五十嵐龍之介
| 生年月日 | 1897年11月3日 |
|---|---|
| 没年月日 | 1974年6月18日 |
| 出身地 | 東京府本郷区 |
| 職業 | 都市地形学者、測量技師、随筆家 |
| 所属 | 帝都地形研究所、内務省都市調査室 |
| 研究分野 | 都市音響測量、路地記憶学、壁面残響分類 |
| 代表的な提唱 | 三拍遅延法、瓦葺き反響仮説 |
| 活動期間 | 1921年 - 1968年 |
五十嵐 龍之介(いがらし りゅうのすけ、 - )は、の者、ならびにの草分けとして知られる人物である。とくに末期から初期にかけて、の路地における反響特性を「歩行者の記憶補正」に利用した研究で知られる[1]。
概要[編集]
五十嵐は、都市の路地や高架下に生じる微細な反響を定量化し、地図上に「音の陰影」として記録する手法を確立したとされる人物である。彼の研究は、の地理学講座で冷遇された一方、の都市改造計画に密かに採用され、戦前のにおける道路拡幅や市場移転の判断材料になったといわれる[2]。
もっとも、五十嵐の名が広く知られたのは学術的功績よりも、彼がからにかけて行った「路地の音色調査」である。これは、午前9時・正午・午後3時の3回、同一の靴音を鳴らして残響差を比較するという方法で、被験者の半数以上が「道に迷わなくなる」と回答したため、当時の新聞では半ば奇術として報じられた[3]。
生涯[編集]
幼少期と修業[編集]
五十嵐はの紙問屋の家に生まれ、幼少期から裏庭の石蔵で反響を聞き分ける癖があったという。13歳のとき、の終点で転がる空缶の音が「坂の向きで二度だけ変わる」と記しており、これが後年の研究の出発点になったとされる。
、に入学し、当初は建築を専攻したが、卒業制作として提出した「木造長屋の集音断面図」が指導教員の理解を超えたため、便宜的に測量科へ回されたと伝えられる。なお、この時期に同級生のと共に、浅草寺裏の路地で「三拍遅延法」の原型を試みたという記録が残る[4]。
帝都地形研究所時代[編集]
、五十嵐はの設立メンバーとなり、主に道路の勾配ではなく「音の流速」を測る部署を担当した。研究所では、彼が設計した「鳩時計式音圧箱」により、周辺の商店街が午前中だけ妙に静かであることが可視化されたとされる。
この成果はの『都市構造と反響係数』にまとめられたが、掲載された図版のうち4枚は、後年の調査で実は別冊の料理帳から流用されていたことが判明している。ただし当時の編集部は、図の正確さよりも「街路の韻律」が美しいとして黙認したという[5]。
内務省との関係[編集]
以降、五十嵐は都市調査室の嘱託となり、震災復興区画の「風鳴り指数」を算定した。これは、建物の高さと瓦の重さ、さらに路面電車の軋みを合算して、区域ごとの安心感を数値化するもので、当時の役所文書には「住民の落ち着きが0.8単位上昇」と記されている[6]。
一方で、彼の提案した「曲がり角の過剰整流」は、子どもの通学路を著しく直線化するため、教育現場から反発も受けた。五十嵐はこれに対し、「迷う権利の保存もまた都市計画である」と応じたとされ、後年の都市文化論に影響を与えた。
研究[編集]
都市音響測量[編集]
五十嵐の最も有名な業績は、都市音響測量の体系化である。彼は後半から、路面の材質、店先の幟、雨樋の長さによって反響が異なることを突き止め、これをA級からF級までの6段階で分類した。とくにB級路地は「会話が二度続けて聞こえるが、嘘は三度目にしか通らない」と説明され、商店主の間で妙に人気を集めた。
五十嵐式測定では、測量員が長さ23cmの真鍮製拍子木を用いて角に立ち、一定間隔で3回打音する。返ってくる音の遅れが17分の1秒を超えると「記憶保持路」と判定され、地図の注記に赤字で記録された。こうした資料はの東京市道路課会議で参照されたが、実務家の多くは「現場で持ち運ぶには地図がうるさすぎる」と評したという[7]。
路地記憶学[編集]
路地記憶学は、五十嵐が晩年に提唱した、都市空間が人間の記憶形成に与える影響を扱う独自の学説である。彼によれば、行き止まりの多い町ほど住民の回想が具体化し、直線道路が多い町ほど出来事の順序が曖昧になるという。
この仮説を検証するため、にで行われた追跡調査では、同じ商店街を歩いた57人のうち41人が「同じ場所で別の昭和を見た」と回答した。報告書は学会で半ば好奇心、半ば不信の対象となったが、五十嵐は「都市は建築物ではなく、思い出の配列である」と述べ、以後の都市文化研究に奇妙な影響を残した[8]。
人物像[編集]
五十嵐は寡黙な技術者として知られたが、私生活では極端に甘いものを好み、の喫茶店で必ず3切れのバターケーキを注文したという。店主の証言では、彼はケーキを食べる前に皿を数センチずつ回転させ、「反響の向きが変わる」と言っていた[9]。
また、彼は服装に強いこだわりを持ち、冬でも襟の高い背広の内側に小型の測音管を縫い込ませていたとされる。これが原因で、の講演会ではスピーチ中に胸元から微かな笛音が漏れ、聴衆が「新しい楽器か」と誤解した逸話が残る。
社会的影響[編集]
五十嵐の理論は、直接には広く普及しなかったものの、戦後の区画整理や商店街振興において、街路の「通りやすさ」だけでなく「覚えやすさ」を考慮する発想を生んだと評価されている。とりわけ後半のやでは、看板の配置を変える際に五十嵐の残響地図が参照されたという。
なお、に刊行された『路地の声、壁の記憶』は一般読者向けの随筆としてベストセラーになり、都市を歩くことを趣味化する一因となった。ただし、同書の第8章にある「自転車は都市の余白を鳴らす」という一節だけは、後年まで引用される一方で、意味が最後までよく分からなかったとされる。
批判と論争[編集]
五十嵐の研究は、当初から再現性の低さを指摘されていた。とくにのでは、同一地点で測定しても結果が7種類に分かれることから、「科学というより気分の記録ではないか」と批判された。
また、彼が前後にまとめたとされる『東京東部反響分布図』は、地図上の川や橋の位置関係に不自然な誤差があり、一部の研究者は「現地調査ではなく、路面電車の車内で描かれた可能性がある」と疑っている。これに対する五十嵐本人の反論は残されていないが、日記には「測れぬものほど都市には必要である」とのみ記されていた[10]。
晩年[編集]
に入ると、五十嵐は研究の第一線を退き、の貸家で私設の資料室を運営した。そこには、反響計、古い路地写真、鳩の足環、そして各地の商店街から送られた「音のする石」が棚いっぱいに並べられていたという。
に死去。遺品整理の際、机の引き出しから未完の原稿『大東京残響年表』が見つかり、その末尾に「終わりではなく、角の向こうである」と書かれていたことから、弟子たちの間で小さな伝説となった。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 五十嵐龍之介『都市構造と反響係数』帝都地形研究所出版部, 1927年.
- ^ 長谷川恒夫『路地の音響と記憶』東亜測量学会誌 Vol.12, No.3, pp. 44-61, 1932.
- ^ Margaret L. Thornton, "Acoustic Cartography in Prewar Tokyo", Journal of Urban Morphology Vol.8, No.2, pp. 101-129, 1954.
- ^ 渡辺精一郎『東京東部反響分布図考』内務省都市調査室資料第14号, 1941年.
- ^ 佐伯澄子『残響地図の成立』日本都市史研究 第9巻第1号, pp. 5-28, 1966年.
- ^ Ryunosuke Igarashi, "The Three-Beat Delay Method", Proceedings of the Imperial Institute of Geography Vol.4, No.1, pp. 7-19, 1930.
- ^ 小田切勇『路地はなぜ覚えられるか』青霧書房, 1962年.
- ^ 中村一雄『都市の風鳴り指数と住民心理』建築と測量 第18巻第4号, pp. 88-97, 1958年.
- ^ 藤堂美智子『音のする石——五十嵐資料室調査録』港文社, 1976年.
- ^ Arthur P. Bell, "On the Acoustic Bias of Alleyways", Transactions of the East Asian Survey Society Vol.6, No.4, pp. 233-240, 1939.
- ^ 帝都地形研究所 編『大東京残響年表』未公刊草稿集, 1975年.
外部リンク
- 帝都地形研究所デジタルアーカイブ
- 東京路地音響史研究会
- 日本都市記憶学協会
- 内務省資料閲覧室(仮設)
- 大東京残響年表索引サイト