マルボーラナンシェ
| 名称 | マルボーラナンシェ |
|---|---|
| 別名 | 封香彩板、南シェ式封彩法 |
| 分類 | 保存技法、装飾工芸、準民間療法 |
| 起源 | 1897年頃、フランス・ボルドー近郊 |
| 考案者 | オーギュスト・マルボーラ |
| 伝播 | 1920年代に日本へ導入 |
| 主な用途 | 香料封入、色保持、儀礼用小板作成 |
| 特徴 | 湿度で香りが変化することがある |
| 関連機関 | 国立陶板保存研究所 |
マルボーラナンシェは、末の南西部で考案されたとされる、微細なに香料と染料を封じ込めるための保存技法である[1]。のちに期の日本へ伝わり、との境界に位置する奇妙な技法として知られるようになった[2]。
概要[編集]
マルボーラナンシェは、極薄のの内部に樹脂、香料、顔料を層状に封入し、外気との接触を最小限に抑えることで内容物の変質を遅らせるとされる技法である。実用上は保存法であるが、表面に微細な文様を刻むことで、しばしば装飾品としても扱われた。
一般には周辺の試験工房で生まれたとされるが、後世の研究ではの船舶用防湿資材の技術が混入した可能性も指摘されている。もっとも、初期の記録は断片的であり、1912年の工芸博覧会の目録に「Marbora Nanché」の語が一度だけ現れる程度である[3]。
歴史[編集]
成立[編集]
起源は、の小規模な香料商オーギュスト・マルボーラが、輸送中に割れやすい香水瓶の代替として試作したのが始まりとされる。彼はほど返品される瓶の苦情に悩み、薬剤師の妹マドレーヌ・マルボーラの助言を受けて、薄い陶質の板に樹脂を流し込む方式を採用したという。
名称の「ナンシェ」は、のちに彼が出身の磁器職人ポール・シェロンと協働した際、工房内で使われた略号「nan.-ché」がそのまま転訛したものと説明されることが多い。ただし、工房の帳簿ではこの略号が香料検査の項目名を指していた形跡もあり、由来にはなお議論がある[4]。
日本への伝播[編集]
11年には、を経由して見本品がの工芸研究室に持ち込まれた。受領者であった渡辺精一郎は、これを「湿度の高い土地でこそ真価を示す保存膜」と評価し、実験により以内の香気保持率が通常の漆器より高いと報告した[5]。
その後、の土産物商との香袋職人が相次いで採用し、表面に桜、波、家紋を刻んだ小板が流行した。とくにのでは、展示された6点のうち4点が「用途不明だが匂いが良い」と評され、技法の知名度が一気に上がったという。
衰退と再評価[編集]
30年代に入ると、合成樹脂と密封缶の普及により実用品としての需要は急減した。一方で、の周辺では「触れずに香る工芸」として再評価され、の開催時には、選手村向けの記念品として限定が制作された。
しかし、当時の保管温度が高すぎたため、約の板で香料が逆流し、開封時に強い沈香と接着剤の匂いが混ざる事故が起きた。これにより一部では「マルボーラナンシェは夏に開けてはならない」と言い伝えられ、現在でも保存会の会則第7条にその注意が残されている。
製法[編集]
標準的な製法は、①粉砕した白陶土をのぬるま湯で練る、②厚に延ばす、③香料層を3層以上重ねる、④外装を半焼成する、という4段階からなる。熟練者は焼成前に指先で板をはじき、音が「鈍い鐘のように聞こえる」ことを合格基準とした。
ただし、以降に広まった簡略法では、陶土の代わりに石膏を混ぜることがあり、この場合は保存性能が著しく落ちる。にもかかわらず、見た目が本式とほとんど変わらないため、地方の土産店では長らく「本流」と誤認されていた[6]。
社会的影響[編集]
マルボーラナンシェは、工芸品でありながら香りの強さを価値としたため、、、にまたがる独特の流通圏を生んだ。特にの古書店街では、古い書籍の栞として挟む需要があり、紙魚避けとして1冊に1枚同封する商習慣まで現れた。
また、の観点からは評価が割れた。1931年のの内部報告では「芳香過剰により鼻腔が疲労する」とされる一方、同時期の記録では「輸入品の匂い判定に有効」として半ば公的に採用されていた。こうした用途の曖昧さが、かえってこの技法の伝説性を高めたのである。
批判と論争[編集]
批判の中心は、名称の由来と再現性にある。とりわけのの再検証では、初期資料の一部に後年の筆写修正が見つかり、「マルボーラナンシェ」という語そのものが工房内の符牒を誤読した可能性が示された[7]。
また、保存会が公表した湿度試験では、の環境下で香気がむしろ拡散する例が少なからず確認され、支持派と懐疑派の論争を招いた。もっとも、支持派は「匂いが広がるのは板が生きている証拠である」と主張し、学術会議ではしばしば議論が平行線をたどった。
現代の位置づけ[編集]
現在のマルボーラナンシェは、実用品としてよりも、や地域博覧会で再現される「半ば儀礼的な工芸」として扱われている。特に、、では、年に数回、香料の配合と焼成のデモンストレーションが行われ、参加者が完成品を持ち帰る際には「3日以内に開封しないこと」と案内される。
一方で、近年はデジタルアーカイブ化が進み、板の厚み、香料の温度、焼成時間を数値化したデータベースが整備された。ただし、記録担当者のあいだでは「数値が揃うほど本物らしく見えなくなる」という皮肉が語られており、この技法の本質がいまだ手触りの側にあることを示している。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ オーギュスト・マルボーラ『封香彩板試作記』ボルドー工芸出版, 1901.
- ^ 渡辺精一郎『湿潤環境における陶質封入技法の研究』東京美術学校紀要 第12巻第3号, 1924, pp. 41-68.
- ^ Paul Chéron, "On the So-Called Marbora Nanché", Revue des Arts Utilitaires, Vol. 8, No. 2, 1913, pp. 119-133.
- ^ 国立陶板保存研究所編『マルボーラナンシェ資料集成』研究報告 第4輯, 1983.
- ^ マドレーヌ・マルボーラ『香気封入と家内薬局のあいだ』リヨン家庭医学社, 1908.
- ^ 大阪市衛生試験所『芳香物質の拡散と鼻腔疲労に関する調査』試験報告 第27号, 1931.
- ^ Jean-Baptiste Lenoir, The Hidden Aroma Boards of Bordeaux, University of Nantes Press, 1972.
- ^ 『東京オリンピック記念品製作要覧 特別版』日本記念工芸協会, 1964.
- ^ 斎藤みつ『匂いを閉じ込める工芸史』みすず工房, 1991.
- ^ Marie Delacroix, "Marbora Nanché and the Problem of Reverse Scent", Journal of Improvised Conservation, Vol. 14, No. 1, 2004, pp. 7-29.
外部リンク
- 国立陶板保存研究所デジタルアーカイブ
- 日本封香工芸保存会
- ボルドー工芸史資料センター
- 東京美術工芸メモリアルライブラリ
- 香気封入技法年表館