丁阿用
| 分類 | 農産物税・所得税の折衷型 |
|---|---|
| 主な徴収対象 | 作物(丁)と現金・換算収入(阿) |
| 献上率 | 原則として各4割 |
| 区分 | と |
| 施行地域 | 中原一帯を中心に運用されたとされる |
| 文書形態 | 歳出台帳・納税割符・里程帳 |
| 関連官庁 | 丁阿用徴収監(架空) |
| 特徴 | 献上比率に連動した「季節換算」 |
丁阿用(ちょうあよう)は、古代中国において行われたとされる税制度である。特に、採れた作物の「4割」を献上する(ほうばぎ)と、収入の「4割」を献上する(えいう)に分かれる点が特徴である[1]。
概要[編集]
丁阿用は、古代中国において農村の収穫と都市の所得を同じ“物差し”で扱うために整備された税制度であると説明されることが多い。とりわけ、納税者が負担区分として(ほうばぎ)と(えいう)に割り当てられ、各区分が作物または収入のそれぞれ4割を献上する点が、制度の骨格とされている[1]。
制度の成立は、干ばつや洪水のたびに「実際に食えた量」と「本来の見込み収入」が食い違い、徴税が揉め続けたことへの応答だった、とする説がある。そこで、季節ごとの換算(収穫物を“換金しうる状態”に近づけて評価する手続)が組み込まれ、結果として、毎年の帳簿が奇妙なほど細かい単位で更新されるようになったとされる[2]。
なお、丁阿用の“阿”は、方言的な語感から「収納・計算のための補助口座」を意味した、と解釈する研究者もいる。一方で、制度をめぐる史料が後世の転記によって作られた可能性も指摘されており、初期運用の実態は確定していないとされる[3]。
制度の仕組み[編集]
丁阿用は、里(村)ごとに作成される歳出台帳と納税割符を起点として運用されると説明される。歳出台帳には、収穫量の欄だけでなく、保管の良し悪しや保管可能日数まで書き込む欄があるとされ、納税割符には区分(または)が刻印されたとされる[4]。
は、採れた作物の4割を献上する負担区分である。ここでいう「作物の4割」は、実重量ではなく“刈り取り直後の換算重量”で計算されるのが特徴だったとされ、湿気や虫害の見込みをあらかじめ差し引く「葉面補正(ようめんほせい)」が導入されたとされる[5]。
は、収入の4割を献上する負担区分である。得(とく)は賃金・売買益・手数料・遠隔地交易の取り分などを含む“換算収入”とされ、納税時には銅銭、布、香辛料の持ち込み比率に応じて「支払換算係数」が変動したと説明される[6]。
さらに丁阿用の運用を特徴づけたのが、季節換算である。春の献上は刈り取り負担が重いため「得上げ係数」が0.93、秋の献上は保管負担を考慮して1.07とされた、とする極めて具体的な記述が、後世に編集された台帳写本に残るとされる[7]。このように数値が細かいほど、制度を“実際に運用できたように見せる”効果があったと指摘されている[8]。
歴史[編集]
成立:税の不一致を“4割”で縫い直す[編集]
丁阿用の成立は、末期の租税改革に由来するとされる。とくに、河北の穀倉が大凶作に見舞われた年、徴税官が「計画収穫量」を基準に銅銭を要求し、村が“金の代わりに米を出す”などの混乱を招いたことが直接の引き金になった、と説明されることが多い[9]。
そこで、徴税官の一部が「計画収穫量の4割」を固定しつつ、作物献上の側と現金献上の側をそれぞれ別の区分に切り分ければ、揉める回数が減るのではないかと考えた、とされる。こうして作物側が、収入側がとして整備され、結果として“どちらを選んでも4割”という見た目の公平が作られたとされる[10]。
ただし、この「見た目の公平」には副作用もあった。4割固定ゆえ、取引のタイミングで損得が発生し、里の有力者が“収入の名目”を操作してへ寄せる動きが出たと指摘されている[11]。この種の最適化が、のちに制度の運用コストを増やしたとも考えられている。
運用拡大:洛陽の帳簿が細かすぎた[編集]
丁阿用が特に強く制度化されたのは周辺であるとされる。洛陽の徴税支所は、里から届く納税割符を“同一日に同一人へ渡す”ために、割符の受け渡し時刻を刻む慣行を作ったと説明される[12]。
この仕組みの背景には、台帳作成を担当した(架空)の筆記官が、帳簿の整合性を取るため「1回の照合を9工程に分解する」というルールを導入したことがあるとされる。たとえば、工程1は“銅銭と布の換算”、工程4は“葉面補正”、工程7は“季節換算の係数適用”、工程9は“里印の照合”といった具合である[13]。
一方で、運用が細かすぎたために、現場は「照合が遅れて献上が先行しない」という事態に見舞われたとも伝えられる。ある記録では、洛陽での照合遅延が年内のうち最大で“13日”に達したとされ、これが住民の不満と、徴税官への口頭謝罪(謝礼金ではない)が急増した原因になったとされる[14]。
衰退:4割が“逃げ道”になる[編集]
丁阿用は一定の時期に普及したのち、しだいに衰退したとされる。衰退の理由としてよく挙げられるのが、4割という固定率が、取引・名目の操作を促した点である。具体的には、農民が「収入」を得以上側に寄せないように、販売の契約形態を“代金の受領を翌季へ先送り”する形へ変えた、と説明される[15]。
また、監査が強まると、今度は「作物の換算」をめぐる争いが増えた。葉面補正の計算に必要な数値は、結局のところ“現場の申告”に依存しており、申告が揉めると献上品の受領そのものが止まったとされる[16]。
この結果、丁阿用は別の税体系へ置き換えられた、とする見方がある。ただし、置き換えの時期や名称は資料により異なり、ある版では“丁阿用は実質的にへ吸収された”と述べられる一方で、“丁阿用は単に呼び名が変わっただけ”という反論もある[17]。
批判と論争[編集]
丁阿用は、制度の公平性を謳いながら、実務では“換算”と“区分”が争点になりやすかったとされる。特に、では葉面補正が、では支払換算係数が、いずれも現場判断と結びつきやすかったため、同じ収穫・同じ商いでも差が生まれると指摘されている[18]。
批判の一部には、制度が「弱い側ほど計測誤差を負担する」構造になっていたという見方がある。たとえば、保管設備の乏しい里では保管可能日数が短く見積もられ、換算重量が下がることで結果的に献上が不利になる、と説明されることが多い[19]。
他方で、制度擁護派は「4割固定は、揉めるたびに全体の見通しを壊す“増税の連鎖”を抑える装置である」と主張したとされる。実際、徴税官が“追加徴収”に走りにくかった年があったとする記述があり、これが制度存続の根拠として引用されたとされる[20]。
ただし、論争の決着は史料の偏りに左右されており、特定の里の記録だけが残っている可能性があるとも指摘される。ここに、出典のない具体的数値(例:係数0.93や1.07など)が、後世の編集で脚色されたのではないかという疑いも生まれている[21]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 王璞『丁阿用制度の四割』風陣書房, 1931.
- ^ 呂澄『葉面補正の数理史』中華帳簿研究会, 1978.
- ^ 周寅臣『洛陽の徴収機構(第2巻第1号)』東都史料刊行会, 1984.
- ^ Minghao Chen『Seasonal Coefficients in Ancient Taxation』Journal of Fiscal Antiquities, Vol. 12 No. 3, 1999.
- ^ 佐久間廉『古代中国における換算収入の概念』京都古文書学会, 2007.
- ^ ハン・キュウ『割符と照合工程:9工程モデルの再検討』史料工学叢書, 第4巻第2号, 2012.
- ^ 李承澤『永和租への統合過程』北梁法制史研究所, 1966.
- ^ A. Ouyang『The Ding-a-yong Fiction of Fairness』Proceedings of the Pretend-History Society, Vol. 7 pp. 41-66, 2003.
- ^ 田中楓『税体系の命名と政治』東京学術出版, 2018.
- ^ Zhang Ruiling『On the 0.93 and 1.07 Coefficients』Annals of Account Folios, Vol. 3, pp. 101-131, 2015.
外部リンク
- 丁阿用アーカイブ(架空)
- 方葉義・得以上用語集(架空)
- 洛陽照合工程図鑑(架空)
- 古代帳簿写本の会(架空)
- 税と換算の系譜サイト(架空)