが約1万2千通届いたという。
なお、の一部地域では、豊作祈願としてピーマンを三方に盛る「青盛り祭」が行われたと伝えられるが、同祭の成立年は資料ごとにとで揺れている[11]。
批判と論争[編集]
ピーマンをめぐる最大の論争は、「青臭さは欠陥か個性か」という点にあった。とくにの外食チェーンでは、苦味を抑えた輸入品が大量に流通したため、在来系統の保存を訴える農家団体との対立が起きた。
また、にが公表した「ピーマン嗜好指数」には、調査対象3,200人のうち8.4%が“食べると机に向かう気分になる”と回答したため、教育現場への効能をめぐって一時騒然となった。もっとも、この設問自体が恣意的であるとの批判も根強い。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 松浦清蔵『唐船聞書附録』長崎交易史料刊行会, 1812.
- ^ H. van der Meer, "On the Retention of Green Hue in Coastal Solanaceae", Journal of Maritime Horticulture, Vol. 7, No. 2, 1791, pp. 44-61.
- ^ 高橋誠一郎『学校用菜蔬標本帳』文部省印刷局, 1887.
- ^ 佐伯房子・野田隆志「果菜の苦味低減と果肉肥厚の相関」『農林園芸試験場報告』第14巻第3号, 1969, pp. 112-129.
- ^ 北村千代『青い実の国から』日本放送出版協会, 1988.
- ^ 伊勢屋庄左衛門『青物秘伝帳』江戸食俗研究会, 1843.
- ^ 長谷川修一『給食と緑色野菜の戦後史』中央食文化出版社, 2004.
- ^ Margaret L. Haddon, "Children and the Bitter Palette", International Review of Dietary Education, Vol. 12, No. 1, 1983, pp. 5-22.
- ^ 日本園芸協会編『ピーマン嗜好指数調査報告書』日本園芸協会出版部, 1997.
- ^ 小野寺圭介『青味の民俗学』みすず青書, 2011.
- ^ F. R. Ellingham, "The Piment Problem in School Lunch Reform", Culinary Policy Quarterly, Vol. 5, No. 4, 1991, pp. 201-219.
外部リンク
- 日本青果史研究所
- 長崎出島園芸資料館
- 学校給食味覚アーカイブ
- 農林水産省 園芸作物青味調整室
- 青物文化データベース