享保の天変
| 名称 | 享保の天変 |
|---|---|
| 発生時期 | 享保7年 - 享保10年(1722年 - 1725年) |
| 発生地域 | 江戸、京都、大坂、駿河湾沿岸ほか |
| 原因 | 黒潮上空の偏流と月齢誤差の連鎖とされた |
| 関係機関 | 幕府天文方、寺社奉行、御用絵師、各地の本草家 |
| 影響 | 改暦議論、避雷針的竹柱の普及、観天番付の流行 |
| 記録資料 | 『天変見聞録』、『享保異象控』ほか |
| 特徴 | 天候・星位・鳴動が同時多発したと伝えられる |
享保の天変(きょうほうのてんぺん)は、中期の年間に、との共同観測によって記録されたとされる一連の気象・天象異変である。のちに、、およびを結びつけた制度改革の起点になったとされる[1]。
概要[編集]
享保の天変は、期の前半に断続的に発生したとされる異常な天象群であり、江戸の町人からは「空が一度、裏返った」とも形容された。具体的には、真夜中に南東の空だけが赤く染まり、翌朝にの水面から細かな灰が浮き上がったとする記録が残る[2]。
この出来事は、当初は単なるとの混同として処理されかけたが、がのに再観測を命じたことで、暦法上の異常現象として独立に扱われるようになった。なお、宗達は後年、天体ではなく「空気の縁」に問題があったと主張したが、弟子たちの間では半ば伝説化している。
のちにこの天変は、・・を巻き込んだ観天ネットワークの整備につながり、各地で気圧、風向、鳴動回数を日次で記録する慣行が生まれたとされる。もっとも、記録の多くは火事や地震の報告と混線しており、現代の研究者のあいだでも「気象災害の集合名詞ではないか」とする説が有力である[3]。
発生の経緯[編集]
享保7年、沿岸で夜毎に「海鳴り」が続き、翌日になると井戸水の味が一時的に甘くなったという。これを聞いたの名主・は、村の鰯売りが「魚が南を向いて動かない」と証言したことをもって、天変の前兆と書き留めた。
同年には城下で、午前からのあいだに薄紫の雲が十字状に裂ける現象が観測された。幕府はこれを気象ではなく「方角の乱れ」と判断し、配下の見習いが・・に臨時の観天札を掲げたとされる。札には「空、東へ寄るべし」とだけ書かれていたというが、現物は未発見である[4]。
さらにでは、の川面に星のような光点が千数百個反射し、の織屋がその夜だけ金糸の歩留まりを向上させたという奇妙な記録がある。このため、当初は災厄ではなく「織機の精度を上げる吉兆」として扱うべきだという意見もあったが、後述する雷雨と同時にの鐘が自鳴したことで、事態は一転した。
観測と記録[編集]
天文方の観測[編集]
享保8年、は江戸城西の丸に臨時の観測台を設け、と門人のが毎夜、、、、を記録した。とくに猫の反応は重要視され、中が北西を向いた晩に限って翌日強風となったとされる[5]。
宗達は観測法として、銅鏡に油を薄く塗り、そこへ空を映して「空の皺」を読む方式を採用した。彼はこれをと呼び、季節のズレを見積もるのに有効であると主張したが、同僚のからは「天体ではなく鏡が湿っているだけではないか」と批判された。
また、宗達らはからにかけての沿岸で、夜間に潮が半時ほど遅れて引く現象を確認している。これにより、天変は単一の空模様ではなく、海・風・星位が連動する広域事象であるとする理解が広まった。
町方の聞き書き[編集]
一方で、町方では科学的説明よりも噂の伝播速度の方が速かった。の米問屋では「天の袋が破れた」と言われ、では鳶が一列に並んで飛ぶのを見た者が、今年のが三度揺れると予言したという。
の紙問屋・が残した帳面には、天変の夜にの売上が通常の、反対にの売上がになったとある。これは、町人が夜通し灯明を減らしたためとされるが、同店の番頭は「空が明るいと紙が売れる」と述べたとされ、のちに商業統計の初期例として引用された[6]。
また、では客寄せの太鼓が一斉に止まり、遊女たちが空を見上げて歌を忘れたと伝えられる。これが「天変唄」として流行し、三味線譜にまで書き起こされたが、現代に残る旋律はほぼと区別がつかない。
社会的影響[編集]
享保の天変は、幕府にとっては天文行政の再編を促す契機であった。これを受けては、各村に「空の保険」とも呼ばれる臨時積立を命じ、風害が出た場合にとを支給する制度を試験的に導入した[7]。
また、寺社側では、天変の再発を防ぐためにを空に向けて貼る儀礼が考案された。もっとも、札を貼る高さが足りず、最も高いでも「空に届かない」との理由で不評であったため、翌年には長柄の竹竿を用いる方式へと改められた。これが後の「昇空札」と呼ばれる民間信仰の原型である。
さらに、天変は出版文化にも影響した。ではの題材として「天の裂け目」「光る雲」「魚を返す星」などの図柄が流行し、の版元はだけでの関連刷物を刊行したとされる。なかには、見開き一面にただ雲の灰色だけが刷られた豪奢な版本もあったという。
批判と論争[編集]
享保の天変をめぐっては、当時から異論も少なくなかった。とくにのは、これは天の異変ではなく、周辺の火山灰が上空で帯状に広がった結果にすぎないと論じた。これに対し宗達は、火山だけではとの鐘が同時に鳴る説明にならないとして反論している。
一方で、後世の研究者のなかには、天変の主要資料である『』が、実際には複数のメモを期に一冊へ綴じたもので、日付の順序が一部入れ替わっていると指摘する者もいる。したがって、享保の天変は「一連の現象」ではなく「後代の編集が生んだ連作災異」とみなす見解もある[8]。
なお、期の気象研究者は、天変に関する説明のうち最も奇妙なものとして「空に梯子がかかった」という証言を採用し、これを上昇気流の視覚化とした。しかし彼自身も、同じ資料の別ページで「梯子の段数がで固定されていた」と読めることから、結局は比喩であった可能性を認めている。
後世への継承[編集]
になると、享保の天変は災害史よりも教育史の文脈で語られるようになった。各藩のでは、天変時の風向と潮位を使った「不完全な予測」の教材が作られ、学生は「当たらぬが役には立つ」事例として学んだという。
また初期には、の周辺で、宗達式観測台を再現した木組み模型が試作され、との相関を検証する実験が行われた。結果はほぼ無相関であったが、実験に用いられた猫のうちが毎晩同じ椅子を選んだため、「統計では測れない慣性がある」として報告書の結論だけが妙に重厚になった。
現在では、、、の交差点に位置する事象として扱われることが多い。もっとも、一般にはほとんど知られておらず、の特別展で「空の怪事件」として紹介された際には、来場者の半数がの展示だと思っていたという。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 西村宗達『天変見聞録』江戸天文書林, 1731年.
- ^ 杉山庄兵衛『享保異象控』日本民俗資料刊行会, 1764年.
- ^ 田辺玄庵「享保天変における月齢誤差の再検討」『和算と暦学』第12巻第3号, pp. 41-68, 1897年.
- ^ A. Thornton, Celestial Disturbance and Administrative Reform in Early Tokugawa Japan, Vol. 8, pp. 113-149, Journal of Imperial Weather Studies, 1978.
- ^ 青木良甫『火山灰と雲裂の関係について』本草学論叢, 第4巻第1号, pp. 5-22, 1822年.
- ^ 長岡時成「梯子雲図とその観測的意義」『東京天文台紀要』第21巻第2号, pp. 201-233, 1934年.
- ^ 松浦晴嵐『江戸の空と町人経済』風俗史出版, 1991年.
- ^ K. B. Sutherland, The Night Markets of Kyoto During the Kyōhō Anomaly, Vol. 3 No. 2, pp. 77-95, East Asian Historical Review, 2006.
- ^ 土御門泰衡『暦法弁疑』陰陽寮写本, 1724年.
- ^ 井上天渓「観天札の流通と寺社行政」『宗教行政史研究』第9号, pp. 55-81, 2014年.
外部リンク
- 江戸天象研究会
- 享保異象アーカイブ
- 国際東洋気象史学会
- 東京天文史資料室
- 民間観天伝承データベース