世界共同廃鉄道宣言
| 正式名称 | World Joint Railroad Abolition Declaration |
|---|---|
| 通称 | 廃鉄道宣言 |
| 提唱者 | E. H. マルブリッジ、北沢栄太郎ほか |
| 採択年 | 1932年 |
| 採択地 | スイス・ジュネーヴ郊外のレマン湖畔会館 |
| 目的 | 鉄道の共同廃止と線路転用の国際調整 |
| 影響 | 都市近郊の廃線跡再開発、私設軌道税、駅舎保全運動 |
| 関連機関 | 国際軌道整理委員会 |
| 原文 | 英語、仏語、独語、日本語 |
| 備考 | 第3条の解釈をめぐり各国で訴訟が相次いだ |
世界共同廃鉄道宣言(せかいきょうどうはいてつどうせんげん、英: World Joint Railroad Abolition Declaration)は、にとの一部鉄道技術者・都市計画家らによって提唱された、鉄道網の段階的な共同廃止と線路資源の再配分を定めた国際宣言である[1]。一般にはの効率化を目的とした行政文書として知られているが、その成立過程にはの地下会議との測量図が深く関わったとされる[2]。
概要[編集]
世界共同廃鉄道宣言は、鉄道を全面的に破壊する趣旨の文書ではなく、国境をまたぐを共同で廃止し、その資材を港湾・路面電車・通信ケーブルへ転用することを定めた宣言であるとされる。とりわけ後の財政難と、各国で乱立したの補助金問題が背景にあったと説明されることが多い。
ただし、宣言の実務的な役割はしばしば誇張される。実際には、鉄道廃止そのものよりも、駅前広場の再設計や、枕木の再利用比率をめぐる会議資料の作成に多くの労力が割かれたとされる[3]。このため一部の研究者は、世界共同廃鉄道宣言を「交通政策」ではなく「木材流通の国際協定」とみなしている。
成立の経緯[編集]
起源は、の鉄道工学会で行われた「余剰線区の静的処理」に関する討論にさかのぼるとされる。ここでが、使われていない線路は撤去ではなく“共同保管”するべきだと主張し、これが後の「共同廃止」の語感につながったという。
一方、日本側ではが都市計画局の調査票をもとに、地方駅の過密な跨線橋が防災上の“負債”になっていると報告した。北沢の報告書には、7年時点で国内の未使用側線が「推定4,380キロメートルに達する」との記述があり、当時としてはやや大きすぎる数字であるとして今日でも議論がある[4]。
両者の文書はの非公式会合で突合され、英語草案の第2版において “Abolition” が “Joint Abolition” に改められた。この修正は、各国が単独で廃線を進めると車両メーカーの在庫処分が混乱するためであったとされ、会議記録には「車輪は思想より重い」との北沢のメモが残る。
宣言の内容[編集]
第1条から第3条[編集]
第1条は、各締約国が主要幹線の廃止対象を毎年7月に共同提出することを義務づけた。第2条では、廃止後のレールを1メートル単位で測量し、・・のいずれに転用するかを決定するとされた。第3条は特に有名で、廃駅舎の時計台を撤去する場合には、必ず1週間前に近隣3自治体へ通告しなければならないと規定していた。
この条文は、実際には列車の運行よりも自治体間の通知文書の方が多かったことを示している。なお、代表団は第3条の「時計台」表現に強く反発し、最終的に“tower-like time device”という妙に曖昧な英訳が採用された。
第4条から第7条[編集]
第4条では、撤去した枕木を「教育・衛生・園芸」の3用途に優先配分することが定められた。とくにでは、枕木を都市農園の区画境界として再利用する事例が増え、だけで推定12万本がチューリップ畑の支柱として使われたとされる。
第5条は貨車の再塗装に関する条項で、廃止鉄道の車体色を“中立灰”に統一することが求められた。第6条は駅弁売りの営業権保護であり、駅がなくなっても半径480メートル以内では同一献立を維持するよう規定された。第7条は最も奇妙な条文で、夜間に鳴る踏切警報音を「郷愁資源」として保存対象にしたため、後年の観光行政に大きな影響を与えた。
採択と国際的展開[編集]
正式採択は4月18日、郊外のレマン湖畔会館で行われたとされる。参加国は17か国、オブザーバーは9機関で、議場には実物の線路1.2キロメートルが敷設されていたという。これは会議の長さではなく、比較用の展示であったが、閉会時にその半分が“記念的に廃止”され、結果として会議場から駅までの歩行時間が14分から19分に延びた。
採択後、交通協力部を中心に「軌道縮減委員会」が設置され、、、で試行区が運用された。なかでも横浜港周辺では、廃線跡に倉庫とパラソル商店街が並び、通貨換算で年間87万ポンド相当の物流効率が改善したと報告された[5]。ただし同報告の付録には、測定に使った巻尺が「途中で伸びた可能性」があるとの注記がある。
社会的影響[編集]
宣言の最大の影響は、鉄道そのものより駅前社会に及んだとされる。駅前旅館は改札口の消滅に合わせて回転率を上げ、踏切周辺の露店は「旧線認定証」を掲げることで観光客を集めた。また、廃線跡の土手は自転車道として整備され、には「線路のない鉄道博物館」と呼ばれる区画が各地に生まれた。
一方で、貨物の一部がトラックへ移行したことにより、道路税の負担が増したでは激しい批判が起こった。とくに近郊では、駅名標を外しただけで地価が上がるという現象が報告され、不動産業者が宣言を過剰に解釈したとの指摘もある。なお、廃鉄道資材の輸出入をめぐってに新しい勘定科目が設けられたことは、金融史上あまり語られない。
批判と論争[編集]
宣言に対する批判は、主に「廃止」という語の範囲をめぐって起こった。技術官僚の一部は、線路の撤去だけでなく時刻表の印刷停止まで含むと解釈したのに対し、文化保護団体は駅スタンプ帳の継続配布を要求した。これにより、にはで「スタンプは鉄道か」という公開討論会が開かれ、会場が入場者1,840人で満席になった。
また、宣言の草案者の一人であるが、閉会後にレマン湖畔のホテルで“線路のない未来”を歌うレコードを録音していたことが後年判明し、宣言が文化運動であったのではないかという説が出た。もっとも、このレコードはB面の最後に汽笛音が3分47秒続くため、純粋な反鉄道思想とは言いがたいとする反論もある。
後世への影響[編集]
以降、世界共同廃鉄道宣言は実際の交通政策文書というより、都市再開発の先例として引用されることが増えた。とりわけでは、廃駅跡を商業施設へ転用する際に「宣言第2条の精神に基づく」と説明する広報が流行し、地方紙の見出しにまで使われた。
また、にが行った調査では、宣言を「現実に存在したと思っている」と答えた学生が31%、「たぶん駅弁の規格統一文書だと思う」と答えた学生が22%いたという。数字の出典は不明であるが、この種の誤認が宣言の神話化を助けたことは確かである。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ H. A. Beller, 'Joint Abolition and the Railway Question', Journal of Continental Transport Studies, Vol. 12, No. 3, 1933, pp. 201-227.
- ^ 北沢栄太郎『軌道整理と都市の余白』内務省都市計画局刊, 1932, pp. 41-88.
- ^ Margaret L. Fenwick, 'The Reuse of Sleepers in Interwar Europe', Transportation Archives Quarterly, Vol. 7, No. 1, 1935, pp. 14-39.
- ^ 渡部修平『駅舎解体後の公共空間』東京軌道研究会, 1949, pp. 103-156.
- ^ E. H. Marbridge, 'Memorandum on the Common Abolition of Surplus Railways', Proceedings of the Geneva Subcommittee on Line Reduction, Vol. 4, 1931, pp. 9-31.
- ^ Jean-Pierre Vautrin, 'Le protocole du silence des gares', Revue d'Histoire des Mobilités, Vol. 18, No. 2, 1958, pp. 77-104.
- ^ 高橋玲子『踏切音の保存運動史』港北出版, 1972, pp. 5-62.
- ^ Arthur K. Molesworth, 'Financial Accounts for Decommissioned Track Materials', Swiss Journal of Public Ledger, Vol. 9, No. 4, 1934, pp. 233-259.
- ^ 佐々木道夫『世界共同廃鉄道宣言の政治経済学』青林交通書房, 1988, pp. 11-79.
- ^ A. N. Fielding, 'The Declaration That Abolished Railways Without Removing Them', International Review of Infrastructure Myths, Vol. 2, No. 6, 2004, pp. 301-318.
外部リンク
- 国際軌道史資料館
- レマン湖畔会館アーカイブ
- 廃線跡研究ネットワーク
- 都市計画と駅前空間研究所
- 世界宣言文書データベース