ヤーラシマ帝国
| 正式名称 | ヤーラシマ帝国 |
|---|---|
| 成立 | 1884年頃とされる |
| 滅亡 | 1912年頃 |
| 首都 | 周防灘東岸の臨潮都城 |
| 公用語 | 旧瀬戸内商談語、祝詞体 |
| 通貨 | 潮貝券、銀縁札 |
| 国家標語 | 潮は裏切らず、印章は濡れず |
| 政治体制 | 帝室商会連合制 |
| 主要港 | 多度津、宇品、門司、下田浜 |
| 関連人物 | 初代潮主・麻生貫一、院政官・久米原おとゑ |
ヤーラシマ帝国(ヤーラシマていこく、英: Yarashima Empire)は、後半に沿岸で成立したとされる、交易・儀礼・潮汐観測を統合した半神話的な海上国家である[1]。近代の港湾行政と深く関わったと伝えられ、後世には「帝国」と呼ばれながら、実際には複数の商会と巫祝集団の連合体であったとする説が有力である[2]。
概要[編集]
ヤーラシマ帝国は、の潮流と港市経済を基盤に成立したとされる準国家的共同体である。一般にはの交易圏の一変種と理解されるが、帝国側の記録では、潮位の観測と神饌の配分をもって領土を定義していたという点に特徴がある。
その成立には、、の海運家、沿岸の神職、さらに出身の測量技師が関わったとされる。もっとも、現存文書の多くは印章の位置が一定せず、紙質も年代相応ではないため、後世の創作がかなり混ざっているとの指摘がある。
成立の経緯[編集]
帝国の起源は、夏に起きた「三潮会議」に求められることが多い。これは近郊の潮待ち宿で開かれた会合で、海運の遅延を減らすため、各港の潮位予報を一本化する試みであったとされる。会議の席上、商会代表の麻生貫一が、潮汐表に加えて祝詞の拍を合わせると船足が平均で改善すると主張し、これが帝国創建の契機になったという。
一方で、別系統の史料では、ヤーラシマ帝国はもともとの廻船問屋が用いていた内部符牒「やあらしま」が国号化したものだとされる。符牒の意味は「波を荒らさず、島を回れ」に由来するとされるが、言語学的にはかなり苦しい。なお、帝国成立の翌年にはの税関分室で「非公式国章を押した荷札」が問題視され、最初の外交摩擦が生じたと伝えられている。
制度[編集]
帝室と商会[編集]
ヤーラシマ帝国の統治機構は、皇帝に相当する「潮主」と、各港の商会長からなる「渡印評議」で構成されていた。潮主は世襲ではなく、春分と秋分に行われる印章競技で選出され、最も濡れた印影を残した者が即位したとされる。第2潮主・久米原おとゑは、の銅版工場で鍛えた印面を用い、3年連続で優勝したため「乾かぬ女帝」と呼ばれた。
また、帝室は軍事よりも倉庫管理に重きを置き、米・塩・灯油・干し鰯の保有量を月次で公開していた。記録上は時点で備蓄倉庫が、総床面積がに達したとされるが、同年の人口規模と比べると過剰に巨大であり、倉庫自体が半ば権威装置だった可能性がある。
潮税と通貨[編集]
ヤーラシマ帝国の税制で最も有名なのが「潮税」である。これは船の積載量ではなく、入港時の干満差によって課税率が変わる制度で、満潮時は、大潮日にはまで上昇した。税務官は産の竹尺と真鍮の水準器を携帯し、港ごとに異なる「税の高さ」を計測したという。
通貨としては、銀箔を縁取った紙札「銀縁札」と、貝殻に焼印を押した「潮貝券」が併用された。特に潮貝券は偽造が極めて困難であったとされるが、実際には甲殻類の産地によって色味が異なるため、むしろ識別しやすかったとの見方もある。帝国末期にはの両替商がこれを収集品として扱い、額面の3倍で売買していた。
海運と外交[編集]
ヤーラシマ帝国は海運国家として発展し、特にの航路短縮に寄与したとされる。帝国の船団は、昼は通常の帆走、夜は燈籠を用いた合図通信を行い、灯火の回数によって「祝意」「警戒」「豆腐不足」などを伝達したという。記録ではの最盛期に、登録船舶がに達した。
外交面では、との非公式交易、沿岸との塩・陶器交換、さらに領事館との「潮位交換協定」が有名である。とくにで結ばれたとされる協定では、ヤーラシマ帝国の潮位表と英国海軍の気圧計を照合することで、港の待機時間を平均短縮したと記される。ただし、現代の研究者の間では、この協定文に出てくる「海は会議によって静まる」という一文が帝国文学の引用ではないかと疑われている。
文化[編集]
儀礼と音楽[編集]
帝国文化の中心は「潮奉祭」と呼ばれる年4回の儀礼であった。祭では、海水を張った木盆の上で書記官が帳簿を読み上げ、楽師がと小型の鐘を交互に鳴らした。音階は「しお調」と呼ばれ、1オクターブを7音ではなくで区切るという珍しい体系であったとされる。
この音楽は、の芸妓やの船乗りの間で流行し、後に「濡れたワルツ」と呼ばれる舞曲を生んだ。もっとも、の音楽学校がこれを採譜しようとした際、毎回水滴で五線紙が破れるため、正式な記録がほとんど残らなかったという。
服飾と紋章[編集]
帝国の官服は、襟元に潮干狩り用の貝ボタンを配した青灰色の短衣であった。高官は袖口に赤い結び糸を付ける慣習があり、これは「潮が袖をほどかない」よう願う呪的機能を持つとされた。紋章は、三つの波線の上に鳥居を載せた意匠で、港によっては鳥居の脚が4本に増える変種も見られた。
の古着商が帝国官服の模造品を大量に出回らせたため、には正装と礼服の区別が曖昧になった。結果として、外国商館では「ヤーラシマ風の礼装」で出席すると賄賂を疑われにくい、という奇妙な実務知が広がったとされる。
衰退と滅亡[編集]
帝国の衰退は、頃の港湾近代化によって始まったとされる。蒸気機関の普及により潮待ちの価値が下がり、潮税制度が次第に形骸化したのである。さらにが港ごとの独自印章を「事務の混乱を招く」として整理したため、帝室の権威は急速に縮小した。
最終的な滅亡はの「白紙返納令」によるとされる。これは全ての商会が保有する帳簿の余白に官印を押し、帝国を「記録上のみ存続させる」制度であったが、実施の際に印が余白ではなく欄外に押される事案が多発し、逆に旧帝国の記録が膨張した。結果としてヤーラシマ帝国は制度としては消滅したものの、やの古物市場では昭和中期まで潮貝券が祝儀袋に使われ続けたという。
批判と論争[編集]
ヤーラシマ帝国をめぐっては、そもそも実在したのかという根本的な論争がある。考古学的には、との海岸部で帝国印の欠けた木箱や、船底に貼られた「潮主御用」と書かれた札が見つかっているが、いずれも出所が不明で、後世の収集家による捏造ではないかとの見方も強い。
また、一部研究者は、帝国史の多くがの郷土史家による「港町の誇張」を集約したものにすぎないと批判する。これに対し、擁護派は、帝国が実在国家であったかどうかは問題ではなく、潮位表と請求書が同じ帳面に書かれていたという事実こそが重要であると反論している。なお、にの研究グループが行った墨跡分析では、一部の公式文書にとが同時に使われた痕跡があり、これを「帝国の複数編集性」と呼ぶ説も提起された[要出典]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 麻生貫一『潮と印章――ヤーラシマ帝国成立史』潮文館, 1916年.
- ^ 久米原おとゑ『濡れた帳簿の経済学』港都出版, 1924年.
- ^ 藤堂英策「瀬戸内準国家の潮税制度」『海港史研究』Vol.12, No.3, pp. 44-79, 1987年.
- ^ Margaret A. Thornton, The Tidal Commonwealth of Yarashima, East Asian Maritime Review, Vol. 8, No. 2, pp. 101-138, 1996.
- ^ 佐伯了介『帝国と商会のあいだ――ヤーラシマの統治技術』岩波港湾書店, 2008年.
- ^ Hiroshi Kaneda, 'Customs at High Water: Fiscal Rituals in Yarashima', Journal of Invented Empires, Vol. 3, No. 1, pp. 1-33, 2011.
- ^ 小野寺澪「潮貝券の材質と偽造防止」『貨幣史論集』第21巻第4号, pp. 210-229, 2014年.
- ^ 渡辺精一郎『白紙返納令の政治文化』東京潮汐大学出版会, 2018年.
- ^ Emily R. Watson, Yarashima and the Problem of Wet Archives, Maritime Antiquities Quarterly, Vol. 15, No. 4, pp. 55-88, 2020.
- ^ 田村海斗『港が国家になるとき――近代日本の周縁政治』瀬戸内書房, 2022年.
- ^ 中村晴彦「ヤーラシマ帝国の音階体系に関する覚書」『音響民俗学会誌』第7巻第1号, pp. 12-27, 2009年.
- ^ George L. Pembroke, 'The Empire That Counted Tides Twice', Proceedings of the Kwansei Coastal Institute, Vol. 5, No. 6, pp. 300-321, 2017.
外部リンク
- ヤーラシマ帝国文書館
- 瀬戸内潮汐史研究会
- 港町国家アーカイブ
- 古海運貨幣ミュージアム
- 白紙返納令デジタルコレクション