不良達
| 名称 | 不良達 |
|---|---|
| 読み | ふりょうたち |
| 英語表記 | Buryo-tachi |
| 成立 | 1958年頃とされる |
| 発祥地 | 東京都台東区・墨田区周辺 |
| 提唱者 | 渡辺精一郎(諸説あり) |
| 主要活動 | 夜間巡回、制服改造、駅前交渉、縄張り再編 |
| 記録媒体 | 手書き班誌、写真帖、商店会報 |
| 影響 | 後年の青少年文化、演劇、地域防犯活動 |
不良達(ふりょうたち)は、中期の内で成立したとされる、制服の着崩し方・夜間の集会儀礼・連帯確認の所作を体系化した準非公式集団である。のちにの都市部を中心に拡散し、若年層の自律規範として研究対象になったとされる[1]。
概要[編集]
不良達は、単なる非行集団ではなく、規律を自分たちの内部で設計し直した半自治的な若者共同体として説明されることが多い。特に周辺の喫茶店やの映画館前で行われたとされる「三拍子の会釈」は、相手への敵意と敬意を同時に示す儀礼として知られている[2]。
名称は当初、警察の内偵報告における「不良ども」の誤記から生じたとする説が有力であるが、のちに当事者が自称として採用したとされる。なお、1963年のの内部文書には「達」の字が、人数の多さではなく「達観した振る舞い」を意味すると解釈された痕跡がある[3]。
歴史[編集]
成立期[編集]
起源はの三ノ輪付近にあった自転車修理工場の夜勤者たちに求められることが多い。工場長の息子であった渡辺精一郎が、作業服の裾を折り返して裾上げする習慣を「機能美」とみなし、同年代の職工見習い12名に対して統一服を提案したのが始まりとされる[4]。
彼らは毎週金曜の閉店後、沿いの倉庫街で集合し、ラジオから流れるや演歌を交互に聴きながら、翌週の移動経路を決めた。最初期の不良達は喧嘩を目的とせず、むしろ「無駄に騒がず、しかし舐められない」ことを目標にした点で他の不良像と異なっていたとされる。
拡大と分派[編集]
頃になると、不良達は船橋市の港湾労働者の子弟、さらに横浜市の埠頭周辺へと拡大した。ここで制服の色を紺から鼠色へ変える「灰化運動」が起こり、これに反対する保守派は「濃紺派」を名乗って分裂した[5]。
この分派は一見些細に見えるが、実際には夜間の視認性、警官への印象、商店会からの融通の受けやすさに直結したため、各地で軽微な抗争を生んだとされる。1964年の東京オリンピック期間中には、選手村周辺の立入制限を逆手に取り、メンバーが「観戦係」と「補給係」に分業して地下鉄の乗り換え案内を独自に整備したという逸話が残る。
制度化と衰退[編集]
、不良達の一部はの卒業生を中心に「礼節係」「外出係」「補修係」の三役制を導入し、事実上の組織運営マニュアルを作成した。これが後に『週刊若人』で「裏の生徒会」と呼ばれ、都市青少年研究における重要資料として扱われるようになった[6]。
しかし以降、進学率の上昇とカラオケボックスの普及により、集会の中心が駅前から屋内へ移ったことで、儀礼性は急速に薄まった。なお、1974年に発見されたとされる「第三班記録」では、最後の定例会に参加した人数が17名ではなく19名であったと記されており、ここだけは現在もの議論が続いている。
特徴[編集]
不良達の特徴は、暴力よりも「見え方」を重視した点にある。たとえば学生服の第二ボタンを外す位置まで細かく規定し、外す段数が2段の者は「軽装」、3段の者は「前線」、4段の者は「観測」と呼ばれたという。
また、喫煙の本数、歩行速度、駅の改札を通過する順番まで暗黙の符丁が存在したとされる。これらは厳密な意味での規則ではなく、むしろ互いの空気を読ませるための「柔らかい命令」として機能したと分析されている[7]。
社会的影響[編集]
不良達は、当初は学校や警察から問題視されたが、のちに地域社会に一定の秩序をもたらしたと評価されることもある。では、彼らが夜間の自転車整理や迷子の保護を行ったことで、深夜の客足が1.3倍に増えたという記録が残る会報による[8]。
一方で、彼らの独特な美学はファッション産業にも取り込まれ、の古着店では1969年頃から「不良達カット」と称する裾幅の広い学生服が売られた。さらに、後年の舞台演出家・松浦京介は、不良達の隊列移動を再現した群舞作品『駅前の12秒』を制作し、小劇場賞を受賞したとされる。
批判と論争[編集]
不良達をめぐっては、その実在性自体に疑義を唱える研究者もいる。特に社会史研究室の小野寺美咲は、残された写真の多くが逆光で顔が判別できず、しかも全員が妙に姿勢良く写っていることから、「後年の演出写真ではないか」と指摘した[9]。
また、渡辺精一郎が本当に創始者であったかについても意見が割れている。ある説では、彼は単なる記録係であり、実際の組織原理はの靴磨き職人・林徳蔵が考案したとされる。もっとも、林の名は一度も班誌に現れないため、現在でも論争は決着していない。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『不良達とその時代』都心文化出版, 1987.
- ^ 小野寺美咲「戦後都市における若年儀礼の再編」『社会史研究』Vol. 18, No. 2, 2001, pp. 44-71.
- ^ 林徳蔵『夜の商店街と規律の技法』隅田川学術社, 1972.
- ^ 東京都立資料館編『三ノ輪班誌集成 第一巻』東京都立資料館, 1995.
- ^ Margaret A. Thornton, "Civic Deviance and Youth Code in East Asia," Journal of Urban Folklore, Vol. 12, No. 4, 2008, pp. 201-229.
- ^ 佐伯光司『不良達の服飾記号論』新宿文化書房, 1999.
- ^ Kenta Hasegawa, "The Grayening of Subcultural Uniforms," Pacific Review of Social History, Vol. 7, No. 1, 2014, pp. 9-33.
- ^ 東京都商店連合会『深夜帯における若者群集の通行実態報告』会報第14号, 1969.
- ^ 松浦京介『駅前の12秒:群舞と逸脱の演出』劇場論叢, 第5巻第3号, 2012, pp. 88-102.
- ^ 渡辺精一郎・林徳蔵共著『不良達覚書』三ノ輪出版部, 1970.
- ^ 小野寺美咲『逆光写真と都市伝説』青弓社, 2004.
- ^ “Proceedings of the Bureau of Juvenile Conduct, 1968 Special Issue,” East Tokyo Municipal Papers, pp. 1-64.
外部リンク
- 東京若年文化アーカイブ
- 隅田川都市民俗研究所
- 不良達班誌デジタル閲覧室
- 三ノ輪昭和資料センター
- 夜の駅前文化保存会