ヨチチ
| 名称 | ヨチチ |
|---|---|
| 読み | よちち |
| 分類 | 測位器具、歩行記録法、民俗工学 |
| 起源 | 明治末期の東北地方 |
| 考案者 | 渡辺精一郎ほか |
| 主な使用地 | 宮城県、岩手県、福島県 |
| 用途 | 積雪地の歩行距離記録、村落間の伝達路確認 |
| 流行期 | 1910年代 - 1950年代 |
| 派生語 | ヨチチ法、半歩帳、雪面符 |
ヨチチは、のを中心に伝承されてきた小型の携帯用測位器具、またはそれを用いた歩行記録法である。末期にの寒冷地測量において実用化されたとされ、のちに民俗学と工学が交差する奇妙な対象として知られる[1]。
概要[編集]
ヨチチは、雪上やぬかるみでの歩行を補助するために用いられたとされる小型器具、ならびにその操作法の総称である。北部の一帯で先に用例が見られ、歩数ではなく「足の沈み込みの癖」を記録する点に特徴があった[2]。
名称は、試歩の際に足が前後へずれる擬音「よち、ち」を職人がそのまま呼称にしたものと説明されるが、別説ではの旧陸軍測量班が略号として採用した記号であったともいう。どちらの説も有力とされているが、初期資料が少なく、現在でもとされる部分が多い。
器具そのものは木製の踏み板、麻縄、真鍮製の指標環からなり、重量は平均で約480グラムであったと推定される。なお、携行時には腰帯に吊るす方式と、袴の内側に差し込む方式の二系統があり、後者はやや滑稽であったため普及率が低かったとされる。
歴史[編集]
成立期[編集]
ヨチチの成立は頃、南部の凍結路を調査していた測量技師・の工夫に帰せられることが多い。渡辺はで土木を学んだのち、冬季の道路台帳が毎年ずれることに着目し、歩幅ではなく「踏面の反発」を読む装置を試作したとされる[3]。
最初期の試作品は、地元の曲木職人が魚籠の骨組みを流用して作ったもので、雪を踏むたびに小さく鳴るため、村では「歩くたびに自分で所在を知らせる道具」として半ば警戒された。だが、の豪雪で郵便馬車が立ち往生した際、ヨチチを付けた若い書記が山道を単独で通過し、村落間の連絡を維持したことから評価が定まったという。
普及と制度化[編集]
期に入ると、の地方改良局が「積雪地歩行補助具試験要領」を作成し、からまでの32村で実地試験が行われた。試験では、ヨチチ使用者は非使用者に比べて平均歩行時間が12.4%短縮したとされるが、同時に転倒時の羞恥による回復遅延が増えたという記録もある[4]。
この時期、の技師だった高橋操一は、ヨチチに小型の砂時計を組み合わせる「時刻ヨチチ」を提案し、時刻の記録と歩行の記録を一体化させた。これにより、村役場の巡回員が「いつ、どこで、どれだけ足を取られたか」を提出する奇妙な台帳文化が生まれ、後年の民俗資料として高く評価されることになる。
衰退と再評価[編集]
以降、自動車道路と除雪機の普及により、ヨチチは実用品として急速に姿を消した。一方での側では、歩行の身体感覚を記録する珍しい資料として再評価が進み、収蔵の「半歩帳」や、大館市で発見された未使用品が注目を集めた[5]。
にはの研究グループが復元実験を行い、雪上での再現試験を行ったところ、被験者17名中14名が「歩行技術の研究というより、人生の躊躇を可視化している」と回答した。これが学術誌で紹介されると、ヨチチは「身体技法の器具化」の象徴として扱われるようになった。
構造[編集]
ヨチチの標準型は、前方の踏み板、側面の滑り止め羽根、中央の感圧棒から構成される。踏み板は長さ18cm、幅7.5cmが基準とされ、使用者の足幅に応じて3段階に調整できた[6]。
感圧棒は見た目に反して重要な部品で、歩行時の「ためらい」を真鍮の振れ幅として記録する役目を担ったと説明される。もっとも、実際には歩くたびに振れるだけで精密性は高くなかったともされ、記録者によっては数字を後から見栄え良く書き直した例がある。
また、冬季用の上位機種には「鳴子環」と呼ばれる小さな共鳴輪が付属し、一定以上の積雪では「チチ」と鳴る仕組みになっていた。このため、雪深い地域では実用性よりも「近づくと音で分かる安心感」が重視され、夜回りや墓地管理にも転用された。
使用法[編集]
ヨチチの使用は、まず踵を深く入れ、次に膝を軽く折り、最後に踏み板の反発を待つという三段階から成る。熟練者はこれを1歩あたり約0.8秒でこなし、未熟者は同じ動作に2.1秒を要したと記録されている[7]。
実地では、使用者が「よち」と声を出しながら踏み出し、反対側の観測者が「ち」と応答する慣行があったとされる。これが名称の由来そのものになったとする説もあるが、地域によっては「よち」「しょ」「ぼち」など応答語が揺れており、体系的運用はかなり雑であった。
なお、寒冷地の学校では冬期の通学訓練として用いられた時期があり、児童がヨチチを装着したまま校庭を三周すると「歩行印」が押される制度が一部で採用された。これをめぐり、保護者からは「子どもが先に覚えるのは算数ではなく足の言い訳である」との苦情が寄せられたという。
社会的影響[編集]
ヨチチは単なる道具にとどまらず、積雪地における移動の考え方そのものを変えたとされる。とくに初期の村落では、徒歩の距離よりも「どの程度ためらいながら歩いたか」が共同体内の信用を表す指標となり、役場の戸籍附票に近い感覚で扱われたという[8]。
また、の一部では、祭礼の行列にヨチチを装着して歩く「半歩行列」が生まれ、先頭者は必ず3回だけ膝を深く落とすことが作法とされた。これは神前での節度を示す行為であったが、外来者には単に足腰の弱い集団に見えたため、記録映画の解説が毎回ややこしくなった。
一方で、都市部では「ヨチチ」という語が転じて、何かを始める前に妙に間を置く人への比喩として用いられた。1930年代の地方版には、「課長のヨチチが長く、会議が三十分遅れた」といった用例が散見され、一般語化の兆しもあったとされる。
批判と論争[編集]
ヨチチをめぐっては、そもそも実在したのかという根本的な議論が続いている。保存会が公開した写真の一部に、器具の影が不自然に二重化しているものがあり、の新聞報道では「後世の民芸復元品を原資料と取り違えた可能性」が指摘された[9]。
また、の旧研究員・村井徳治は、ヨチチの感圧記録は実際には歩行データではなく、村ごとの酒宴回数を記した帳簿だったのではないかと主張した。これに対し地元の保存会は、酒宴回数が多い村ほど雪道の転倒が少なかったため、むしろ記録として優秀であると反論している。
さらに、復元実験で使われた試作品の一部がの既製品を流用していたことから、「伝統工芸とDIYの境界を曖昧にした偽民俗」であるとの批判もある。ただし、この批判自体がヨチチの本質、つまり“歩行と解釈のずれ”を最もよく示しているという評価もある。
脚注[編集]
[1] 渡辺精一郎『積雪地歩行器具考』東北地方土木協会, 1912年。 [2] 佐伯みどり「登米郡における半歩記録の系譜」『民俗と機械』第8巻第2号, 1964年, pp. 41-58。 [3] 高橋操一『踏面反発測定ノート』東京帝国大学工学部資料室, 1909年。 [4] 内務省地方改良局編『積雪地歩行補助具試験報告書』官報附録, 1924年, pp. 11-39。 [5] 村上亮一「東北における半歩帳の保存と展示」『国立歴史民俗博物館紀要』Vol. 14, 1984年, pp. 77-93。 [6] 斎藤和彦『雪面符具の構造と運用』北日本工芸出版, 1931年。 [7] 田口葉子「歩行時間と心理的ためらいの相関」『寒地生活研究』第3号, 1952年, pp. 5-21。 [8] 小林信夫『昭和村落における移動の倫理』地方文化新書, 1976年。 [9] 『河北新報』1989年2月14日付朝刊、「ヨチチ資料に新説」より。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『積雪地歩行器具考』東北地方土木協会, 1912年.
- ^ 高橋操一『踏面反発測定ノート』東京帝国大学工学部資料室, 1909年.
- ^ 内務省地方改良局編『積雪地歩行補助具試験報告書』官報附録, 1924年.
- ^ 斎藤和彦『雪面符具の構造と運用』北日本工芸出版, 1931年.
- ^ 佐伯みどり「登米郡における半歩記録の系譜」『民俗と機械』第8巻第2号, 1964年, pp. 41-58.
- ^ 田口葉子「歩行時間と心理的ためらいの相関」『寒地生活研究』第3号, 1952年, pp. 5-21.
- ^ 村上亮一「東北における半歩帳の保存と展示」『国立歴史民俗博物館紀要』Vol. 14, 1984年, pp. 77-93.
- ^ 小林信夫『昭和村落における移動の倫理』地方文化新書, 1976年.
- ^ M. H. Thornton, 'The Yochichi Problem in Snowbound Transit', Journal of Alpine Ethnotechnology, Vol. 6, No. 4, 1968, pp. 201-219.
- ^ Jean-Pierre Alaux『Le Yochichi et la marche hésitante』Éditions de la Semaine Blanche, 1979年.
- ^ 村井徳治『半歩帳は何を記録したか』国立科学博物館調査報告, 1990年.
- ^ 『東北工芸年鑑・第七号』特集「歩行具と恥の文化」, 1958年.
外部リンク
- 東北民具アーカイブ
- 寒地歩行史研究会
- 半歩帳デジタル庫
- 日本偽民俗学会
- ヨチチ保存協議会