乍 狐途
| 正式名称 | 乍狐途 |
|---|---|
| 別名 | 狐折り、さこ道、乍式通過法 |
| 成立 | 頃 |
| 主な地域 | 北部、南魚沼周辺、北信地方 |
| 主な担い手 | 旅宿組合、峠守、紙札師 |
| 関連信仰 | 、山の神、道祖神 |
| 儀礼物 | 三角紙、白糸、薄塩、木札 |
| 衰退 | 以降 |
| 再評価 | 以降の民俗学調査 |
乍狐途(さこず)は、の近代初期に成立したとされる、折り紙状の地図と狐信仰を組み合わせたである。特にの峠道で用いられ、旅人が「狐の許可」を得るために紙片を折りながら進む習俗として知られている[1]。
概要[編集]
乍狐途は、峠越えの際に旅人が特定の折り紙を携行し、一定の地点で紙を折り直しながら通過することで、土地の霊的な「目通り」を回避するとされた通行儀礼である。名称の「乍」は古い往来札に由来し、「狐途」は狐の領域を通る道を意味すると説明されることが多い。
この習俗は、初期の道路改修で山道が半ば官道化された時期に、と村落の境界管理が複雑化したことから広まったとされる。また、の道路記録との縁起が奇妙に一致していることから、後年になって学術的な関心を集めた[2]。
起源[編集]
峠札の変形説[編集]
有力とされるのは、に利根郡の峠宿で配られていた「峠札」が、印刷所の版ズレによって「乍」の字形を含む独特の札に変化し、それが儀礼化したという説である。札を受け取った旅人が、道中で三度折ると狐の化身が道を譲ると信じられていた。
この折り方には地方差があり、では右上から左下へ、の一部では逆向きに折るとされた。なお、紙の折り目数を誤ると「一晩だけ迂回させられる」と語られ、実際に宿場で半日ほど道に迷った例が数件記録されている[3]。
紙札師・西沢定六の介入[編集]
頃、紙札を専門に作る西沢定六という人物がで現れ、狐の目を模した墨点を付した「乍狐途札」を量産したとされる。彼は元々の出であったが、帳面の端紙を使って始めた商売が当たり、最盛期には月に1,200枚を出荷したという。
西沢はとの折衝に長け、峠の入口に木箱を置いて「一人一枚、二人で一組」とした料金体系を作った。これが後の「二人通りの禁忌」と呼ばれる風習の源流になったともいわれる。
県道整備との衝突[編集]
の県道整備では、道路脇の札場が撤去されたため、乍狐途は一時的に消滅しかけた。しかし、旅館組合が「狐が退くと雨が増える」という経験則を掲げて反対し、への陳情書を提出したことで、峠の一部に限定的な札場が残された。
この時、から派遣された測量官が、実地調査のために三回連続で同じ茶屋に戻ってきたという逸話があり、以後その茶屋は「狐戻り茶屋」と呼ばれた。測量官本人は報告書で「地形の屈曲が著しい」とのみ記しているが、地元では儀礼の効果として理解された。
儀礼の方法[編集]
乍狐途の基本は、三角に折った白紙を左袖に差し、峠の手前で一度だけ息を止め、最初の曲がり角で紙を開いて半分だけ読み上げることである。読み上げる文言は地方によって異なるが、最も広く伝わるのは「通るは人、留まるは影」である。
儀礼は程度で終わる簡便なものから、宿坊で前夜から行うの厳格な様式まで幅がある。とくに「白糸結び」を省いた旅人は、翌朝に履物の片方だけが妙に乾いていたとされ、民俗学者の間では半ば定番の笑い話になっている[4]。
また、乍狐途では木札を道端に置く際、必ずを向ける必要があった。これは狐が朝日を嫌うからと説明されたが、実際には村役人が方位を確認しやすくするための実務的措置だったとも考えられている。
地域差[編集]
群馬型[編集]
北部の群馬型は、紙札の角をわざと一箇所だけ破り、峠の石仏に結ぶのが特徴である。旅人の多いでは、破り方の向きが四季で変わるとされ、春は左破り、冬は右破りが推奨された。これは風向きの記録と一致するため、後世の研究者は「気象メモとして優秀だった」と評している。
信州型[編集]
北信地方の信州型は、白紙ではなく薄い灰色の紙を用いる点で異なる。地元では、山霧に紙を溶け込ませることで狐の注意をそらすと説明されたが、実際は宿場で再生紙を再利用した結果である可能性が高い。
ただし、の旧家に伝わる帳面には「灰紙を用いると三日間は道を誤らぬ」とあり、これを裏付けるようにの旅日記でも、灰紙を持った商人が宿泊先を一度で見つけた記録が残る。
越後型[編集]
の越後型では、紙札に薄塩を振る「塩めし儀」が付随した。これは海から遠い山間部で塩が貴重だったため、儀礼に少量だけ組み込まれたとされる。ある講の記録では、年にの通行で使用した塩の総量がに達し、村の塩倉を半月で空にしたと記録されている[5]。
社会的影響[編集]
乍狐途は単なる迷信にとどまらず、峠宿の料金体系や荷運びの順番を決める半ば行政的な役割を担った。とりわけ後期の山間部では、通行札の有無が宿泊の優先順位に直結し、紙一枚で二時間の待機時間が短縮されたという。
また、紙札の配布を担った女性たち、いわゆる「札回し」は、旅人の名簿管理を行う実務者でもあった。彼女らはよりも細かい「峠別往来簿」を作成し、月末にへ提出したとされるが、この帳簿の多くは大正期の火災で失われた。
一方で、乍狐途の実践者が増えるにつれ、狐を祀る社の周囲に茶屋、藁細工店、草鞋屋が集まり、結果として局地的な経済圏が形成された。統計上、時点で関連収入は年約とされ、同じ地域の味噌売上をわずかに上回っていたとする調査もある[6]。
衰退と再評価[編集]
になると舗装道路の普及とバス路線の整備により、乍狐途は急速に衰退した。とくにの冬、定期便の運転手が「紙を折るよりチェーンを巻く方が早い」と発言したことが、若年層の離反を決定づけたとされる。
しかし以降、と観光振興が結びつく中で、乍狐途は「失われた山のUI」として再評価された。の一部自治体では、観光客向けに再現プログラムが作られ、年間参加者は前後で推移している。ただし、実際の峠で行うと「紙が風で先に狐になる」と苦情が出たため、現在は主に室内体験に限られている。
批判と論争[編集]
乍狐途をめぐっては、そもそも単一の伝統が存在したのか、それとも複数の峠札文化を後世に編集したものかという論争がある。の一部は、の収集家が話を盛りすぎたと指摘している。
また、文書に見える「狐途」という語が、実は通行税の略記だったのではないかという説もある。これに対し保存団体は、税務記録には紙折りの手順説明が含まれていることを挙げて反論しているが、決定打はない。
なお、に行われた展示会で、復元用の紙札が実際の狐穴に投入され、数日後にぬれたまま戻ってきたという事件があった。これを「文化財の自己帰還」と評価する声もあったが、博物館側は「単に雨水で流れた可能性がある」としている[7]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 西沢千代子『峠札と乍狐途の成立』信州民俗研究所, 1998年.
- ^ H. Thornton, "Fox-pass Rituals in Central Japan", Journal of Border Folklore, Vol. 12, No. 3, 2004, pp. 145-173.
- ^ 渡辺精一郎『山道通過儀礼の近代化』東北文化出版社, 1987年.
- ^ 三浦佳代『札回しの実務史』群馬民俗史料叢書, 第4巻第2号, 2001年, pp. 21-49.
- ^ M. A. Sutherland, "Paper, Salt, and the Ethics of Passing", Transactions of the Alpine Anthropology Society, Vol. 8, 1996, pp. 9-38.
- ^ 小林秀雄『狐戻り茶屋の経済圏』長野県地域資料刊行会, 2011年.
- ^ 佐伯みどり『乍狐途再考—灰紙の地域差とその誤読』北信民俗通信, 第17号, 2009年, pp. 2-15.
- ^ Eleanor K. Finch, "The Semi-Administrative Uses of Rural Charms", Cambridge Folklore Review, Vol. 21, No. 1, 2015, pp. 77-101.
- ^ 高橋信也『紙が狐になる日』山間交通史研究, 2020年.
- ^ J. R. Holloway, "An Inventory of Misread Mountain Ledgers", The Archivist's Quarterly, Vol. 5, No. 4, 1972, pp. 201-219.
外部リンク
- 日本峠通過儀礼学会
- 山間紙札アーカイブ
- 狐途資料デジタル博物館
- 信州民俗再現プロジェクト
- 高崎地方史研究室