フ糾ねこもとクーデター
| 事件名 | フ糾ねこもとクーデター |
|---|---|
| 年月日 | 1890年11月3日-11月5日 |
| 場所 | 長崎県対馬・厳原周辺 |
| 結果 | 鎮圧、首謀者の一部逃亡 |
| 交戦勢力 | 対馬臨時維持派 / 島政連絡団・ねこもと派 |
| 指導者・指揮官 | 古賀宗一郎、根本キヨシ、フ糾十次郎 |
| 戦力(兵数) | 維持派約430名、蜂起側約280名 |
| 損害 | 死者17名、負傷者41名、拘束者63名 |
フ糾ねこもとクーデター(ふきゅうねこもとクーデター)は、23年()にで起きたである[1]。島嶼通信網の再編をめぐる対立がの分裂を招き、短時間の武力衝突ののち地方行政が一時的に麻痺した事件として知られる[2]。
背景[編集]
フ糾ねこもとクーデターは、後期におけるの通信・徴税・警備の三権分立をめぐる混乱に端を発した事件である。とりわけ港に設置されたの管理権をめぐり、旧来の港務官僚と新設の島政連絡委員会が対立し、これに地元の漁業組合が加わったことで事態が先鋭化したとされる[3]。
当時のは、対馬を対監視の前進拠点として再編する方針を進めていたが、島内ではこれに反発する「ねこもと派」と呼ばれる急進的な有力者集団が形成されていた。ねこもと派は、旧系の海運ネットワークを背景に、独自の物資配給表と夜間通信符号を運用していたことが知られる。また、彼らが用いた符牒の一つに「フ糾」があり、これは「府糾合」の略とする説と、港湾倉庫の荷札番号を誤読したものとする説がある[4]。
直前の状況として、9月から10月にかけて島内で米価が急騰し、の兵站が著しく逼迫していた。このため、古賀宗一郎ら維持派は厳原の役場前に臨時の配給所を設けたが、これがかえってねこもと派の「統制飢餓」批判を招いた。なお、当時の記録には、役場前で配られた麦飯の量が「一人あたり二合四勺」であったとするものが残るが、実数はやや誇張されている可能性があるとの指摘がある[5]。
経緯[編集]
開戦[編集]
クーデターは未明、の裏手に集結したねこもと派が、県令宛の嘆願書を装った布告を掲げて一斉に蜂起したことにより始まった。彼らは島政連絡局の木造庁舎を包囲し、同時にの通信櫓を遮断したため、外部との連絡は約7時間にわたり途絶したとされる[6]。
首謀者と目されるは、もともとで航路測量に従事していた元技師であり、帰島後に独自の「港税清算理論」を唱えて支持を拡大した人物である。彼はフ糾十次郎と連携し、夜間に赤布を巻いた小舟12隻を用いて側から兵を搬入したと記録されているが、この数については県警報告と新聞記事で8隻から15隻まで差があり、史料上の不一致が大きい。
展開[編集]
4日昼、維持派は第2分遣所から砲一門を引き出し、港湾倉庫街に布陣した。ここで初めて銃撃戦が発生し、特にの石段付近では、味方識別のために白い手袋をはめた民兵が誤認射撃を受ける事故が起きたとされる。これにより蜂起側は一時後退したが、代わって市場通りの酒造蔵が臨時の野戦本部として使われ、通信符号の伝達速度がむしろ上がったという[7]。
この段階で事件の転機となったのが、内部の下士官であったの離反である。吉良は、ねこもと派が配給帳簿を改ざんしていないことを示す一揆文書を携えて維持派本部に出頭したが、逆にその場で「帳簿の字が整いすぎている」と疑われ、混乱を拡大させた。結果として、両派ともに相手方の補給台帳を没収することに集中し、実戦よりも文書奪取が主戦場として行われたとの指摘がある。
結末[編集]
朝、から臨時派遣された巡査隊がに到着し、港前の土蔵群を制圧したことで、蜂起は急速に瓦解した。根本キヨシはの干潮を利用して逃走を図ったが、漁民の網に舟が絡まり失敗したとされる。フ糾十次郎はその後、行きの密航船に潜伏したという説と、北部の寺に匿われたという説があり、決定的な史料はない。
最終的に、島政連絡局は廃止され、通信櫓は春に再建された。また、事件後しばらくは「ねこもと」の語が行政文書で使用禁止に近い扱いを受け、配給表の欄外に書かれた場合は朱線で抹消されたという。もっとも、こうした措置がどこまで徹底されたかについては、現存する書類の少なさから断定できない。
影響・戦後・処分[編集]
事件後、に相当する臨時裁判所で被告67名が審理され、うち主要関与者9名に禁錮刑、14名に島外追放、その他は執行猶予付きの戸籍移転処分が科されたとされる。特に根本キヨシについては、への流刑を命じられたが、途中で船員と気脈を通じて帳簿係に転じたという逸話が残る[8]。
一方で、この事件は対馬の行政機構に長期的な影響を与えた。まず、港湾通信の一元化が進み、には島内各所に「赤灯報知箱」が設置された。また、米価急騰への対策として、県は年3回の定期備蓄監査を義務化し、厳原の商家20軒が監査対象となった。これにより、島内の武装衝突は減少したが、代わりに帳簿改ざんへの警戒が異常に高まり、商人たちが毎月末に帳面を机上から下ろす風習を生んだともいわれる。
なお、地元ではこの政変が「島の近代化を数か月早めた」と評価される一方で、漁民の間では「港の荷札を複雑にしただけである」とする冷笑的な見方も根強い。古賀宗一郎は後年、で島嶼行政の顧問を務めたが、講演のたびに「クーデターというより配給表の乱れであった」と述べたと伝えられる。
研究史・評価[編集]
この事件をめぐる研究は、戦前期の郷土史家による英雄譚から、戦後の行政史・通信史研究へと大きく変化した。初期の著作では、ねこもと派を「海民自治の先駆」とみなす傾向が強かったが、以降は、補給線の断絶と簿記体系の混乱が暴発を招いたという実務的な分析が主流となった。
史料編纂所のは、1987年の論文で、事件の核心は武力蜂起ではなく「符牒の標準化をめぐる権威闘争」にあったと指摘した。これに対し、のは、島内の民衆が実際にはほとんど政治的関心を持っておらず、騒乱は数名の輸送業者による過剰反応に過ぎなかったとする説を提示した[9]。
ただし、近年の研究では、事件当夜に使用された赤布の材質がではなくであった可能性や、根本キヨシが事件前にで港税制度を学んでいた事実が再検討されている。とりわけのシンポジウムでは、港税改革案の草稿に「ねこもと」の走り書きが確認されたとされ、これが事後的な伝説か、あるいは当時すでに組織名として流通していたのかをめぐって議論が続いている。
関連作品[編集]
フ糾ねこもとクーデターは、地方政変としては珍しく文芸・映像作品の題材となっている。代表的なのは、12年にが発表した戯曲『厳原の赤灯』で、これは配給所の前で延々と帳簿を数え続ける人物像を通じて、群衆心理の不条理を描いたものとされる。
の映画『海鳴りのフ糾』は、のセットを用いて撮影された低予算作品であるが、港の石段が実在のよりやや急すぎたため、史実考証よりも登場人物の滑落シーンが有名になった。また、のラジオドラマ『ねこもとの夜』では、根本キヨシ役を演じた声優が「フ糾」という語を三種類のアクセントで読み分けたため、放送翌日に視聴者から問い合わせが殺到したという。
近年では、『FUKYU: Harbor of Doubt』が若年層に知られている。ゲーム内では、プレイヤーが配給表・通信簿・潮位表を同時管理しながらクーデターを鎮圧または支援する仕組みとなっており、発売後3週間で国内累計4万8,000本を販売したとされる。なお、隠しルートで「赤布をすべて白布に漂白する」ことで平和的解決が可能になるが、これは史実とは無関係である。
脚注[編集]
[1] 『対馬島政変記録草案』厳原町史編纂室、1912年。 [2] 山口晴夫「明治初期島嶼政変の地方的展開」『港湾史研究』Vol. 14, No. 2, 1974年, pp. 41-68. [3] 斎藤久美子『海底電線と島の近代』長崎文化出版会、1998年。 [4] N. H. Carter, “Symbols, Puns and Harbor Governance in Late Meiji Tsushima,” Journal of East Asian Maritime Studies, Vol. 9, No. 1, 2006, pp. 77-103. [5] 『厳原配給台帳』明治23年11月分、対馬郡役所文書。 [6] 田辺孝一「通信遮断と地方蜂起」『日本政変史叢考』第3巻第4号、1989年, pp. 12-29. [7] 大石みどり『港町の夜間衝突と市場秩序』九州大学出版会、2011年。 [8] Robert L. Finch, Harbor Mutinies of Northern Kyushu, Oxford Maritime Press, 2002. [9] 小田切澄子「帳簿の戦争としてのフ糾ねこもと事件」『史料と政変』Vol. 22, No. 3, 1987年, pp. 201-244. [10] 佐伯良三『厳原の赤灯』新潮社、1924年。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 『対馬島政変記録草案』厳原町史編纂室、1912年.
- ^ 山口晴夫「明治初期島嶼政変の地方的展開」『港湾史研究』Vol. 14, No. 2, 1974年, pp. 41-68.
- ^ 斎藤久美子『海底電線と島の近代』長崎文化出版会、1998年.
- ^ N. H. Carter, “Symbols, Puns and Harbor Governance in Late Meiji Tsushima,” Journal of East Asian Maritime Studies, Vol. 9, No. 1, 2006, pp. 77-103.
- ^ 『厳原配給台帳』明治23年11月分、対馬郡役所文書.
- ^ 田辺孝一「通信遮断と地方蜂起」『日本政変史叢考』第3巻第4号、1989年, pp. 12-29.
- ^ 大石みどり『港町の夜間衝突と市場秩序』九州大学出版会、2011年.
- ^ Robert L. Finch, Harbor Mutinies of Northern Kyushu, Oxford Maritime Press, 2002.
- ^ 小田切澄子「帳簿の戦争としてのフ糾ねこもと事件」『史料と政変』Vol. 22, No. 3, 1987年, pp. 201-244.
- ^ 佐伯良三『厳原の赤灯』新潮社、1924年.
外部リンク
- 対馬近代政変アーカイブ
- 港湾史資料室
- 島嶼通信網研究会
- 厳原郷土史デジタル館
- 明治地方騒乱索引