人民文化交通
| 名称 | 人民文化交通 |
|---|---|
| 読み | じんみんぶんかこうつう |
| 英語名 | People's Cultural Transit |
| 提唱時期 | 1928年ごろ |
| 提唱者 | 河合栄一郎、三浦キミ子ほか |
| 所管 | 鉄道省・文部省(後に逓信省も参加) |
| 主対象 | 演劇、講話、移動図書、巡回映画、民謡保存 |
| 拠点 | 東京市、横浜市、大阪市、仙台市 |
| 影響 | 戦前都市文化政策、戦後の巡回文化車両構想に影響 |
人民文化交通(じんみんぶんかこうつう、英: People's Cultural Transit)は、末期ので構想された、資材と人員を定時運搬するための準公共輸送体系である。のちにとの連携事業として全国へ拡張されたとされる[1]。
概要[編集]
人民文化交通とは、の時刻網を応用し、演劇団、講師、移動図書館、蓄音機班を一体的に運ぶことを目的とした準公共制度である。一般には単なる文化普及施策とみなされがちであるが、初期の行政文書では「人の移動ではなく、知識の移送を主目的とする交通」と定義されていた[2]。
この制度はの関東大震災後復興期に、都市の娯楽偏在を是正する目的で試験導入されたとされる。もっとも、実際には各省庁の予算余りと沿線商工会の圧力が奇妙に結びついた結果であり、で発車待ちの文化班が増えすぎたため、駅長が臨時に「朗読用ホーム」を設置したという記録まで残る[3]。
成立の経緯[編集]
人民文化交通の起源は、に社会教育局で作成された「夜間余剰車両活用案」に求められるとされる。これは、昼間は旅客輸送、夜間は文化輸送に転用するという発想であり、当時の担当官であったが、欧州のとを混同したまま案をまとめたことから生まれたという[4]。
翌、東京市内のとを結ぶ試験区間で、月3回の巡回講談車両が運行された。車内には折りたたみ舞台、手回し映写機、貸本棚が設置され、車両重量は通常より1.8トン増したが、運賃は据え置きであったため、地元紙は「文化は軽くない」と評した。この標語が後に省内で流行し、以後の事業説明資料の定型句になったとされる[5]。
にはとで「港湾文化連絡線」が設けられ、荷役の空き時間を使って港務員向けの落語公演が行われた。これが想定外に好評で、最終便に乗り遅れた観客が倉庫街へ流入し、結果として周辺の夜食屋台が22軒から41軒に増えたことが、制度の経済効果として報告された[6]。
制度設計[編集]
文化時刻表[編集]
人民文化交通の中核は、通常の時刻表に「文化欄」を併記する方式であった。ここには公演開始時刻ではなく、「理解開始時刻」「拍手推奨時刻」「休憩延長可否」などの項目が並び、の実務担当者の間では「最も読みにくい行政文書」と呼ばれた[7]。
文化切符と査定[編集]
乗車券は「普通文化券」「巡回優待券」「研究見学券」の3種に分かれ、裏面には観覧後の感想欄が設けられていた。なお、感想欄を満欄にすると次回の入場が7分早くなるという制度があり、これを目当てに筆記用具を持参する常連が増えたという。統計上、の利用者のうち約14%が「文化欄目当ての乗車」であったとされるが、調査方法には疑義がある[8]。
移動文化車両[編集]
専用車両には、座席を畳むと舞台袖になる「転換式二段座席」、乾電池で動く拡声器、雨天時に自動で閉じる簡易緞帳が備えられた。特に配属の第4号車は、冬季に暖房を優先した結果、映写機が頻繁に曇るため、上映前に係員が湯気を扇いで除去するという独特の運用で知られていた。これが後に「東北方式」として各地に模倣された[9]。
展開[編集]
からにかけて、人民文化交通は最盛期を迎えたとされる。この時期には、、まで運行網が広がり、年間の文化輸送件数は延べ9,480回に達したとする内部資料がある。もっとも、そのうちの1,200回は「雨天待機」、870回は「講師の遅刻」、さらに312回は「駅弁の配達と混同」されたものであり、実際の実施率は7割前後だった可能性が高い[10]。
この制度の広がりには、前身の放送実験班や、各地の青年団、さらには私設劇団の連携が大きく寄与した。なかでもの港湾労働者向け夜学列車は、1両あたり平均38名の受講者を集め、講義の途中で貨物列車の通過音が入ることが「臨場感がある」と評価された。これを受けて、いくつかの路線ではあえて踏切付近で朗読が行われたという[11]。
一方で、文化の移動効率を重視するあまり、演目が各地で短縮されすぎる問題も生じた。『』は14分版、『』は要点朗読版、『』は雨天中止版が標準となり、文化団体からは「輸送は便利だが鑑賞は忙しい」と批判された。これに対し事務局は、「人民は長さより到達を求める」と回答している[12]。
社会的影響[編集]
人民文化交通は、都市部と地方部の文化格差を是正した事業として評価されることが多い。特にやの山間部では、年に1度しか来ない巡回文楽車両が住民の娯楽機会を大きく変え、学校の遠足先に「演目の停車場」が含まれるようになった。これにより、子どもが先に演目の結末を覚えてしまい、家庭での会話が成立しないという副作用も確認されている[13]。
また、交通機関と文化行政を結びつけた先例として、戦後のや、さらにはの制度設計に影響したとされる。なお、一部研究者は、人民文化交通の実態は「文化を口実にした車両保有計画」であったと指摘しているが、当時の内部でも車掌の教育資料がやけに充実していたことから、完全な虚構とも言い切れないとされる[14]。
批判と論争[編集]
人民文化交通は、創設当初から「文化の強制輸送」にあたるのではないかという批判を受けた。とくにの議会では、文化班の到着に合わせて学校が半休になる現象が問題視され、「鑑賞は自由であるべきだが、列車は定時である」との議員発言が議事録に残っている[15]。
さらに、制度名に「人民」を冠したことから、政治的宣伝であるとの疑念もあった。だが実際には、命名会議の最後に書記が「文化交通だけでは予算が通りにくいので、勢いを出すため人民を付ける」と提案したのが通説である。関係者の日記には「人民は、あれば便利、なくても進む」との一文があり、のちに研究者の間で引用され続けた。
なお、以降は資材統制の影響で車両更新が止まり、終戦前には実働台数が17両まで減少したとされる。ただし、末期の一部路線では貨車に布を垂らしただけの「臨時文化便」が運行されていたという証言があり、これを人民文化交通の最終形態とみなす見解もある[16]。
脚注[編集]
[1]~[16]。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 河合栄一郎『人民文化交通試案』文部省社会教育局資料第12号, 1928.
- ^ 三浦キミ子「巡回文化車両の運行実績」『社会教育研究』Vol. 4, No. 2, pp. 41-67, 1932.
- ^ T. Sato, “Cultural Transit and Urban Rhythm in Interwar Tokyo,” Journal of Japanese Public Policy, Vol. 18, No. 3, pp. 201-229, 1987.
- ^ 藤堂一也『戦前日本における移動文化政策』青松書房, 1994.
- ^ Margaret A. Thornton, “Railway Carriages as Lecture Rooms: A Comparative Note,” Transnational Transport History Review, Vol. 7, No. 1, pp. 15-38, 2001.
- ^ 小松原静江「人民文化交通と港湾労働者の夜学化」『横浜史論集』第9巻第4号, pp. 88-110, 1969.
- ^ H. Müller, “The People, the Stage, and the Timetable,” Comparative Civic Mobility, Vol. 2, No. 4, pp. 77-95, 1978.
- ^ 西園寺百合子『文化輸送の行政史』東京都市文化研究会, 2010.
- ^ 加納宗平「「理解開始時刻」の成立」『交通行政史報』第21巻第1号, pp. 5-19, 2004.
- ^ Robert Fielding, “The Curious Case of Public Applause Scheduling,” Notes on Impossible Infrastructure, Vol. 11, No. 2, pp. 144-158, 2015.
外部リンク
- 人民文化交通史料館
- 全国巡回文化車両保存会
- 近代社会教育アーカイブス
- 東亜交通文化研究所
- 幻の時刻表データベース