中央大学ハイキング部
| 正式名称 | 中央大学ハイキング部 |
|---|---|
| 略称 | 中大ハイキング部、CHK |
| 設立 | 1949年9月(部史上の公認年) |
| 創設者 | 渡辺精一郎、加納澄子ほか |
| 本部 | 東京都八王子市・多摩キャンパス付近 |
| 活動分野 | ハイキング、地形観察、弁当学、道迷い対策 |
| 機関誌 | 『踏査通信』 |
| 標語 | 一歩に地図、二歩に哲学 |
| 公式色 | 松葉色 |
中央大学ハイキング部(ちゅうおうだいがくハイキングぶ、英: Chuo University Hiking Club)は、のにおいて、学内外の山岳・丘陵・都市縦走を研究し、実地検証するために設けられた学生団体である。とくに「登山ではなく歩行で世界を再編集する」思想で知られている[1]。
概要[編集]
中央大学ハイキング部は、の学生文化を代表する課外活動団体の一つである。表向きは周辺のやを歩く親睦団体であるが、内部では「脚力による法学訓練」を掲げ、歩行速度・休憩間隔・水分摂取量を法文の条文化になぞらえて記録する独自の文化がある。
同部は一般にの公認とされるが、部員の間ではそれ以前の末期に「坂を見たら議論が始まる学生集団」として原型が成立していたと語られている。なお、30年代にはから「行列の進行が妙に整然としている」との照会が入ったとする逸話が残る[2]。
歴史[編集]
草創期[編集]
草創期は頃、の下宿に集っていた法学部生らが、試験勉強の息抜きとしてからへ至る坂道を「一里塚」と呼んで歩いたことに始まるとされる。当時の中心人物はで、彼は歩行の拍子を取るために六法全書の頁数を口ずさんだため、周囲から「条文で丘を登る男」と呼ばれた。
には沿いの踏査で、弁当の竹の皮包みに方位磁石を縫い込んだ「携行式方向確認弁当」が考案された。これは実用性よりも「食べ終わるまでに迷うな」という教育的意図が強かったとされる。
公認と拡大[編集]
、学内のサークル再編成に伴い、同部は正式な公認団体となった。設立承認書の写しには「山岳愛好の名を借りた長距離散策の研究」と記されていたとされ、当時の学務課では若干の困惑があったという。
には方面の定期行事が始まり、の混雑を避けるため、部員がに集合してから徒歩で入山する方式が採用された。この「早朝先行主義」は後に他大学の部員にも模倣され、学園祭前の徹夜より健康的だとして半ば流行した。
一方での夏合宿では、側の林道で引率者が行程表を読み違え、予定より11.8km長いルートを踏破する事態が起きた。このときの記録係が「これは敗北ではなく、地形の方が改訂されたのである」と書き残し、以後の部史では名文として引用されている。
機関誌と思想[編集]
同部の機関誌『』は、単なる報告誌ではなく、歩行中に思いついた命題を脚注つきで保存するための媒体として機能した。特に以降は、道中で見つけた自販機の配置を「都市計画の端緒」として考察する欄が人気を集めた。
また、ごろに提唱された「三歩一休・五歩で討論・七歩で和解」の原則は、部員間の衝突を低減しただけでなく、他サークルの会議進行にも影響を与えたとされる[3]。ただし、この原則は実際にはの売店で売られていた団子の本数に合わせて作られた、という説もあり真偽は定かでない。
活動内容[編集]
活動の中心は、周辺の丘陵から、さらに年1回の特別行事としてやまで足を延ばす長距離歩行である。各行事には「累積標高差」だけでなく「昼食後の気力残量」が記録され、これは部内で独自の単位「ペダンティア」として扱われてきた。
新入部員には、最初の一か月で以上の舗装路を3回歩く「舗装耐性試験」が課される。これを通過しないと山に入れないわけではないが、先輩から地図を読ませてもらえない。なお、地図班の伝統として、の地形図に鉛筆で「おにぎり」や「風の強いベンチ」などの注記を加える習慣があり、後年の部員がそれをほぼ宗教的に継承した。
社会的には、部員の卒業後に、、へ進む者が多く、彼らが会議の開始前に必ず窓の外を見てから着席する癖を持つことから「中大ハイカー式確認行動」が一部で知られている。これが職場の事故率低下に寄与したという調査もあるが、出典は部誌の座談会だけである。
主な行事[編集]
春季・新歓縦走[編集]
春季には付近からへ抜ける新歓縦走が行われる。途中で新人が「部歌」を覚えきれないと、先輩が地名の代わりに昆虫名を唱えるため、初参加者はだいたい途中で笑って疲れる。
夏合宿[編集]
夏合宿は、かつて方面で行われたが、現在は気象条件の安定を理由に周辺とが中心となっている。1980年代には、雨天時の代替プログラムとして「バス停からバス停へ歩く会」が実施され、最長で待ち続けた記録が残る。
秋の踏査祭[編集]
秋の踏査祭では、部員が一年間で見つけた「最も座り心地の悪いベンチ」を競う。審査基準には木材の硬さだけでなく、背後にある景観の説得力が含まれるため、側の公園が毎年上位を占める。
部内文化[編集]
中央大学ハイキング部の特徴は、歩くことそのものよりも「歩いた結果、何を記録するか」にある。部員は自らを「踏査者」と呼び、休憩所の自販機補充時刻をほぼ全員が暗記しているほか、道中で見た雲の形を「判例」として保存する。
部室には、年代別の靴底断面標本、折りたたみ椅子の修理台帳、そしてに購入されたまま使い続けられている赤い雨具が保管されている。雨具は通称「法服」と呼ばれ、着用すると議論が長引くという。これは心理的効果にすぎないが、歴代部員は真顔で信じている。
また、部歌の最後の一節には「坂は敵ではなく、訓練である」とあるが、作詞者が本当にそう書いたのかは不明である。部内ではこの一節を唱える際、全員が一瞬だけ無言で足元を見つめる慣例がある。
社会的影響[編集]
同部は大学内にとどまらず、周辺地域の案内板整備にも間接的に影響したとされる。とくに内の遊歩道では、部員が毎年提案する「分岐点にベンチを置くべきである」という要望が反映され、結果として高齢者に優しい休憩網が形成されたという評価がある。
さらに、後半からはOB・OGが企業研修において「迷ったら戻るより、まず一度立ち止まる」という行動原理を持ち込み、危機管理教育の簡略版として採用する例が出た。これにより、同部は「地図を読む部」から「会議を止める部」へと拡張したと評されることもある。
なお、の入試広報において「歩ける者は学べる」というキャッチコピーが一時期使われたとする証言があるが、大学側は否定している。
批判と論争[編集]
批判としては、活動が過度に細分化されており、ハイキング部でありながら「靴紐の結び方講座」「昼食時の風向き会議」「雨天の沈黙訓練」まである点がしばしば挙げられる。また、一部のOBは「歩く量に比して笑いが多すぎる」と述べ、学問的厳密さを欠くと指摘した。
一方で、1998年の新歓では、部員が内の公園で方角を競っていたところ、近隣住民から「行進なのか散歩なのか判然としない」と通報された事件があり、これが学内外で小さな論争となった。結局、警備担当者は「両方である」と説明し、事態は収束した。
また、活動記録にしばしば現れる「見晴らしのよい無名坂」や「地図にない休憩所」は、後年の編集で誇張された可能性があるとされる。ただし、部員はこの指摘に対し「地図の方が追いついていない」と反論している。
脚注[編集]
[1] 『踏査通信』創刊号による。 [2] 中央大学学生課旧記録箱「団体照会・昭和31年度」より。 [3] 佐伯一郎「歩行倫理と会議体の変遷」『多摩人文学研究』第12巻第3号, pp. 44-58.
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『歩行と法文のあいだ』中央踏査出版, 1958年.
- ^ 加納澄子「多摩丘陵における学生歩行文化の形成」『日本学生史学会紀要』第14巻第2号, pp. 77-93, 1971年.
- ^ 佐伯一郎『歩行倫理と会議体の変遷』多摩人文学研究所, 1984年.
- ^ Margaret A. Thornton, “Pedestrian Semantics in Postwar Campus Clubs,” Journal of Urban Field Studies, Vol. 8, No. 1, pp. 15-39, 1992.
- ^ 高橋隆史「ハイキング部における弁当配置と方向認識」『野外教育学報』第21巻第4号, pp. 101-118, 2003年.
- ^ John P. Ellery, The Map of Slightly Wrong Hills, Greenway Press, 2006.
- ^ 中央大学大学史編纂室『部活動公認一覧とその周縁』中央大学出版部, 2011年.
- ^ 清水真奈美「新歓縦走に見る共同体形成の儀礼」『比較大学文化』第9巻第1号, pp. 5-26, 2015年.
- ^ 田所健二『雨具と合意形成』多摩文庫, 2019年.
- ^ 川端悠介「高尾駅周辺における休憩所密度の変遷」『地域踏査研究』第6巻第2号, pp. 33-49, 2022年.
外部リンク
- 中央大学踏査文化アーカイブ
- 踏査通信デジタル庫
- 多摩丘陵歩行史研究会
- 学生部活地形図資料室
- 八王子歩行文化フォーラム