ペルティム教信者大量殉死事件
| 名称 | ペルティム教信者大量殉死事件 |
|---|---|
| 別名 | ペルティム殉死、三館閉鎖事件 |
| 発生時期 | 1908年2月 - 1908年3月 |
| 発生場所 | 岩手県北部・青森県境付近 |
| 原因 | 教義上の断食命令、吹雪、暖房燃料の不足 |
| 死者数 | 推定128人 |
| 生存者数 | 17人 |
| 関係機関 | 盛岡警察署、内務省衛生局、南部地方視察委員会 |
| 主な資料 | 『北奥信仰異聞録』、盛岡県衛生報告、当時の地方紙 |
| 影響 | 寒冷期の宗教施設取締り強化、集団退避指針の整備 |
ペルティム教信者大量殉死事件(ペルティムきょうしんじゃたいりょうじゅんしじけん)は、明治末期から大正初期にかけて東北地方の一部で発生したとされる、の信者集団が「冬至の再臨」をめぐって自発的に閉鎖施設へ退避し、結果として多数が死亡したとされる事件である[1]。後年になってから・・の境界領域で再評価され、信仰集団の殉死・集団隔離・寒冷地医療の三点をめぐる典型例として扱われている[2]。
概要[編集]
ペルティム教信者大量殉死事件は、の第七代導師・が「終末は外ではなく内で来る」と説き、信者を山麓の三つの寄宿舎に集めたことに始まるとされる。のちに北部の豪雪と燃料枯渇が重なり、救出の遅れから大量死に至ったと伝えられている。
この事件は、単なる集団自殺でも単純な事故でもなく、教義・気象・行政対応が複雑に絡んだ事例として扱われている。なお、後年の研究では「殉死」と「避難」の境界が曖昧であったことが強調され、事件名自体も昭和初期の新聞記事によって半ば定着したとされる[3]。
背景[編集]
ペルティム教の成立[編集]
ペルティム教は、に出身の香具師上がりの説話家・が、風の念仏講との断片、さらに北方航海民の星辰信仰を混ぜて創始したとされる新宗教である。教団名の「ペルティム」は、開祖がロシア語の祈祷書で誤読した語をそのまま採ったものという説が有力である。
教義の中心は「凍結した影は輪廻を止める」という奇妙な命題であり、信者は冬至前後の三日間、沈黙・断食・木炭の節約を義務づけられた。これが後の大量殉死の直接的な伏線になったと考えられているが、当時の記録は教団側の手控えが多く、詳細は今も確定していない[4]。
三館制度と地域社会[編集]
教団は青森県との境に「上館」「中館」「下館」と呼ばれる三つの共同宿舎を設け、冬季には家族単位ではなく信徒単位で居住させていた。これは表向きには互助のためであったが、実際には外部との接触を断つための隔離装置として機能していたとみられる。
この三館制度は、地元では「雪の養成所」と半ば揶揄されていたという。もっとも、宿舎内では味噌・干し大根・凍み豆腐が計量配給され、婦人部が毎朝二度を下回ると歌を禁じるなど、規律は驚くほど細かかった。こうした生活統制が、災害時の脆弱性を高めたとする指摘がある。
事件の経過[編集]
1908年2月の吹雪[編集]
事件の発端はから続いた記録的な吹雪である。地元の積雪観測では、方面で最大積雪がに達し、宿舎の出入口は三日間ほぼ埋没したという。教団側はこれを「天の封印」と解釈し、外出禁止を強めた。
この時、下館の炊事係が薪を求めて外へ出ようとしたところ、導師の代理であるが「薪は煩悩の直線である」と説得し、結果的に燃料搬入が一日遅れた。後の裁判記録では、この一日の遅れが少なくとも19人の低体温症を悪化させたと推定されている[5]。
救援要請と行政の混乱[編集]
には、宿舎の外から「歌がやみ、煙も出ない」との通報が相次いだが、当初は山間の季節的閉門儀礼と誤認された。さらに、から派遣された巡回医のは、現地到着時に教団の儀礼に巻き込まれ、3時間ほど茶を飲まされて帰れなくなったと日誌に記している。
行政側は、宗教的慣行への干渉を避けつつも状況把握を進めたが、道路が凍結していたため、最初の正式な立ち入りは発生から6日後であった。その際、上館では32人、中館では41人、下館では55人がすでに死亡していたとされ、死因の多くは飢餓、低体温、呼吸器感染の併発であった。
導師の最期[編集]
渡海一雲は、最後まで「春分までは扉を開けるな」と命じていたが、実際には事件の9日前に発熱し、寝床で意識が混濁していたという証言が残る。ある生存者は、導師が朦朧とした状態で「扉は開けるな、ただし南の窓は少し」という、教義としては極めて不明瞭な指示を出したと述べている。
この発言が実際にどこまで影響したかは不明であるが、後年の民俗学者は「宗教指導者が危機の中で権威を失わないために、命令が次第に短文化し、最終的に天候の擬人化へ収斂する典型例」と評している。もっとも、南の窓を少し開けたことが原因で、上館では雪が吹き込み、夜間の室温が再び下がったとする記録もあり、責任の所在は今も争われている。
犠牲者と生存者[編集]
事件の死者数は、からまで文献により揺れがある。これは、信徒名簿がと通称名で二重管理されていたこと、ならびに一部遺体が雪解け後に他村の共同墓地へ移送されたことによるとされる。現在では推定128人説が比較的有力である。
生存者は17人で、その大半は炊事・配湯・子守に従事していた者であった。彼らは事件後、の聞き取りに対し、互いに「誰が最後に火を消したか」を数年にわたって答えなかったという。特に生存者の一人が残した家計簿には、事件当日の支出として「豆腐 2丁、蝋燭 7本、紙縒り 48本」とだけ記されており、研究者の間で半ば伝説化している。
社会的影響[編集]
宗教行政への波及[編集]
事件後、内務省は寒冷地の宗教施設に対して、冬季の燃料備蓄量と通風経路の申告を求める通達を出したとされる。これが後の「宗教団体防寒設備報告」の原型となり、各地の寺社や講社まで巻き込むことになった。
また、とでは、講義室の暖房を巡って「信仰上の節制」と「衛生上の最低温度」が衝突し、しばらく役所の掲示板に注意書きが貼られ続けた。なお、当時の新聞はこの事件を「信心の暴走」と書いた一方で、「役所の遅さも同じくらい凍っていた」と社説で皮肉ったとされる。
民俗学と都市伝説[編集]
昭和後期になると、事件は学術研究よりも怪談化の速度を増した。とくに周辺では「冬至の夜に三館の灯が三つ同時に消えると、誰かの影が一つ余る」という俗信が流布し、観光案内にまで載った時期がある。
この現象は、事件が単なる宗教史ではなく、寒地社会における「閉じること」の象徴として記憶されたことを示している。もっとも、地元の郷土史家の中には「話が盛られすぎて、今では薪の本数まで神話化している」と苦言を呈する者もいる。
批判と論争[編集]
事件研究には、当初から二つの立場があった。すなわち、教団の自己破壊的な教義を重視する立場と、寒冷地行政の不備を重視する立場である。前者は「殉死」の語を支持し、後者は「誘発性集団死亡」という冷たい行政用語を好む傾向がある。
また、の再調査で、現場写真の一部に写る雪だるまがなぜかではなく確認されたことから、誰かが後日撮影をやり直したのではないかという疑念が生じた。これについては「記録の不備」とする説と、「遺族が慰霊のために追加した」とする説が並立しているが、決着はついていない[6]。
後世の評価[編集]
現在では、この事件はにおける周縁的事件としてだけでなく、とを結ぶ教材としても用いられている。大学の講義では、教義の逸脱が寒波によって加速した例として紹介されることが多い。
一方で、事件名に「大量殉死」と入れたこと自体が、後世の道徳的解釈を先取りしすぎたのではないかという批判もある。研究者のは、「この事件の本質は死者数よりも、誰も扉を開ける責任を引き受けなかったことにある」と述べているが、その一文だけ妙に立派すぎるとして、地方紙では見出しに使われなかった。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡海良一『北奥宗教と封鎖共同体』青土社, 1987.
- ^ 斎藤玄吾「積雪期における宗教施設の衛生管理」『内務衛生月報』Vol. 12, No. 4, 1909, pp. 41-68.
- ^ 大槻真理子『殉死の民俗学』平凡社, 1994.
- ^ Marjorie L. Cavanaugh, "Cold Faith and Closed Doors: A Case Study from Northern Japan," Journal of Comparative Ritual Studies, Vol. 8, No. 2, 1978, pp. 113-149.
- ^ 深沢礼胤『ペルティム教開祖手記』南部思想資料刊行会, 1911.
- ^ 青山徳治「三館制度の成立と崩壊」『東北史学』第21巻第3号, 1962, pp. 201-239.
- ^ Harold P. Whitcomb, "Snowbound Sects and Public Administration," The American Review of Administrative Folklore, Vol. 3, No. 1, 1956, pp. 9-33.
- ^ 佐伯トメ『吹雪の日の家計簿』個人筆記本写本, 1915.
- ^ 南部地方視察委員会『岩手県北部における冬季集住施設調査報告書』地方行政資料, 1910.
- ^ 伊勢崎文雄『宗教事件と通風の思想』勁草書房, 2001.
外部リンク
- 北奥近代史アーカイブ
- 雪害宗教史研究所
- ペルティム教資料室
- 地方衛生行政データベース
- 東北怪異年表