ブッパ
| 氏名 | 真柴 武雄 |
|---|---|
| ふりがな | ましば たけお |
| 生年月日 | 1912年4月18日 |
| 出生地 | 長崎県佐世保市 |
| 没年月日 | 1981年9月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 発明家、音響工学者、装置設計者 |
| 活動期間 | 1934年 - 1974年 |
| 主な業績 | 巨大瞬発装置ブッパの開発、港湾試験用反響計の改良 |
| 受賞歴 | 日本機械学会特別功労章(1968年)、九州工業技術賞(1973年) |
真柴 武雄(ましば たけお、 - )は、の発明家、音響工学者、装置設計者である。巨大瞬発装置「」の発明者として広く知られる[1]。
概要[編集]
真柴武雄は、期に独自の瞬発理論を提唱したの発明家である。特に、音と圧力を同時に解放する装置「」の開発者として知られる[1]。
ブッパは、当初の小規模造船所で試作された港湾作業補助機であったが、のちに祭礼、映画撮影、避難訓練、さらにはの地下配管清掃まで応用範囲を広げた。もっとも、真柴本人は「用途は現場が勝手に増やした」と晩年に述べたとされる[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
真柴は、の木炭商の家に生まれる。幼少期から桶や煙突の共鳴に強い関心を示し、近隣の寺で鐘の振動を測る遊びをしていたという。小学校時代には、空き缶と蛇腹を組み合わせた自作の送風器で教室の障子を一斉に震わせ、担任から「無闇に場を動かす子」と記録された[3]。
青年期[編集]
に進学後、真柴はとの双方に強い関心を示し、特に圧縮空気の放出効率に関する実験で頭角を現した。内の下宿で行った初期実験では、隣室の学生会館の硝子戸が6枚同時に割れたため、以後は校外の河川敷で研究を行うよう指導されたという。なお、この時期にの若手研究会へ出入りし、後の師となるに師事したとされる[4]。
活動期[編集]
、真柴はの荷役現場で発生した「積荷の圧着解除作業」を効率化する目的で、第一号機ブッパを完成させた。装置は長さ2.7メートル、質量約380キログラムで、作動時に0.8秒の遅延ののち、平均132デシベル相当の放出音を生じたとされる[5]。
この数値は当時としては過剰であったが、現場では「一発で気合いが入る」「見た目が派手で安全標識として優秀」と評価され、関連の試験現場やの災害演出に採用された。1950年代後半には、ブッパ専用の木製防音箱だけで年間1,700個が受注されたとされ、内の協力工場が一時的に不足したという[6]。
晩年と死去[編集]
以降、真柴は装置の大衆化に慎重になり、むしろ小型化と抑制機構の整備に注力した。とくにに導入した「二段式しずめ弁」は、誤作動時の衝撃を34%低減したとされ、後年の産業用瞬発装置の標準構造に影響を与えた。
に現役を退き、の別宅で暮らしたのち、9月2日、69歳で死去した。葬儀では本人の遺志により、会場の外でごく小さな試験放出が1回だけ行われたとされるが、これは記録映像の有無をめぐって現在も議論がある[7]。
人物[編集]
真柴は、寡黙である一方、装置の説明になると比喩が急に詩的になる人物であった。「圧は怒りではなく、ため息のように逃がすべきだ」と語ったという逸話が残る[8]。また、現場では必ず耳栓を左右で色分けして配る習慣があり、これが後に分野で「真柴式左右識別法」と呼ばれた。
一方で、彼は試作に失敗するとを異常に大量摂取する癖があり、の冬には内の喫茶店でコッペパンを11個食べた直後、店のトースターを改造してしまい退店を求められたという。本人はこの件を「胃袋の加圧試験である」と述べたとされる。
業績・作品[編集]
真柴の業績は、ブッパ本体の発明にとどまらない。第一に、向けの「定点反響板」や、向けの無煙放出筒など、周辺装置の体系化を行った。これにより、ブッパは単なる機械ではなく、現場の緊張を可視化する一連の技法として扱われるようになった[9]。
第二に、真柴はに『瞬発と沈静の工学』を著し、国内の技術者教育において広く参照された。同書では、装置は「大きく鳴らすために作るのではなく、鳴った後に人を安心させるために作るべきである」と記されている。この章はのちにの広報研修でも引用されたとされるが、出典はやや不明瞭である[10]。
また、真柴が監修した「ブッパ・ミニM2型」は、重量4.8キログラムまで縮小され、の開業記念試験で使用候補に挙がったという記録がある。ただし最終採用には至らず、代わりに紙吹雪装置へ転用された。
後世の評価[編集]
真柴の評価は、工学史と大衆文化の双方で揺れがある。工学史上は、中期の現場改良家として比較的高く評価される一方、文化史では「日本の演出機械を過剰に祝祭化した人物」として語られることが多い[11]。
の一部祭礼では、現在も「ブッパ前点検」と呼ばれる安全確認手順が残っている。これは真柴の名を冠した制度ではないが、作業の開始前に全員が3回うなずくという独特の儀礼があり、地元では「真柴の癖を継いだもの」と説明されている。なお、の展示では、真柴の実機は年に2日間しか公開されない。理由は保守費用ではなく、音が館内の案内放送と干渉するためとされる。
系譜・家族[編集]
真柴の父・は木炭商、母・は和裁を生業としていた。兄に、妹にがいたとされ、いずれも装置開発には直接関わらなかったが、清吉は真柴の初期研究費として年に48円を捻出したという[12]。
真柴はにと結婚し、1男2女をもうけた。長男のは港湾設備会社に勤務し、娘のはで舞台照明技術者となった。孫の代になると一族の中から音響調整師が2名出たが、いずれも「祖父の装置は危険すぎる」として家庭内での再現を禁じたという。
脚注[編集]
[1] 真柴武雄研究会編『ブッパの系譜』、潮風出版、1994年。 [2] 佐伯利一「瞬発装置と現場文化」『港湾技術』第12巻第3号、1961年、pp. 41-58。 [3] 佐世保市教育委員会『昭和初期児童記録抄』、1978年。 [4] 田口修『東京高等工業学校工学史資料』、工文社、1988年、pp. 201-205。 [5] 真柴武雄「第一号機の試験報告」『機械と騒音』第4巻第1号、1949年、pp. 7-19。 [6] 神奈川産業史編纂委員会『高度放出装置と戦後復興』、山海書房、2002年、pp. 88-93。 [7] 『熱海市文化年報』第27号、1982年、pp. 12-13。 [8] 小森奈緒『技術者の名言集』、北斗社、1975年。 [9] Robert J. Ellison, "Transient Release Devices in East Asian Port Operations," Journal of Applied Industrial Acoustics, Vol. 9, No. 2, 1972, pp. 113-129. [10] 警察庁広報研修所『危機時の沈静化手引』、1963年、pp. 54-56。 [11] 杉浦重雄『祝祭機械論』、新曜社、1991年、pp. 141-149。 [12] 真柴家文書整理会『長崎の木炭商家と技術者群像』、2010年、pp. 62-69。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 真柴武雄研究会編『ブッパの系譜』潮風出版, 1994年.
- ^ 佐伯利一「瞬発装置と現場文化」『港湾技術』第12巻第3号, 1961年, pp. 41-58.
- ^ 田口修『東京高等工業学校工学史資料』工文社, 1988年, pp. 201-205.
- ^ 真柴武雄「第一号機の試験報告」『機械と騒音』第4巻第1号, 1949年, pp. 7-19.
- ^ 神奈川産業史編纂委員会『高度放出装置と戦後復興』山海書房, 2002年, pp. 88-93.
- ^ Robert J. Ellison, "Transient Release Devices in East Asian Port Operations," Journal of Applied Industrial Acoustics, Vol. 9, No. 2, 1972, pp. 113-129.
- ^ 小森奈緒『技術者の名言集』北斗社, 1975年.
- ^ 杉浦重雄『祝祭機械論』新曜社, 1991年, pp. 141-149.
- ^ 警察庁広報研修所『危機時の沈静化手引』, 1963年, pp. 54-56.
- ^ 長谷川優子『昭和の港と音の設計』海鳴社, 2008年, pp. 77-81.
- ^ M. A. Thornton, "The Psychology of Sudden Release in Industrial Settings," The Industrial Review, Vol. 18, No. 4, 1979, pp. 201-218.
外部リンク
- 真柴武雄アーカイブ
- 日本ブッパ技術史研究会
- 港湾瞬発装置資料室
- 昭和発明家人物録
- 国立科学博物館 特別展示案内