ヨ連のダフバニスタン侵攻
| 別名 | ダフ峡谷作戦、冬季第七码解放行動 |
|---|---|
| 時期 | 1981年12月 - 1984年3月 |
| 場所 | ダフバニスタン北部、パンジェル山系一帯 |
| 結果 | ヨ連軍の部分撤退、暫定自治協定の締結 |
| 交戦勢力 | ヨ連邦軍、ダフ臨時評議会、山岳民兵連合 |
| 指揮官 | セルゲイ・ヴォルコフ、ハミド・アズィージー、ニーナ・リャボワ |
| 戦力 | 約48,000名、装甲車両1,120両、氷上輸送トラック約320台 |
| 被害 | 戦死約6,400名、行方不明約900名、民間人避難約17万人 |
ヨ連のダフバニスタン侵攻は、末期にがへ進出したとされる一連の軍事行動である。後年は、との発展を促した事件としても知られている[1]。
概要[編集]
ヨ連のダフバニスタン侵攻は、末から1984年にかけて行われたとされるの対外軍事介入である。表向きは国境紛争への治安支援であったが、実際にはの「永久凍結路線」を確保することが主目的であったとされる[2]。
この事件は、軍事史ではしばしばやと並べて論じられるが、近年の研究では、ダフバニスタン側が独自に運用していたの奪取をめぐる情報戦の性格が強かったとされる。また、参戦部隊の一部がレニングラード近郊で試験導入された耐寒ブーツをそのまま山岳戦へ流用したことが、装備史上の逸話として有名である。
名称と起源[編集]
「ダフバニスタン」という国名は、と周辺の牧畜共同体を指す行政上の呼称から生じたとされる。19世紀末にロシア帝国の測量官であったが地図上で誤って「Dafhban」ではなく「Dafbani」と記したことが、後の国号定着に影響したという説が有力である[3]。
一方、「ヨ連」とはの略称であったというのが通説であるが、実際にはモスクワの軍事アカデミー内部で用いられた符牒が一般化したにすぎないともいわれる。なお、要出典とされることが多いが、1980年代前半の新聞縮刷版には「ヨ連軍」の表記が断続的に見られる。
背景[編集]
侵攻の背景には、ダフバニスタン北部で発見されたとされると、そこから採取される「凍結触媒粉」の流通管理をめぐる対立があった。これを管理していたは、もともとの難民行政官と地元の宗教指導者が折衷してつくった組織で、首都機能は冬季のみ移転するという珍しい制度を採用していた[4]。
また、方面の国境地帯では、毎年11月になると標高2,800メートル以上の峠が「白い封鎖」と呼ばれる自然閉鎖状態に入り、通常の装甲輸送が不可能になった。このためヨ連軍は、雪面に敷くを大量に運搬する必要があり、作戦開始前だけで板材42,000枚が発注されたと記録されている。
経過[編集]
1981年の初動[編集]
12月、経由で山岳師団第14混成連隊がダフバニスタン北部へ越境した。先行部隊は「気象観測班」と称されていたが、実態はとを背負った工兵隊であり、開戦初日の補給失敗率は37%に達したとされる[5]。
同年末にはで「第1次氷結停戦」と呼ばれる24時間の休戦が成立したが、これは交戦双方が気温低下で火器の作動不良に陥ったためである。地元の羊飼いが暖炉用の脂を売り歩いたことが、思わぬ戦線再編につながったという。
1982年から1983年の膠着[編集]
春以降、ヨ連軍は谷筋ごとに小規模駐屯地を設置し、を展開した。各哨戒所には3桁の数字が与えられ、もっとも遠い哨戒所は「417-β」と記録されているが、実際にそこへ到達した記者は2名のみである[6]。
この時期に名を残したのが、中佐である。彼女は部下に対し、砲撃前に必ず「凍結前報告書」を提出させ、雪崩の危険度をAからFまでで評価した。結果として、彼女の部隊では戦闘死よりも「書類不備による出撃延期」が多かったとされ、軍内部では半ば伝説化した。
主要人物[編集]
セルゲイ・ヴォルコフは、出身の将官で、前線の実務よりも輸送計画に強いことで知られた。彼が作成した『冬季坂路における三輪装甲車の限界角度に関する覚書』は、のちにで教科書扱いされたという[8]。
一方、はダフバニスタン側の行政官でありながら、戦時中にを用いて部族同盟を束ねた人物である。彼の名を広めたのは、停戦会議で持参した「塩と紅茶の配分表」が外交文書として採択された逸話であり、これは現在も一部の研究者から「半ば伝説である」と注記されている。
社会的影響[編集]
侵攻後、ダフバニスタンではの整備が進み、各村に最低1台の発電機と2基の雪解け貯水槽を置く制度が整えられた。これにより乳製品の輸送が安定し、戦後5年で山羊乳の市場価格は平均18%下落したとされる[9]。
また、ヨ連邦では本件を契機としてが新設され、軍靴の底に砂ではなく細粒ゴムを混ぜる規格が制定された。一般社会でも「ダフ帰り」という言い回しが流行し、計画性のない出張を意味する俗語として定着したが、1990年代以降は徐々に使われなくなった。
批判と論争[編集]
この侵攻は、軍事的成功よりも行政上の混乱を残したとして批判が強い。特にの冬季補給帳簿には、同一のトラックが別々の峠で同日に目撃された記録があり、記録係の署名が5種類あることから、後年に改ざん疑惑が持ち上がった[10]。
さらに、地元住民の強制移住をめぐっては、国連の関連機関ではなくが調査を行ったとされるが、この組織の実在性については議論がある。もっとも、報告書に付された脚注が47ページすべて手書きであったことから、少なくとも現場の混乱が尋常でなかったことは確かである。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ Ivan S. Petrov『Winter Logistics and the Dafban Theater』Moscow University Press, 1991, pp. 44-79.
- ^ 渡辺精一郎「ダフ峡谷作戦における峠道工兵の配置」『軍事史研究』第18巻第2号, 1994, pp. 113-141.
- ^ Margaret A. Thornton『Frontier States and Frozen Corridors』Oxford Arctic Studies, 2002, pp. 201-238.
- ^ ハミド・アズィージー『塩と紅茶の配分表』ダフ行政文書館, 1985, pp. 3-19.
- ^ Sergei Volkov『Memoirs of a Cold Road』Leningrad Strategic Review, Vol. 7, No. 1, 1990, pp. 9-55.
- ^ 高橋道夫「ヨ連の対外介入と雪原電信網」『アジア冷戦史論集』第4巻第3号, 1998, pp. 77-102.
- ^ N. Lyabova『A Field Manual for Avalanche Reporting』Military Science Academy Bulletin, Vol. 12, No. 4, 1986, pp. 1-26.
- ^ L. A. Beaumont『The Dafbanistan Question: Maps, Misspellings, and Mountains』Cambridge Borderland Series, 2004, pp. 88-124.
- ^ 山口俊彦『山羊市場と戦時経済』北方文化社, 2011, pp. 150-177.
- ^ Pavel N. Sidorov『On the Administrative Use of Goat Milk during Occupation』Journal of Irregular Logistics, Vol. 3, No. 2, 1993, pp. 66-91.
外部リンク
- ダフバニスタン史料館
- ヨ連邦軍事文書アーカイブ
- パンジェル地名研究会
- 寒冷地兵站史ポータル
- 山岳電信網データベース