三・三四事件
| 時代 | 17世紀半ば |
|---|---|
| 発生日 | 1648年3月34日 |
| 場所 | バタヴィア近郊の海岸測量区 |
| 原因 | 港湾税率の算定に用いる暦日と潮位表の不一致 |
| 結果 | 測量局の再編、港務条例の改定 |
| 死者 | 17名から41名とする説がある |
| 主導勢力 | 港湾測量官団、民兵、現地商人組合 |
| 別名 | 三日四日争議、三四騒擾 |
| 後続制度 | 三四式潮位基準 |
| 史料 | 『バタヴィア測量院日誌』ほか |
三・三四事件(さん・さんよんじけん)は、にの港町近郊で起きたとされる、測量基準の切り替えをめぐる騒乱である[1]。後世には「三度目の三日と四日が重なった夜の騒動」とも呼ばれ、海域史の奇妙な分岐点として知られている[2]。
概要[編集]
三・三四事件は、の港湾行政において、との整合をめぐって発生した事件である。とりわけの税関では、3日と4日をまたぐ夜間に船舶の接岸料が二重計算される慣行があり、これが商人側の反発を招いたとされる[1]。
事件名の「三・三四」は、単なる日付ではなく、当時の測量官が用いた「3日を4分割する暦上の補助記号」に由来するという説が有力である。ただし、後年の史料編纂ではこれが誤読され、あたかも特定の武装衝突の名称であったかのように定着したとの指摘がある[2]。
背景[編集]
事件の背景には、総督府が導入した新しい港湾課税制度がある。これは、、の各港で異なる潮位表を一本化し、午後三時三十分を「実務上の四日目」と扱う特殊な勘定法であった[3]。この制度は机上では合理的であったが、現場では満潮の遅れにより船主が毎週のように抗議した。
また、測量局に派遣されていたは、暦日補正のために真鍮製の円盤を重ねる「三四輪」を考案したが、これが風雨でずれやすく、港務係の間で「読む者によって日付が変わる装置」と皮肉られた。なお、この三四輪はのちにの海事史講座で教材化されたとされるが、出典は乏しい。
経緯[編集]
前夜の集会[編集]
1648年3月33日にあたる夜、港湾労働者と商人組合はの倉庫街に集まり、翌日の課税停止を求めた。集会は当初、羊皮紙の回覧だけで済むはずであったが、税吏が持ち込んだ計算盤が「四日目」と判定される時刻をめぐって混乱し、議論は急速に先鋭化した[4]。
このとき、という下級測量助手が、潮位表に赤墨で「3→4」と書き足したことが発端だったともいう。彼はのちに「数字を書き換えたのではなく、海が先に日付を変えた」と弁明したが、議事録では半ば冗談として扱われた。
発火点[編集]
決定的だったのは、税関倉庫前に置かれていた時鐘が、低温のために34回鳴るはずのところを33回で止まったことである。これにより徴税官は「まだ三日である」と主張し、商人側は「すでに四日が始まっている」と応酬した。双方の解釈は一歩も譲らず、見張りの笛が三度鳴った直後、投げ縄と計算帳がぶつかり合う小競り合いに発展した[5]。
後年の報告書では、実際に流血が生じたのは港の秤台が転倒した際の一件のみで、死傷者の多くは「帳簿を守ろうとして腰を打った者」であったとされる。だが、当時の宣伝文書では「港湾一帯が四日間燃えた」と誇張され、事件の印象を大きくした。
影響[編集]
事件後、総督府は港湾課税を暦日ではなく潮位刻へ換算する「三四式潮位基準」を採用した。これは午前・午後の区別に加えて、「潮が引いた後の半日」を独立した課税単位として認めるもので、東南アジア海域の諸港に断続的に広まった[6]。
また、事件を受けて内に「日付調停室」が設けられ、各地の測量官が年に二度、実際の太陽よりも先に暦を決める会議を行う慣行が生まれた。この制度は行政効率を改善した一方で、商人たちの間では「紙の上でだけ一日早く老いる」と揶揄された。
文化面では、この事件を題材とした港町芝居『三日目の海、四日目の印』がで上演され、計算盤をめぐる口論が喜劇として定着した。なお、作中で用いられる「三と四の中間に立つ者は二重税を免れる」という台詞は、後世の法学者に実務的示唆を与えたとする説もある。
研究史・評価[編集]
同時代史料[編集]
同時代の史料としては、『』、『港湾課税補遺』、『聖クララ埠頭議事録』が挙げられる。これらは概して事件を「計算上の暴動」として記述しており、武力衝突よりも帳簿の改竄や印章の押し間違いに紙幅を割いている[7]。
ただし、日誌の一部は後世に書き写される過程で、3月34日という表記が3月4日と読まれた可能性がある。そのため、事件の実在日付をめぐっては現在も議論が残る。
近代以降の評価[編集]
末になると、の海事史研究者が「三・三四事件は、近代官僚制が暦そのものを支配しようとした最初期の試みである」と位置づけた。これに対しの植民地経済史研究では、事件を港湾労働者の賃金交渉として読む説が有力である[8]。
さらにの会議では、事件の「三・三四」は実在の年月日ではなく、測量官が使った符丁であるとする報告が出され、学界をやや騒がせた。もっとも、その報告が結論として採用されたかどうかは、議長の時計が止まっていたため曖昧である。
脚注[編集]
[1] J. van Santen, "The Three-Four Adjustment in Batavian Customs", Journal of Maritime Irregularities, Vol. 12, No. 3, 1988, pp. 44-61.
[2] 佐伯修一『港湾暦法と事件命名』海潮社, 2004年, pp. 103-117.
[3] M. R. de Vries, "Tide Tables and Taxation in the Dutch East Indies", Asian Colonial Studies, Vol. 7, No. 1, 1979, pp. 9-28.
[4] 阿部光雄『測量局の夜会と三四輪』港都書房, 1991年, pp. 66-72.
[5] P. L. Hartono, "Bell Counts and Civic Disorder", Proceedings of the Batavia Historical Society, Vol. 21, 1965, pp. 201-219.
[6] 伊藤園子『三四式潮位基準の成立』東洋海事出版, 2010年, pp. 15-39.
[7] C. van Hoogen, "Primary Sources for the March 34 Disturbance", Leiden Archive Review, Vol. 4, No. 2, 1957, pp. 88-96.
[8] K. Nakamura, "Customs, Wages, and the Misread Date", Pacific Economic History Quarterly, Vol. 18, No. 4, 1974, pp. 301-320.
[9] 『三・三四事件資料集』バタヴィア港湾史料編纂室, 1982年.
[10] R. E. Saldanha, "When the Sea Changed the Calendar", Port and Empire Studies, Vol. 9, No. 2, 2001, pp. 77-90.
関連項目[編集]
脚注
- ^ J. van Santen "The Three-Four Adjustment in Batavian Customs" Journal of Maritime Irregularities Vol. 12 No. 3, 1988, pp. 44-61.
- ^ 佐伯修一『港湾暦法と事件命名』海潮社, 2004年.
- ^ M. R. de Vries "Tide Tables and Taxation in the Dutch East Indies" Asian Colonial Studies Vol. 7 No. 1, 1979, pp. 9-28.
- ^ 阿部光雄『測量局の夜会と三四輪』港都書房, 1991年.
- ^ P. L. Hartono "Bell Counts and Civic Disorder" Proceedings of the Batavia Historical Society Vol. 21, 1965, pp. 201-219.
- ^ 伊藤園子『三四式潮位基準の成立』東洋海事出版, 2010年.
- ^ C. van Hoogen "Primary Sources for the March 34 Disturbance" Leiden Archive Review Vol. 4 No. 2, 1957, pp. 88-96.
- ^ K. Nakamura "Customs, Wages, and the Misread Date" Pacific Economic History Quarterly Vol. 18 No. 4, 1974, pp. 301-320.
- ^ 『三・三四事件資料集』バタヴィア港湾史料編纂室, 1982年.
- ^ R. E. Saldanha "When the Sea Changed the Calendar" Port and Empire Studies Vol. 9 No. 2, 2001, pp. 77-90.
外部リンク
- バタヴィア港湾史料館
- 東南アジア海事年代記データベース
- 三四式潮位基準研究会
- 海岸暦法アーカイブ
- 港務官僚制史オンライン