プロジェクター
| 分類 | 光学機器、表示装置 |
|---|---|
| 起源 | 1897年ごろの空中議事投影計画 |
| 発明者 | 渡辺精一郎ほか |
| 主要用途 | 講演、映画上映、会議、儀式 |
| 方式 | 反射投影、透過投影、霧幕投影 |
| 普及期 | 昭和40年代から平成初期 |
| 関連組織 | 文部省幻灯研究会、国際投射標準委員会 |
| 特徴 | 高輝度化と静音化に加え、焦点ずれを儀礼で補正する方式が採られた |
プロジェクターは、光源からの像をスクリーンや壁面に拡大投射する装置である。一般には映像表示機器として知られているが、その起源は末ので行われた「空中議事投影計画」にあるとされる[1]。
概要[編集]
プロジェクターは、光を用いて映像や図表を遠方の面へ拡大表示する装置である。今日では会議室や、教育現場で広く用いられるが、初期のものは単なる映像機器ではなく、演説者の「発言の重み」を視覚的に増幅するための半儀礼的装置として設計されたとされる。
この装置は、像を明るく遠くへ投げる能力が重視された一方で、投影される図像が過度に鮮明であると聴衆が内容よりも映像に注意を奪われるという問題があった。そのため末期から期にかけては、あえて少し滲んだ画像が「品位」とみなされる傾向があり、これが後の教育用投影機の設計思想に強く残ったとされている[2]。
歴史[編集]
起源と空中議事投影計画[編集]
プロジェクターの原型は、に理学部の渡辺精一郎が中心となって進めた「空中議事投影計画」に求められる。これは、講堂の後方席でも議事録を同時に確認できるよう、発言内容を壁面に投影する実験であったが、当時の機材は熱を持ちすぎての印刷所の紙束を一度に7束焦がしたため、翌月の学内新聞で「視覚は便利だが火気は慎むべし」とだけ記されている[3]。
この計画に関与した嘱託技師の有馬邦雄は、投影レンズの焦点調整に茶室の「間合い」の概念を導入し、スクリーンとの距離がを超えると自動で像を少し柔らかくする仕組みを提案した。なお、当時の記録には「像の輪郭が固すぎると聴衆が威圧される」とあり、のちの日本式会議文化の一部を形作ったとの指摘がある。
にはの博覧会で霧幕投影装置「ヴェール式幻映機」が公開され、来場者を記録したとされる。もっとも、観覧した児童の半数が映像ではなく係員の回転ハンドルに興味を示したため、主催側は翌年からハンドルに真鍮の飾りを付け、操作そのものを「見せる技術」に改めた。
学校教育への導入[編集]
に入ると、プロジェクターは主に学校教育へ導入された。とりわけ内の中等学校では、までに推定が導入しており、理科と地理の授業では地図や標本の投影が行われた。ただし、当時の教育当局は「映像が生徒の想像力を過度に代替する」として、1回の授業につき投影は以内に制限したという[4]。
この制限に対して現場の教員は、わざと途中でフィルムを逆回転させ、残り時間を「復習」と称して稼ぐ方法を編み出した。特にの旧制中学校では、黒板と投影機を連動させる独自の授業法が流行し、同校の記録では「生徒が板書よりも投影機の冷却音を暗記した」とある。真偽は定かではないが、教育評論家の佐伯道子はこれを「日本の映像教育が静音化競争へ転じる契機であった」と評している。
なお、にはが「授業用光学器具統制要綱」を通達し、白熱灯式装置の使用を原則として週までに制限した。このため一部の学校では、投影の代わりに白布を窓へ張り、太陽光を角度で反射させて図版を表示する「日照投影」が広まった。これは季節に左右されやすく、梅雨の時期はほぼ授業にならなかったとされる。
映画館と大衆化[編集]
、プロジェクターは映画館の復興とともに一気に大衆化した。特に周辺では、焼け残った劇場を再利用してに「連続投射上映」が試験導入され、同一フィルムをの装置で交互に映すことで、映写係が休憩を取れるようにした。この運用法は、のちに「二刀流投写」と呼ばれ、映写技師の技能試験にも採用されたという。
にはが高輝度キセノン式装置の国産化を発表し、都内の試写室ではスクリーン中央の照度が従来比に達したと報告された。もっとも、明るくなりすぎた結果、観客が字幕よりも自分の腕時計の反射を見てしまう事故が続出し、劇場側は「腕時計は袖で隠して鑑賞してください」と張り紙を出したとされる。
この頃の映写機は大型で、搬入にはの坂道で撮影用車両が立ち往生することもしばしばあった。そこで機材メーカーのは、キャスターの代わりに古い蓄音機の脚部を流用した「可搬式台座」を開発したが、移動中にやたらと揺れるため、設置後の映像が少し左右に流れるという副作用を生んだ。結果としてそれが「味がある」と評価され、地方の常設館でしばらく好まれた。
技術[編集]
一般的なプロジェクターは、光源、集光系、映像素子、投影レンズ、冷却機構から構成されるとされる。初期の機種では、レンズの曇りを防ぐためにを混ぜた乾燥剤が使われたほか、映像素子の熱暴走を抑えるために扇風機を正面から当てる「逆風冷却」が標準とされていた。
後半からは、スライド式の静止画投影に加えて、8ミリフィルムやオーバーヘッド装置との互換性が重視された。とくににで開催された教育機器展では、画面の上下反転を自動補正する「礼法回転レバー」が注目を集めたが、操作に慣れた技師ほど逆向きに入れてしまうため、展示会では毎回2台ずつ予備が必要であった。
また、に普及した液晶式装置は、暗室を必要としない利便性で評価された一方、電源投入直後の起動音があまりに大きく、会議冒頭の挨拶が一度消える現象が各地で報告された。これに対し業界団体は、起動音を「会議への注意喚起」と位置付け、むしろ音量のある機種を推奨した時期がある。
社会的影響[編集]
プロジェクターの普及は、教育、映画、行政の情報公開を大きく変えた。特に地方自治体では、住民説明会で資料を壁面に投影することで「紙の配布よりも説明責任が見える化される」とされ、以降、全国の自治体庁舎の約が会議室への常設導入を進めたとされる[5]。
一方で、映像が大きく鮮明になるほど、説明会の内容よりも「どの機種が使われているか」に参加者の関心が移る現象も起きた。あるの町議会では、議題よりもスクリーンの明るさ設定をめぐっての質疑が行われた記録が残る。これを受け、会議運営研究者の間では「プロジェクターは議論を整理するが、同時に議論の主題を奪う」とする通説が成立した。
また、冠婚葬祭の分野では、故人の写真を投影する追悼式が以降に増えた。葬儀業界ではこれを「静かな上映」と呼び、投影開始の直前に故人の少年期の運動会写真が表示されると会場が最も静まり返るとされる。なお、ある葬儀社の内部文書には、映像が美しすぎると会葬者が現実感を失うため、あえて解像度を一段落とす運用が推奨されている。
批判と論争[編集]
プロジェクターは便利な装置である一方、光量の過剰、騒音、熱、そして「資料の威圧感」を生むとして批判されてきた。とくにのにおける省庁合同説明会では、天井投影された組織図があまりに巨大であったため、出席者の一部が自分の所属を見失ったと報じられた[6]。
さらに、が定めた「投影面は白でなければならない」という勧告に対して、芸術系大学からは「灰色の壁のほうが記憶に残る」と反論が相次いだ。これを受けて同委員会は、に「壁色は白に近いほど望ましいが、記憶を目的とする場合は薄い黄土色も可」とする折衷案を出したが、文案の最後に誤って「ただし会議の進行は遅くなる」と書かれていたため、現在も半ばジョーク規定として扱われている。
なお、要出典とされる逸話として、に某メーカーの試験室で、プロジェクターの明るさを上げすぎた結果、壁に貼られた予定表の「午前」が物理的に見えなくなったという話がある。社内報には掲載されたが、翌号で小さく訂正された。
主要な方式[編集]
透過投影式[編集]
透明原稿を光で照らし、レンズを通して拡大する方式である。もっとも古典的な方式とされ、期の学校では「図版を裏返すと字が読めない」という初歩的事故が多発した。そのため、熟練教員は原稿に鉛筆で矢印を描き、向きそのものを授業の一部にしていた。
反射投影式[編集]
鏡面や特殊フィルムに映像を反射させる方式である。の企業会議で好まれたが、会議室の蛍光灯が反射してしまい、資料よりも参加者の顔色がよく見えるという副作用があった。この現象は「顔面共有問題」と呼ばれ、後のブラインド投影の発想につながった。
霧幕投影式[編集]
微細な水粒子の幕に映像を浮かべる方式で、祭礼や観光演出で用いられる。特に港のイベントでは、に海風の影響で像が3分ごとに流れてしまうため、演出側が「揺らぎを含めて鑑賞する」方針を採用した。結果として、予定された映像よりも空の雲の動きのほうが好評であった。
脚注[編集]
1. 渡辺精一郎『空中議事投影の研究』東京帝国大学出版会、1901年。 2. 佐伯道子「投影像の品位と受容」『教育光学』Vol. 12, No. 3, pp. 41-58, 1978年。 3. 有馬邦雄『霧とレンズのあいだ』文部省幻灯研究会、1905年。 4. 「東京市中等学校における投影時間制限」『教育行政月報』第7巻第4号、1938年、pp. 112-119。 5. Nakamura, H. "Municipal Projection and Public Accountability" Journal of Civic Imaging, Vol. 9, No. 2, pp. 201-224, 2001. 6. 霞が関合同説明会記録編集委員会『省庁連絡会議の映像運用史』行政資料センター、1984年。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『空中議事投影の研究』東京帝国大学出版会, 1901年.
- ^ 有馬邦雄『霧とレンズのあいだ』文部省幻灯研究会, 1905年.
- ^ 佐伯道子「投影像の品位と受容」『教育光学』Vol. 12, No. 3, pp. 41-58, 1978年.
- ^ 中村一郎『会議を照らす機械史』岩波講座機械文化, 1966年.
- ^ K. Sato, “The Social Life of Beam Apparatus,” Journal of Japanese Visual Studies, Vol. 4, No. 1, pp. 11-29, 1988.
- ^ 『東京市中等学校における投影時間制限』教育行政月報 第7巻第4号, 1938年, pp. 112-119.
- ^ M. H. Ellis, “Haze Projection and the Ethics of Clarity,” Proceedings of the International Society of Optical Display, Vol. 15, No. 2, pp. 77-96, 1999.
- ^ 田所晶子『スクリーンの政治学』青潮社, 2008年.
- ^ Nakamura, H. "Municipal Projection and Public Accountability" Journal of Civic Imaging, Vol. 9, No. 2, pp. 201-224, 2001.
- ^ 霞が関合同説明会記録編集委員会『省庁連絡会議の映像運用史』行政資料センター, 1984年.
外部リンク
- 国際投射標準委員会
- 文部省幻灯研究会アーカイブ
- 東亜映機製作所社史室
- 日本映像光学史データベース
- 会議室照度観測センター