人外魔境新通り決戦
| 時代 | 近世 |
|---|---|
| 地域 | マラッカ海峡沿岸、ならびに周辺の港市 |
| 日付 | 1694年 - 1697年 |
| 場所 | 新通り、旧灯台区、南埠頭地帯 |
| 原因 | 街路整備権、通行税、夜間灯火規則をめぐる対立 |
| 結果 | 新通り評定令の制定、街路幅の統一、人外装束の禁止 |
| 交戦勢力 | 都市同盟、測量隊、港湾組合、夜警団 |
| 指揮官 | ハンス・フリードリヒ・ファン・デル・ミール、ルカス・セラング、イブラヒム・アリス |
| 死傷者 | 戦闘死12名、熱射病による離脱47名、行方不明8名 |
人外魔境新通り決戦(じんがいまきょうしんどおりけっせん)は、末の沿岸における交易路再編をめぐり、系の測量隊との即席防衛軍との間で起きたとされる一連の対立である[1]。のちにという直線街路の敷設と、そこを巡る奇妙な儀礼戦術によって知られるようになった[2]。
概要[編集]
人外魔境新通り決戦は、単なる武力衝突ではなく、の命名権と通行順序をめぐる都市政治の破綻として位置づけられている。名称の「人外魔境」は、当時の港湾記録に見える「人外装束をまとった夜警」「魔境の如き雑踏」という比喩が後世に誇張されたものであるとされる[3]。
この事件は、から派遣された測量官たちが、幅三間半の「新通り」を通すことで荷車の流れを改善しようとしたことに端を発する。しかし、既存の路地権益を持つ香料商人、荷担ぎ人夫、寺院の灯明係がこれに反発し、結果として「通る者は誰か」「右側通行か左側通行か」をめぐる論争が、半ば儀礼化された決戦へと発展したのである。
名称の由来[編集]
「新通り」という名称は素朴であるが、実際にはの区画整理図において最終的に採択された呼称であり、それ以前は「第四測線」「塩樽通り」などの呼び名が併存していた。なお、「人外魔境」はのちに流布した戯画風の街路図に由来するとする説が有力である。
事件の性格[編集]
一般には戦闘史として扱われるが、近年の研究では、これは都市同盟が外来の測量規格を受容するか否かをめぐる制度闘争であったと評価されている。武器の使用は限定的で、代わりに旗竿、木製定規、燭台、香炉が重要な役割を果たした。
背景[編集]
後半のマラッカ海峡沿岸では、香辛料と布地の中継交易が活況を呈し、港市ごとに独自の街路規則が発達していた。とくに系の商館と系の船宿が入り混じる新市街では、夜間の通行方向を寺院ごとに定める慣習があり、これが測量官には極めて不都合であった。
に起きた「第三灯火争議」では、燭台の高さを巡って3夜にわたる押し問答が続き、最終的にの倉庫監督が「直線道路があればすべて解決する」と発言したと伝えられる。この一言が、新通り建設の名目となったが、現地では直線は霊的均衡を壊すとして忌避され、反対派が急速に組織化した。
また、は通行税の再配分を恐れ、街路整備に消極的であった。さらにの夜警団は、通りが直線化されると見張りの死角が減ることを理由に、むしろ奇抜な衣装を着て威嚇する戦術を採用した。これが「人外」の語感を強めた一因ともされる。
測量と宗教儀礼[編集]
当時の測量は単なる技術ではなく、地霊への許可を得る儀礼を伴っていた。新通り計画では式の白粉で線を引いた後、語の祈祷文を3回唱えることが義務づけられたが、これを省略した測量士が翌週に高熱を出したとの記録がある。
通行税の問題[編集]
旧来の路地では、曲がり角ごとに微額の通行銭が徴収されていた。新通り化により徴収点が減ることを恐れた徴税請負人たちは、街路幅をわざと不揃いに保つよう工作し、のちにこれが「曲尺陰謀」と呼ばれた。
経緯[編集]
春、新通りの杭打ちが開始された。最初の3日間は平穏であったが、4日目に香料商人連合が荷車12台を横倒しにして杭を止め、夜には寺院の鐘が同時に33回鳴らされ、住民の集合がかかった。
には、測量隊が幅員確保のために両側の露店を立ち退かせようとした結果、売り子たちが鍋蓋と笊を盾にして抵抗した。これに対し、測量官ファン・デル・ミールは「線の上では誰も偉くない」と宣言したが、直後に彼自身が線香の煙で視界を失い、ほぼ無抵抗のまま捕縛されたと記録されている。
その後、都市同盟側のルカス・セラングは、新通り中央に仮設の演壇を置き、そこを「公正の座」と称した。ここで双方が交互に宣誓文を読み上げる奇妙な交渉が2週間続き、最終日にはが供した甘い茶が切れたことを契機として、投石と木槌の応酬に変わった。この小競り合いが、後世「決戦」の名でまとめられたのである。
決戦当日[編集]
7月18日の早朝、南埠頭から吹き込んだ湿った風により、双方の火器はほとんど使えなかった。そのため主戦場は新通りの中央であり、兵士たちは直線上を一歩も外れないよう命じられた。これにより、戦術は実質的に横移動を禁じられたチェスのような様相を呈した。
人外装束部隊[編集]
夜警団は竹骨に布を張った長衣をまとい、顔を白く塗って突進したため、遠目には「人外」の群れのように見えた。敵側の記録ではこれを心理戦の成功例としているが、実際には日差し避けのつもりであったとの指摘がある。
影響[編集]
戦闘そのものの死傷者は少なかったが、その後の都市政策への影響は大きかった。最も重要なのは、に制定された新通り評定令であり、これにより街路幅、灯火の高さ、露店の張り出し寸法が細かく規定された。以後、周辺港市でも「四分の一歩単位」の道路管理が導入され、街区行政の近代化につながったとされる。
また、事件を契機として、港湾都市における測量官の権限が拡大し、同時に夜警団の衣装規制が強化された。とくに白塗り顔と鈴付き肩衣は「過度に威圧的」として禁止され、代わって反射板付きの短衣が支給された。この制度変更は、のちのシンガポールやの街路警備にも影響を与えたとする説がある。
文化面では、新通りを題材とする即興詩と木版画が流行し、19世紀にはオランダと双方の郷土史家によって英雄譚化された。一方で、事件の実態は税制紛争であったとする冷ややかな再評価もあり、現在では「道路史における最も劇的な自治会案件」と呼ばれることが多い。
都市計画への波及[編集]
新通り評定令では、曲がり角の半径、雨水溝の深さ、街灯の間隔まで数値化された。これが東南アジア沿岸の港市に広く模倣され、半ばまでに「新通り式」と呼ばれる区画整理様式が7都市で採用されたという。
民間伝承[編集]
市民の間では、決戦の夜に現れたという「定規を持つ狐」や、「線をまたぐと商売が繁盛する」という迷信が生まれた。もっとも、これらは後半の観光パンフレットが脚色した可能性が高い。
研究史・評価[編集]
前半まで、人外魔境新通り決戦は地方の珍事として扱われていたが、1938年にのアントン・ヴァン・レーヴェン准教授が港湾記録簿と税帳簿を突き合わせたことで、事件の政治性が再評価された。以後、都市史・交通史・儀礼研究の交差領域として注目されている。
1971年にはの都市文書館が、新通り建設図と夜警団の衣装目録を同時公開し、これにより「人外装束」説が半ば確証を得たとする研究者も現れた。ただし、衣装目録の番号が5枚分飛んでいることから、展示担当が適当に綴じた可能性も指摘されている。
近年は、単なる「奇妙な決戦」として消費する見方を批判し、植民地的測量制度と地元共同体の折衝を示す事例として重視する傾向が強い。一方で、ある研究者は「甘い茶の補給切れが歴史を動かした」と主張しており、学界では半ば好意的に受け流されている。
史料の問題[編集]
主要史料には、、が混在しており、同一事件を指すかどうか判然としない箇所がある。とくに「決戦」の語は、後世の編集者が見出しを大きく見せるために追加した可能性がある。
評価の分裂[編集]
都市計画史の側からは近代化の起点、民俗学の側からは路地霊信仰の逸脱、軍事史の側からは不完全な会戦として、それぞれ異なる評価が与えられている。なお、いずれの分野でも「木槌の使用法」だけはやけに詳しく論じられる傾向がある。
脚注[編集]
[1] 1694年の港湾再編布告に関する伝承記録に基づく。 [2] 新通り評定令草案第4条の注記欄に「決戦」との表現が見える。 [3] なお、「人外魔境」という呼称は、20世紀初頭の観光案内に初出する可能性が高い。
関連項目[編集]
脚注
- ^ ハンス・A・ファン・デル・ミール『マラッカ沿岸街路史と新通り評定令』東洋港湾史研究会, 1984, pp. 41-88.
- ^ S. Rahman, “The Shindori Boundary Dispute: Urban Ritual and Taxation in Late Seventeenth-Century Malacca,” Journal of Maritime Urban Studies, Vol. 12, No. 3, 1991, pp. 201-229.
- ^ 佐伯義朗『港市の直線と曲線—東南アジア近世都市の測量文化』港湾文庫, 1978, pp. 55-103.
- ^ M. de Vries, “Lantern Height and Civic Order in the Straits Settlements,” Proceedings of the Leiden Institute of Colonial Geometry, Vol. 7, 1965, pp. 17-46.
- ^ アブドゥル・ラティフ・ビン・ハミド『新通り夜警団衣装目録考』クアラルンプール史料館叢書, 2003, pp. 9-32.
- ^ C. Tanaka, “The Tea Shortage That Changed History: A Reassessment of the Jingai Makyō Kessen,” Asian Port History Review, Vol. 19, No. 2, 2010, pp. 77-95.
- ^ 石黒晴信『線の政治学—街路幅が国家を作るとき』潮汐社, 1997, pp. 121-164.
- ^ P. van Loon, “On the Myth of the Beastly Uniforms: Costume, Fear, and Street Warfare,” Bulletin of Comparative Urban History, Vol. 4, No. 1, 1973, pp. 3-28.
- ^ 多田野修一『港湾の甘茶供給と集団行動』新月出版, 2015, pp. 214-241.
- ^ N. Karim, “When Roads Refused to Be Straight: The Shindori Case in Comparative Perspective,” The Review of Impossible Histories, Vol. 2, No. 4, 2020, pp. 1-19.
外部リンク
- マラッカ海峡歴史文書館
- 新通り評定令アーカイブ
- 港湾都市比較史研究センター
- 定規戦術研究会
- 人外装束保存協会