一新ゼミ
| 名称 | 一新ゼミ |
|---|---|
| 読み | いっしんぜみ |
| 英語表記 | Isshin Seminar |
| 成立 | 1927年ごろ |
| 提唱者 | 白石文造、マーガレット・H・クロフォード |
| 発祥地 | 東京府神田区(現・東京都千代田区周辺) |
| 主な用途 | 少人数研究、作文訓練、共同編集 |
| 特徴 | 議論の前に全員で目次を作る |
| 関連機関 | 帝都教育協会、一新印刷研究会 |
一新ゼミ(いっしんぜみ)は、内の私設教育研究会を起源とする、少人数討議型の運営方式である。一般にはの学生自治から生まれた制度として知られているが、成立史をたどると、の印刷術改良と密接に関係していたとされる[1]。
概要[編集]
一新ゼミは、参加者が資料を持ち寄り、毎回の冒頭で「既存の理解を一度白紙に戻す」ことを誓約してから討議を始める形式の学習・研究制度である。通常のと異なり、発言順は年功ではなく、配布資料の余白に最も多く注釈を書いた者から優先されるとされる。
この方式は、末から初期にかけての印刷業者、教育者、新聞校正者のあいだで発生した「紙面の再編成運動」が母体になったという説が有力である。もっとも、初期資料の多くがで散逸したため、後年の研究では半ば神話化した組織史として扱われることもある[2]。
成立史[編集]
印刷工房から講義室へ[編集]
一新ゼミの原型は、にの活版工房「白河組組版所」で行われた夜間勉強会にあるとされる。工房主の白石文造は、校正紙の誤字を減らすためには、作業者が文章の意味を理解していなければならないと考え、週一回の輪読会を始めた。これが後に、誤植の修正よりも「構成の再発明」を重視する会合へ変質したのである。
白石の妻で翻訳家の白石澄江は、圏の教育実践を参照しつつ、討議の際に全員へ異なる色の鉛筆を配る方式を導入した。1929年時点で鉛筆は8色しかなく、参加者は同じ論点でも色を巡って微妙に主張を変えるようになったという。のちにこの習慣が「色替え討議」と呼ばれ、一新ゼミの象徴的作法になった。
帝都教育協会による制度化[編集]
、は、一新ゼミの訓練効果を評価し、系の外郭研究として「共同推敲班」の名目で採択した。採択文書では、討議時間のを「前半18分・中盤9分・再構成12分・沈黙6分」に区切ることが推奨され、沈黙までもが教育資源として管理された。
この制度化により、一新ゼミは学生サークル的な性格を失い、半ば官僚的な運営へ移行したとされる。一方で、毎回の記録簿には参加者の発言量ではなく「沈黙中の視線移動回数」が記されていたとの記述があり、現在では誇張の可能性が指摘されている[要出典]。
戦後の再興と全国展開[編集]
以降、一新ゼミはとの私立大学を中心に再興し、特に文学部と社会学部で流行した。戦後の再出発においては、戦前の規律的色彩を薄めるため、冒頭の誓約文が「白紙に戻す」から「もう一度考える」に改められたという。
にはの研究者・松原義隆が『一新ゼミ技法概論』を刊行し、全国の短期大学や夜間高校に普及した。これにより、発表者が黒板の前で立つのではなく、机を円形に並べる「環座法」が標準化したが、教室の広さが足りない学校では机が楕円になり、結果として議論の重心が片側に寄る現象がしばしば見られた。
運営と作法[編集]
一新ゼミでは、通常の発表担当者に加えて「再配列係」「注釈監査係」「沈黙記録係」が置かれる。とくに再配列係は、配布資料の順序を毎回変える権限を持ち、同じ論文でも章立てを入れ替えることで別作品として扱う習慣を生んだ。
また、討議の冒頭で配られる「一新札」と呼ばれる小さな紙片には、その回で議論してはならない語が3〜5語印刷されている。たとえばの標準版では「結論」「常識」「前例」「教授」の4語が禁句として指定され、発言者はこれらを言い換えるために異様に長い比喩を用いるようになった。
この作法は、形式上は厳格でありながら、実際には発想の逸脱を促す仕組みとして高く評価された。ただし、に入ると「議論より準備に時間がかかる」との批判も増え、ある大学では一回のゼミで資料の穴あけ作業だけでを要したという記録が残っている。
社会的影響[編集]
一新ゼミは教育現場にとどまらず、出版、行政、広告業界にも影響を与えたとされる。特に後半の系の編集者たちは、一新ゼミの「先に目次を作り、あとから本文を追う」方式を採用し、長文記事の見出し構成に革命を起こしたという。
また、系の若手職員研修で導入されたことから、報告書の冒頭に「今月は何を新しく言い直すか」を書かせる慣行が生まれた。これは当初、書類の冗長化を招くとして不評であったが、のちに「報告の創造性を担保する」という名目で広く模倣された。
一新ゼミの影響は地方にも及び、の農業講習会では、作付け計画の前に議題を5回並べ替える「五転法」が定着した。もっとも、実際の収量改善との因果関係は薄いとされ、研究者の間でも評価は割れている。
批判と論争[編集]
一新ゼミに対する批判として最も多いのは、理念が高度すぎて運営が儀式化しやすい点である。とりわけの「札幌事件」では、参加者18人のうち14人が配布資料の再配列に夢中になり、肝心の論題に到達しないまま終了したため、新聞各紙が「討議のための討議」と皮肉を述べた。
また、創始者の一人とされるマーガレット・H・クロフォードについては、の訪日記録に同名人物が確認できる一方で、一新ゼミの文脈に直接つながる証拠が乏しく、後年の編纂で人物像が膨らんだ可能性がある。なお、白石文造の署名入りとされる初期規約は、紙質鑑定で以降の紙と判定されたという報告もあり、成立年代にはなお議論がある。
現在の運用[編集]
の一新ゼミは、大学院や企業研修において半ば慣習的に継承されている。オンライン化に伴い、参加者は画面上で資料の順番を入れ替えることになったが、通信遅延のため、発言と注釈の順序が逆転する現象が頻発した。
そのため、現在では「三秒以上の無音は編集可能である」という不文律があり、発言を一度録音したあと、会議後に再構成する自治体もあるとされる。とくにの一部私大では、学生が発表のたびに色付き付箋をまで貼ることを義務づけており、これは一新ゼミの精神を最も忠実に残す方法として紹介されることがある。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 白石文造『一新ゼミ要綱』白河組組版所, 1934年.
- ^ 松原義隆『一新ゼミ技法概論』東京教育出版, 1962年.
- ^ Margaret H. Crawford, "Rearranging the Seminar: A Tokyo Experiment", Journal of Pacific Pedagogy, Vol. 8, No. 2, pp. 114-139, 1959.
- ^ 田中照夫『討議の再配列とその周辺』帝都学術社, 1971年.
- ^ Aiko S. Watanabe, "Silent Gaze Counts in Prewar Seminar Rooms", Studies in Japanese Educational Forms, Vol. 12, No. 4, pp. 201-223, 1988.
- ^ 北村栄一『注釈監査係の実務』南洋書房, 1996年.
- ^ H. Crawford & B. Shiraishi, "The White Page Oath and Its Afterlives", International Review of Seminar Studies, Vol. 3, No. 1, pp. 9-41, 1978.
- ^ 『一新ゼミ史料集 第2巻』帝都教育協会史料室, 2004年.
- ^ 佐伯康平『沈黙の教育史』みすず教育叢書, 2011年.
- ^ Kensuke Mori, "The Seminar That Refused to Begin", Bulletin of East Asian Instructional History, Vol. 19, No. 3, pp. 77-96, 2022.
- ^ 渡辺芳春『目次先行型学習法の研究』新潮社教育選書, 1981年.
- ^ 『一新ゼミと紙面革命』日本校正史研究会紀要 第17号, pp. 5-28, 2009年.
外部リンク
- 帝都教育史アーカイブ
- 一新ゼミ史料デジタル館
- 神田活版文化研究所
- 目次学会
- 戦後討議技法センター