二十・二十一事件
| 発生時期 | 1928年9月 - 1931年3月 |
|---|---|
| 発生地 | 東京府、神奈川県、静岡県ほか |
| 原因 | 二十時・二十一時の放送時刻誤記と配電盤の同期不良 |
| 被害 | 観測記録の欠落312件、誤報43件 |
| 関係機関 | 内務省時刻監理局、帝都放送協会、東亜気象研究所 |
| 通称 | 20-21騒動 |
| 影響 | 全国時報制度、二重時刻票、夜間注意報の整備 |
二十・二十一事件(にじゅう・にじゅういちじけん)は、後半にの民間気象観測網を中心として発生した、時刻表記の連続誤差をめぐる一連の混乱である。二十時と二十一時のあいだに生じる「社会的空白」を可視化した事例として知られている[1]。
概要[編集]
二十・二十一事件は、からへの移行区間で生じる放送・記録・配電の不整合が、複数の官民機関を巻き込む社会問題に発展した出来事である。のちにによって「時刻境界事故」と分類され、鉄道・放送・学校の三系統にまたがる初の共同調査が行われたとされる[2]。
事件の中心にあったのは、が試験導入した二段階時報である。これは毎時二十分に予告音、二十一時に本時報を流す仕組みであったが、当時の家庭用受信機の約18%が予告音を本時報と誤認し、夕食後の家計簿、終電判断、工場の夜勤開始に連鎖的な混乱を生じさせたとされている。なお、一部の研究者は、この混乱がのちのの原型になったと指摘している[3]。
背景[編集]
事件の背景には、末期から初期にかけて普及した「分単位生活」の浸透がある。都市部ではとを結ぶ通勤圏が拡大し、朝夕の活動だけでなく、二十時台の家事・学習・娯楽を一斉に管理する必要が生じていた。
また、当時の気象通報は二十時を境に報告書式が変わることが多く、観測員のあいだでは「二十・二十一の壁」と呼ばれていた。これをさらに複雑にしたのが、が導入した新型卓上クロノメーターであり、同機は二十一時ちょうどに針が0.7度だけ自動補正されるため、机上では正しいのに壁掛け時計では遅れて見えるという現象を引き起こした[4]。
経緯[編集]
第一次混乱[編集]
最初の混乱は9月17日、藤沢町の漁業無線局で発生した。二十時四十分の送信記録が、受信簿では二十一時四十分として転記され、翌朝の潮位表が一時間ずれたのである。これにより出漁を見合わせた舟が14隻、逆に早出した舟が9隻確認され、港務局は「時刻の反乱」と記したメモを残した[5]。
この記録はのちにが大きく報じたが、見出しに「二十と二十一を取り違う」とだけ書かれたため、読者の多くは単なる校正ミスと受け取ったとされる。ところが、同様の誤記が、でも相次ぎ、事件は一地方の珍事から広域行政問題へと拡大した。
帝都放送協会の介入[編集]
1月、は対策として「二十・二十一連絡放送」を開始した。これは二十分に短報、二十一時に詳細報を流す制度であったが、短報の最後に流れる鐘音が妙に荘重であったため、聴取者の7割がむしろ本放送を待たずに就寝したという。
当時の技師であったは、後年の回想録で「二十時の声はまだ働く声、二十一時の声は家に帰る声である」と述べている。しかしこの言葉が独り歩きし、各地の学校で二十一時前に宿題提出を締め切る慣行が生まれた。もっとも、この慣行は教育効果よりも提出物紛失の増加を招いたとされる。
収束と制度化[編集]
3月、は「二十・二十一時刻境界処理要綱」を公布し、二十時55分から二十一時05分までを「緩衝時帯」と定義した。これにより、鉄道駅では二つの時計を並置し、片方を「社会時計」、もう片方を「運行時計」として区別する運用が始まった。
この制度は一見合理的であったが、駅員が日によってどちらの時計を拭くかを忘れるため、利用者からは「埃の多い方が社会時計である」と半ば諦められた。なお、とされるが、緩衝時帯の導入後にで「二十一時台の乗り遅れ」が18%減少したという内部報告がある。
社会的影響[編集]
事件の最大の影響は、二十時台と二十一時台が単なる連続する数字ではなく、生活リズムの境界として意識されるようになった点にある。家庭では二十時に夕食を終え、二十一時には書類を閉じるという「二時限生活」が流行し、百貨店では二十一時閉店を謳う広告が急増した。
また、は夜間巡回の報告様式を改訂し、犯人の目撃時刻を「二十台」「二十一台」のように幅で記すことを推奨した。これにより調書が簡潔になった一方、容疑者が「二十台の男」とだけ書かれる事件が増え、法廷での混乱を招いたとされる。
批判と論争[編集]
事件をめぐっては、当初から「そもそも二十時と二十一時を分ける必要があったのか」という批判があった。とくにの時間社会学者は、二十・二十一事件を「機械が生活を指導し始めた最初の例」と評し、時報の過剰細分化が家庭内の権威争いを助長したと論じた[6]。
一方で、側は、事件がなければ後の標準化技術は三年遅れたはずだと反論した。この論争は現在でも続いており、地方紙の投書欄では「二十時派」と「二十一時派」の小競り合いがたびたび再燃している。なお、二十一時を「一日の終わり」とみなすか「夜の始まり」とみなすかについては、今なお決着がついていない。
研究[編集]
戦後になると、二十・二十一事件はとの両面から研究されるようになった。にはが『二十時問題資料集成』を刊行し、各地の受信メモ、配電日誌、夕食献立表まで収録したことで知られる。
近年では、にのが、家庭内の時計台数と事件記憶の関係を調べた論文を発表している。それによれば、居間に時計が三つ以上ある家庭ほど事件の被害申告率が高く、特に柱時計と腕時計の時差が3分以上ある場合、二十一時前後の意思決定に有意な遅れが出るという。もっとも、統計の一部には調査員が自宅の時計で記入した可能性がある。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯達三『二十・二十一時報の実務』帝都放送協会出版部, 1932年.
- ^ 山根恒次「時刻の境界と家庭秩序」『東京帝国大学社会学紀要』Vol. 14, No. 2, 1934, pp. 41-68.
- ^ 内務省時刻監理局編『二十・二十一事件調査報告書』官報局, 1931年.
- ^ Makino, Riko. "Household Clocks and Decision Delay in the Twenty-Twenty-One Incident" Journal of Temporal Studies Vol. 22, No. 4, 2014, pp. 201-229.
- ^ 東亜気象研究所『夜間観測と時報補正装置の研究』研究報告第7号, 1930年.
- ^ 日本時刻史学会編『二十時問題資料集成』時の森書房, 1958年.
- ^ 田所英一『緩衝時帯の行政史』中央時報社, 1966年.
- ^ Harper, William J. "Synchrony Errors in Urban Radio Systems" The Pacific Chronicle of Technology Vol. 3, No. 1, 1933, pp. 9-27.
- ^ 牧野莉子『居間の時計はなぜ三つあるのか』神戸学院大学出版会, 2015年.
- ^ 帝都放送協会編『二十時台聴取行動の実態』放送資料叢書第12巻, 1931年.
外部リンク
- 時刻史アーカイブ
- 帝都放送協会資料室
- 二十時台研究フォーラム
- 日本緩衝時帯協議会
- 夜間社会研究センター