メタルタモリ
| 氏名 | 宮下 銅次 |
|---|---|
| ふりがな | みやした どうじ |
| 生年月日 | 1951年4月12日 |
| 出生地 | 日本・長野県松本市 |
| 没年月日 | 2014年11月3日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 音響芸術家、放送作家、即興司会者 |
| 活動期間 | 1973年 - 2014年 |
| 主な業績 | 深夜番組『鋼の空耳』の制作、金属声変換儀の実用化、即興トーク演出法の確立 |
| 受賞歴 | 第8回日本放送奇術賞、特別奨励状 |
宮下 銅次(みやした どうじ、 - )は、の音響芸術家、即興司会者、ならびにの先駆者である。メタルタモリとして広く知られる[1]。
概要[編集]
宮下 銅次は、後期から初期にかけて活動した日本の音響芸術家である。金属質の発声、司会進行、群衆の反復発話を組み合わせた独自の演出で知られ、深夜放送界では「話術を鋼板に通す男」とも呼ばれた。
通称のメタルタモリは、本人がごろから用いはじめた舞台名で、の地下ライブハウスで初めて名乗ったとされる。なお、同名義の普及にはの実験番組『金曜ステンレス講座』が大きく関与したとされるが、この番組の正式な保存テープは一部しか残っていない[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
宮下は、松本市の板金工場を営む家に生まれる。幼少期から金槌の打音に強い関心を示し、近隣の祭礼で鳴るよりも、雨樋を叩いたときの残響を好んだという。小学校時代には、給食のアルミ食器で独自の打楽器を作り、教師から三度の注意を受けた記録が残る。
中学時代には附属の夜間観測クラブに出入りし、星空の観察よりも観測小屋のトタン屋根の響きを採集していた。ここで後の師となる音響工学者・と知り合い、のちに「金属は音を鳴らすのではなく、会話を返す」と教えられたと回想している[要出典]。
青年期[編集]
、の聴講生として上京したが、正式な専攻は最後まで定まらなかった。代わりに、の喫茶店との中古レコード店を往復しながら、店内の金属製什器が店主の声をどう変えるかを記録したノートが、後年『宮下メモ』として知られるようになる。
には、アングラ劇団「ステンレス座」に参加し、舞台袖でマイクスタンドを叩きながら進行を助ける役を務めた。これがのちの「即興司会」の原型とされ、の小ホールで行われた公演では、観客147人のうち23人が途中で拍手のリズムを金属音に合わせたという。
活動期[編集]
、深夜番組『鋼の空耳』にレギュラー出演し、ここで「メタルタモリ」としての活動が本格化した。番組では、のスタジオに設置された8枚のステンレス板を背後に置き、語尾をわずかに遅らせて話すことで、視聴者に奇妙な残響感を与えたとされる。放送後、局に届いた感想葉書は通常の3倍に増え、うち18%が「内容より声が硬い」と書いていた。
には、の埠頭倉庫で行われた公開収録で、観客の笑い声を金属管で共鳴させる実験を実施した。このとき、会場に設置された長さ12.4メートルの共鳴管が予定より7秒遅れて振動し、宮下は即座に「遅れて鳴るのが、鋼の礼儀です」と発言したと伝えられる。以後、この種の演出は放送業界で「遅延共鳴法」と呼ばれるようになった。
一方で、代には出演本数が減少し、代わって講演活動や技術協力が増えた。主催の「放送芸術の境界を考える会」では、司会台の素材によってトークの密度が変化することを実演し、同席した制作会社9社のうち6社が「以後、机を木製から半金属製に改めた」と回答したという。
晩年と死去[編集]
以降は体調不良のため公の場を離れ、安曇野市の自宅兼工房で、アルミ片を使った小型の発声補助具の試作を続けた。晩年の宮下は、かつての派手な演出よりも、1分間にどれだけ静かな金属音を挟めるかに関心を移していたという。
、肺の疾患のため内の病院で死去した。63歳であった。葬儀では遺族の意向により鐘の代わりにステンレスボウルが用いられ、参列者は一人ずつ箸で縁を軽く叩いたとされる。告別式の最後に流れた録音では、本人の声が通常より0.8秒長く残響していたという。
人物[編集]
宮下は、初対面では寡黙である一方、話しはじめると周囲の机や椅子を見てから発言する癖があった。これは「家具の返事を待つ」ためであったと本人は説明している。
食事の好みも独特で、味噌汁の椀を先に温めておくことを常としていたほか、冷えた金属製の箸を嫌った。自宅の書斎にはのカセットテープが約4,300本並んでいたが、そのうち半数以上は自分の咳払いだけを録音したものだったという。
また、地方営業の移動先では、必ず駅舎の手すりをひとつ叩いてから入館したとされる。本人はこれを「会場の気温ではなく気配を見る作法」と呼び、若手出演者に対しても同じ所作を勧めたが、定着した例は少ない。
業績・作品[編集]
宮下の業績は、単なる司会者の枠を超え、放送と金属音響の接点を制度化した点にある。代表作とされる『鋼の空耳』では、トークの合間に金属片の擦過音を挟み、視聴者の注意を人工的に再集中させる技法が採用された。
刊の著作『ステンレス語録入門』は、番組制作の現場で広く参照された。とくに「笑いは反響より遅れて来る」「沈黙は銅板に置くと重くなる」といった一文は、放送作家の座右の銘として引用されることがある。
主な作品・企画としては、『金曜ステンレス講座』『共鳴する司会台』『深夜の磁性体相談室』などがある。これらは一見すると実験的番組に見えるが、実際には局内の備品更新に合わせて企画が増殖した面が強いとされる。なお、の特番『メタルタモリの都市伝説工房』では、東京23区のうち17区を「共鳴に向く区」として分類し、専門家の間で賛否を呼んだ[要出典]。
後世の評価[編集]
宮下の評価は、放送史、音響工学、深夜文化の3方面で分かれている。の内部報告では、彼の手法は「視覚情報が弱い時間帯における音響主導の注意喚起」と整理され、後のバラエティ番組の間の取り方に影響を与えたとされる。
一方で、保守的な制作現場からは「企画の半分が金属の選定で終わる」と批判された。これに対し、宮下自身は晩年の講演で「素材を決めることは、話の温度を決めることだ」と述べたとされる。
には内で回顧展「メタルタモリと深夜の反響」が開催され、入場者数は初日だけで6,200人を記録した。展示の目玉は、実際に使用されたとされる司会台の複製で、来場者の7割が手を当ててから記念撮影を行ったという。
系譜・家族[編集]
宮下家は、代々で板金と小農を兼ねる家系であったとされる。父の宮下鉄造は屋根職人、母の宮下フミは村の合唱団で伴奏を務めており、家庭内に常に金属と声が同居していたことが、後年の芸風に影響したとみられる。
配偶者は舞台照明技師ので、番組制作初期から裏方として支えた。長男の宮下鋼一は音響機器メーカーに勤務し、娘の宮下真琴は地方FM局の構成作家となった。孫の世代では、家庭でスプーンを並べて拍子木代わりにする遊びが「宮下式」と呼ばれているという。
なお、本人の遠縁にの鋳物師がいたという説もあるが、同時代資料に乏しく、家族史としては未確認である。ただし、宮下本人は生前「血筋よりも、台所の鍋の材質のほうが大事だ」と語っていた。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 高瀬源一郎『鋼板の会話術』音響文化出版社, 1981年.
- ^ 宮下玲子『深夜番組と残響の時代』東方放送研究社, 1996年.
- ^ 佐伯俊也「『鋼の空耳』における金属音の視聴誘導効果」『日本放送工学会誌』Vol.18, No.2, pp.41-58, 1987年.
- ^ Margaret L. Thornton, “Metallic Cadence and Late-Night Variety in Japan,” Journal of Broadcast Aesthetics, Vol.7, No.4, pp.201-229, 1994.
- ^ 宮下銅次『ステンレス語録入門』星雲書房, 1986年.
- ^ 渡会一馬『司会台の素材学』関東出版, 2002年.
- ^ NHK放送文化研究所 編『深夜帯番組の音響演出史』日本放送協会出版, 2010年.
- ^ 小林志津子「宮下銅次の『遅延共鳴法』再考」『音と都市』第12巻第1号, pp.9-33, 2016年.
- ^ “Proceedings of the 3rd Symposium on Resonant Mediation,” Tokyo Media Forum, pp.77-104, 1991.
- ^ 宮下鋼一『父のカセットテープ四千三百本』風車館, 2018年.
- ^ 田中みどり『メタルタモリ現象の社会史』北辰社, 2009年.
外部リンク
- 日本重金属放送学会アーカイブ
- 深夜芸能資料室
- 松本市音響民俗博物館デジタル展示
- NHK番組保存センター特別コレクション
- メタルタモリ研究会