マン凸五郎の健忘
| 正式名称 | マン凸五郎の健忘 |
|---|---|
| 分類 | 記憶障害・民俗精神現象 |
| 提唱年代 | 1928年頃 |
| 提唱者 | 斎藤 蕗二郎 |
| 主な発生地 | 東京府下町部、横浜市、名古屋市西区 |
| 関連機関 | 帝国記憶研究所、東京市衛生試験場 |
| 主症状 | 自己紹介の反復、用件の逸失、語尾の無意味な強調 |
| 俗称 | 五郎忘れ |
| 初出資料 | 『下町奇癖録』 |
マン凸五郎の健忘(まんとつごろうのけんぼう)は、末期から初期にかけてで定式化されたとされる、短期記憶の破綻と自己同一性の過剰演出が同時に生じる特殊な心的現象である。特に、名称を口にした直後に本人が用件を忘れる症例群を指す医学・民俗学上の用語として知られている[1]。
概要[編集]
マン凸五郎の健忘は、口語的には「五郎忘れ」とも呼ばれ、何らかの発言の勢いだけが先行し、核心となる目的を本人が失念する現象を指す。症例報告では、電話口で名乗ったあとに何を依頼するつもりだったのかを忘れる、あるいは会議室に入室した瞬間に立場だけを誇張してしまう、などの形で記述されている[2]。
名称の由来については、の寄席で名人芸を持つ大道芸人「マン凸五郎」が、毎回出番前に台本を忘れたふりをして観客を沸かせたことにあるとされる。もっとも、後年の研究では、この逸話自体が関東大震災後の慰安演芸をまとめた編集者による創作である可能性が高いと指摘されている[3]。
発生史[編集]
下町流行期[編集]
1920年代後半、からにかけて、役所への申請や商店主の掛け合いの場で「話は大きいが用件がない」という奇妙な反復行動が観察された。帝国記憶研究所の前身にあたる私設サロン「霧島記憶会」の記録では、1929年5月に月間37件の相談が寄せられ、うち26件が「自分の名前を強く言うが、何をしたかったか忘れる」という共通症状を示したとされる[4]。
当時の新聞はこれを道徳的な弛緩として扱うことが多かったが、の若手技師・田宮宗一は、湿度とラジオ受信環境の変化が前頭部の興奮を誘発するのではないかと述べた。ただし田宮の論文は2ページで終わっており、図版の大半がの橋脚のスケッチであったため、後世には「文学的報告」とも評されている[5]。
学術化と命名[編集]
1931年、精神科医のはの貸会議室で開催された「都市記憶異常懇話会」において、症例群を「マン凸五郎の健忘」と命名した。斎藤は、単なる物忘れではなく、「自己の輪郭を大きく見せる言語衝動が、記憶の収納容量を一時的に押し出す」と説明し、これを『可搬的人格過密』の一種と位置づけた[6]。
命名の根拠として斎藤は、寄席芸人のマン凸五郎が舞台上で毎回「ええ、わたくしが五郎でございます」と前置きしながら、肝心の噺に入る前に水を飲んでしまう癖を挙げた。しかし後年、同名の芸人は少なくとも三人いたことが判明し、現在では「マン凸五郎」は個人名というより、自己誇示と忘却の境界で揺れる役割名であると考えられている[7]。
制度化[編集]
7年には衛生局が、町内会長や巡査が頻繁に遭遇する「説明は長いが用件がない」事案を簡易分類票に追加した。これにより、五郎忘れは軽度の神経衰弱、営業上の癖、あるいは政治演説の副作用としても扱われ、年間報告数は1932年度に1,084件へ増加したとされる[8]。
一方で、の港湾労働組合では、荷役開始前にリーダーが号令だけを豪壮に叫んで作業指示を忘れるため、現場では「マン凸五郎型」と呼ばれるようになった。労働強度と呼気の荒さに関係があるという説が広まり、昭和初期の健康雑誌では「朝に甘酒を三口飲ませると発症率が17%下がる」と紹介されたが、出典は不明である[9]。
症状[編集]
代表的な症状は、第一に自己紹介の過剰である。患者は「私はマン凸五郎である」と強く言い切るが、直後に何をしに来たのかを忘れ、同じ自己紹介を最長11回繰り返すことがある。
第二に、記憶の断片が妙に具体的である点が挙げられる。本人は「昨夜の湯気」「赤い印鑑」「の鳩」など、用件と無関係な細部だけを正確に保持しており、診察室ではそれらを重要情報として提示する傾向がある。帝国記憶研究所の統計では、症例の68.4%が最後に見た物体を用件と誤認し、そのうち14.2%は椅子を探しに来たのに傘立てを議題として説明し始めたと記録されている[10]。
なお、重症例では会話の冒頭に大きな決意表明を行った後、三語以内で失速し、沈黙を埋めるために「五郎である」「五郎だった」「五郎かもしれぬ」の三種の定型句を交互に唱える。これが周囲に安心感を与えるため、家庭内では半ば儀礼として扱われたという。
研究[編集]
記憶室モデル[編集]
斎藤蕗二郎は、脳内に「記憶室」と呼ばれる小部屋があり、マン凸五郎の健忘ではその入口に過剰な暖簾が掛かると主張した。暖簾の数は人によって異なるが、典型例では3枚で、いずれも自尊心の紋が入っているとされた[11]。
この理論はの神経学者・村瀬寛治により「美術的ではあるが測定不能」と批判されたものの、患者への説明に用いると症状が軽減する例が多かったため、実地臨床では長く生き残った。村瀬自身も講演でたびたび演題を忘れ、聴衆が代わりに拍手で思い出させたという逸話がある。
港湾仮説[編集]
1930年代後半には、やでの報告を受け、荷役・待機・号令の反復が発症に関係するという港湾仮説が提唱された。ここでは、巨大なクレーンの往復運動が「言い切ってから忘れる」リズムを身体に刻むとされ、特に梅雨時の作業班で顕著とされた[12]。
もっとも、港湾仮説の支持者である井口孝彦は、現地調査の際に一度も岸壁に降りておらず、すべての観察を食堂の窓から行っていた。このため、後年の資料批判では「窓辺の民族誌」と揶揄されている。
社会的影響[編集]
マン凸五郎の健忘は、単なる風変わりな症状にとどまらず、都市生活の自己演出文化に強い影響を与えた。昭和初期の商店街では、店員が「いらっしゃいませ」と言ったあとに沈黙することを防ぐため、レジ脇に「本日の用件」を書く小札が置かれるようになり、これが後の業務メモ文化の先駆けになったとされる[13]。
また、政治集会では演説者が熱を込めるあまり論点を失う現象を指して、記者がしばしば「五郎型」と表現した。これに対し一部の文化人は、健忘は欠陥ではなく「近代人が自己を大きく見せようとした結果、記憶が演出に敗北した状態」であると論じ、の読者欄で小論争が起きたという。
家庭教育の分野でも影響は大きく、子どもが宿題を忘れた際に叱責する代わりに、まず持ち物の確認と復唱を促す「五郎式確認法」が普及した。昭和12年版『家庭衛生小辞典』には、鉛筆を握らせたまま10秒以上自己紹介をさせると発症を回避しやすいとの記述があるが、編集部注には「効果の程は各家庭にて検証願う」と付されている[14]。
批判と論争[編集]
批判の第一は、マン凸五郎という人物の実在性である。記録上、同名の芸人・行商人・町会役員が混在しており、どれが原型かを特定できないため、研究者の間では「個人ではなく都市伝説の集合名詞」とみなす立場が有力である[15]。
第二に、症状の説明が過度に詩的である点が挙げられる。特に「暖簾が記憶室を塞ぐ」という表現は、臨床的には分かりやすいが、測定装置のない時代にしても比喩が過剰であるとして、の前身組織でたびたび問題視された。
ただし反対派の中にも、会議の最後に自分の立場を忘れて肯定に回る者が少なくなく、結果として明確な否定論文はあまり残っていない。これが本現象の研究史を一層ややこしくしている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 斎藤蕗二郎『下町奇癖録』帝都書房, 1932.
- ^ 田宮宗一「都市湿度と短期記憶の散逸」『東京市衛生試験場報告』Vol. 4, 第2号, 1930, pp. 11-19.
- ^ 村瀬寛治「記憶室模型に関する一試論」『神経学雑誌』Vol. 17, 第6号, 1934, pp. 203-218.
- ^ 井口孝彦『港湾労働者の言語癖』横浜港湾研究会, 1938.
- ^ 石川澄子「五郎忘れの家庭内伝播」『家政と衛生』第12巻第1号, 1941, pp. 44-51.
- ^ A. H. Morton, “On the Mankotsu Forgetting Phenomenon,” Journal of Urban Memory Studies, Vol. 2, No. 1, 1936, pp. 7-23.
- ^ Margaret L. Hayes, “Rhetorical Overflow and Episodic Collapse,” The Imperial Review of Psychology, Vol. 9, No. 4, 1940, pp. 155-171.
- ^ 高橋義光『昭和初期の都市癖語辞典』青潮社, 1942.
- ^ 鈴木仁「自己紹介反復と注意転換の相関」『臨床と観察』第8巻第3号, 1939, pp. 88-96.
- ^ Eleanor P. Whitcomb, “Curtains in the Mind: A Study of Social Amnesia,” Bulletin of Comparative Psychopathology, Vol. 5, No. 2, 1941, pp. 61-74.
- ^ 中村久一『五郎型人物論』霧島出版, 1937.
外部リンク
- 帝国記憶研究所デジタルアーカイブ
- 昭和都市癖語コレクション
- 下町奇癖録全文公開室
- 横浜港湾労働史資料館
- 日本民俗精神医学会旧録検索