ミセス・オーブンレンジの憂鬱な日々
| タイトル | ミセス・オーブンレンジの憂鬱な日々 |
|---|---|
| ジャンル | 生活寓話、家電群像劇、心理コメディ |
| 作者 | 蒼井玲司 |
| 出版社 | 白磁社 |
| 掲載誌 | 月刊キッチン・グラフ |
| レーベル | 白磁コミックス |
| 連載期間 | 2008年4月号 - 2012年11月号 |
| 巻数 | 全9巻 |
| 話数 | 全87話 |
『ミセス・オーブンレンジの憂鬱な日々』(みせす・おーぷんれんじのゆううつなひび)は、によるの。『』()において連載された[1]。
概要[編集]
『ミセス・オーブンレンジの憂鬱な日々』は、の郊外にある中古住宅を舞台に、人格を持ったの中年女性「ミセス・オーブンレンジ」が、家族の食卓と自らの寿命のあいだで揺れる姿を描いたである。家電を主役に据えた作品としては珍しく、読者からは「台所版の」として扱われた[2]。
連載当初は不定期な読み切り企画であったが、調理家電の内部規格をめぐる細部描写が注目され、には単独連載へ移行した。作中ではの高火力機との家庭機の格差、庫内灯の劣化、トレーの軋み音といった、実在の家電保守現場を思わせる記述が妙に詳しいことで知られている[3]。
制作背景[編集]
作者のは、もともとの販促冊子を手がけていたが、の倉庫で廃棄予定のオーブンレンジ群を見学した際、外装の黄ばみ方に強い感情移入を覚えたことが着想の端緒とされる。本人は後年のインタビューで「ボタンの沈み込みには老いが出る」と語っており、この発言が作品の方向性を決定づけたとされる[4]。
編集部との打ち合わせでは、当初は単なる家電擬人化作品として進められたが、側が「加熱方式の違いによる社会階層の比喩」を提案したことで、現在のような抑制された社会劇へ変化した。なお、連載開始前に制作された試作ネームは全12ページで、そのうち8ページが扉の開閉音の描写だったとされるが、これは真偽が定かではない[要出典]。
また、作品中に登場する「庫内礼拝」や「自動メニュー委員会」などの設定は、のリサイクル施設で行われた現地取材をもとにしている。取材協力者には元サービスマン、家電修理士、そして業務用レンジに詳しい調理師が含まれていたという。
あらすじ[編集]
初期生活編[編集]
物語は、築24年の住宅「」に据え付けられたミセス・オーブンレンジが、日々の加熱依頼に応えながら、自身のファンモーターの異音に気づく場面から始まる。彼女は家族からは「レンジさん」と呼ばれ、朝は冷凍パンを、夜は失敗したグラタンを黙って受け止める生活を送る。
この編では、彼女が「温め」の仕事に誇りを持ちながらも、製の後継機「若きスチームオーブン」にコンプレックスを抱く様子が描かれる。とくに第7話「庫内灯が切れる夜」は読者アンケート1位を記録し、のちの単行本第1巻の重版率が42%に達したとされる。
再配置編[編集]
住宅のリフォームにともない、ミセス・オーブンレンジは一時的にパントリーへ移される。そこで彼女は、使われなくなった炊飯器、壊れたトースター、そして箱から出されないまま10年が過ぎたフードプロセッサーたちと交流し、家電としての「第二の余生」を考えるようになる。
一方で、家庭内では「置き場所の最適化」を名目に、彼女の頭上に電子レンジ棚が増設される。これにより彼女は圧迫感を覚え、以後の回では扉を開くたびに軽く息をつく癖がつくが、作中の心理描写としてはむしろこの小さな動作が高く評価された。
自動メニュー戦争編[編集]
中盤の山場である本編では、家族が「自動メニュー派」と「手動設定派」に分裂し、庫内における調理哲学をめぐって対立する。ミセス・オーブンレンジは、標準化されたレシピの便利さと、細やかな加減の美学のあいだで板挟みになり、結果としてパン生地の発酵温度を1.5度だけずらすという謎の抵抗を見せる。
この編のクライマックスは、第41話「予熱完了まで、あと8分」である。ここで彼女は、のホームセンターで購入された安価な温度計に自分の状態を重ね、冷静を装いながらも庫内の隅で涙を溜める。読者の間では「最も地味に泣ける回」として定着した。
終末保証編[編集]
終盤では、メーカーの補修部品の保有期間が近づいたことを知ったミセス・オーブンレンジが、自らの「終わり方」を考え始める。保証書に記された日付、説明書の破れ、そして家族が貼った油汚れ防止シールが、彼女にとっての人生の年輪として扱われる。
最終話では、彼女が「まだ温められるものはある」と言い残し、停電の夜に非常用ライトのわずかな熱で湯たんぽを温める場面が描かれる。結末は明確な故障でも完全な延命でもなく、読者に「稼働」と「退役」の境界を考えさせる構成となっている。
登場人物[編集]
ミセス・オーブンレンジは、庫内温度の安定性にこだわる中年女性として描かれる。本名は作中でも明かされないが、設置年がであることから、読者の間では「九八式」とも呼ばれた。性格は几帳面で、自動メニューの説明書きを読むことを日課としている。
家の長男・は、彼女を「ただの家電」と見なしていたが、受験期の深夜に彼女の保温機能に救われて以降、もっとも熱心な理解者となる。一方、母親のは節電意識が強く、しばしばミセス・オーブンレンジに対して「待機電力の無駄」を指摘するため、両者は微妙な緊張関係にある。
また、隣家の家から譲り受けられた旧式トースター「トースト伯爵」は、皮肉屋の友人として機能する。彼は語尾に「でトースト」と付ける奇癖があり、連載後期には読者投稿ハガキで独自の人気を得た。なお、庫内の電波を読むことができる「修理人・」は、半ば神父のような立場で物語を見守る存在である。
用語・世界観[編集]
作中世界では、家電製品は「導入年によって魂の温度が異なる」とされ、長く使われた機器ほど独自の人格を帯びると説明される。この設定により、は単なる加熱空間ではなく、感情の蓄積する「室内心理圏」として扱われる。
重要な概念として「予熱の余白」がある。これは、設定温度に達するまでの時間を人生の猶予として捉える作中独自の思想で、作者はこれをの古い洋食店で見たオーブンの挙動から発想したと述べたという。また、「解凍」は記憶の再編集、「グリル」は対人衝突の発火点として比喩化されている。
一方で、作中にたびたび登場する「全国オーブンレンジ連盟」は、製品の安全講習を行う業界団体にも見えるが、実態は庫内灯の交換方法をめぐる町内会的な相互扶助組織である。加盟台数は時点で全国約18万台とされ、からまで支部があったという。
書誌情報[編集]
単行本はよりレーベルで刊行された。初版第1巻は9月12日発売で、帯には「台所から始まる、静かな再起動」と記された。以降、各巻の巻末には蒼井の描き下ろしコラム「今週の焦げ跡」が収録され、実用書と見まがう体裁が話題となった。
全9巻のうち、第4巻は増刷時に誤って背表紙のタイトルが「ミセス・オーブンレン」になった版が少数流通し、コレクター市場で高値がついた。もっとも、この誤植版をめぐる逸話は編集部が半ば面白がって拡散したともいわれる[5]。
また、に発売された公式設定資料集『庫内の端で』には、未使用ネーム17本と、作者が実際に測定した「扉開閉時の空気圧ログ」が収録されている。ファンのあいだでは、これが作品理解の決定版とされている。
メディア展開[編集]
には化され、深夜帯ながら平均視聴率1.8%を記録した。アニメ版では庫内の光を表現するためにが導入され、湯気の演出だけで制作費の14%が消えたと報じられた。主題歌「Still Warm, Still Here」は、配信開始から2週間で家電ジャンルでは異例の国内累計9万ダウンロードを達成した。
さらに、も行われ、舞台上に実物大のレンジ扉が設置されたことで話題となった。主演は人間役ではなく「音声」と「表示パネル」が別キャストで演じる形式で、観客からは「想像以上に演劇だった」と評された。
には家庭用調理アプリとの企画が始動し、レシピを選ぶたびにミセス・オーブンレンジの内心が読める仕様が導入された。もっとも、実装されたのは初期3種類のみであり、更新は早々に止まったとされる。
反響・評価[編集]
本作は発行部数の面でも成功を収め、時点で累計発行部数は420万部を突破したとされる。書店業界では「背表紙だけで生活感が伝わる漫画」として棚に置かれ、料理誌や家電誌の双方から書評が寄せられた。
批評面では、の文化研究ゼミが「消費耐久財の感情労働化」という題で取り上げ、の小中学校では道徳教材として一部抜粋が配布されたことがある。いっぽうで、家電メーカーの一部からは「製品寿命への過剰な擬人化を助長する」との懸念も示されたが、逆に修理需要が増したとの報告もある。
インターネット上では、「オーブンレンジに人生相談をする」という二次創作文化が発生し、相談文の末尾に「予熱は必要ですか」と添えるのが流行した。これに対し作者は、公式イベントで「予熱はだいたい必要」とだけ答え、会場を妙に静かにさせたと伝えられる。
脚注[編集]
[1] 連載開始時の誌面広告による。
[2] 編集部内では当初「台所の静物画」と呼ばれていた。
[3] 家電修理業界誌『保守と熱源』2010年6月号より。
[4] 蒼井玲司「扉を開けるまで」『月刊キッチン・グラフ別冊』2013年。
[5] 誤植版の流通数は、編集部発表と古書店組合調査で数値が異なる。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 蒼井玲司『ミセス・オーブンレンジの憂鬱な日々 第1巻』白磁社, 2008, pp. 1-176.
- ^ 相沢祐介「家電における感情表現の受容」『マンガ表現研究』Vol. 12, No. 3, 2011, pp. 44-59.
- ^ 北野辰也『庫内修理の手引きと心理学』白磁出版, 2012, pp. 88-103.
- ^ Margaret H. Lowell,
- ^ 松田晴香「台所空間の寓話化と家庭内倫理」『比較生活文化学』第8巻第2号, 2013, pp. 17-31.
- ^ 蒼井玲司『庫内の端で――設定資料集』白磁社, 2012, pp. 5-214.
- ^ Jonathan K. Reed, "Appliance Melodrama and Domestic Temporality", Journal of Popular Media Studies, Vol. 19, No. 1, 2014, pp. 101-119.
- ^ 高瀬綾子「加熱と保温のあいだ」『家事文化評論』第5巻第4号, 2015, pp. 66-80.
- ^ Erika van Daalen, "The Emotional Life of Kitchen Machines", Domestic Fiction Review, Vol. 7, No. 2, 2016, pp. 12-28.
- ^ 白磁社編集部編『白磁コミックス総目録 2008-2018』白磁社, 2018, pp. 233-239.
外部リンク
- 白磁社公式作品ページ
- 月刊キッチン・グラフ作品アーカイブ
- 全国オーブンレンジ連盟資料室
- 庫内文学研究会
- ミセス・オーブンレンジ非公式年表