今井興行
| 正式名称 | 今井興行 |
|---|---|
| 通称 | 今井興行社、今井組 |
| 創業 | 1919年頃 |
| 創業地 | 東京市浅草区 |
| 創業者 | 今井 藤作 |
| 主要分野 | 寄席運営、巡業興行、仮設劇場設営 |
| 活動地域 | 関東、東海、京阪神 |
| 最盛期 | 1930年代前半 |
| 標語 | 客を集めるのではない、空気を先に売る |
今井興行(いまいこうぎょう)は、末期にで発祥したとされる興行運営の系譜であり、のちにを横断する複合事業体として知られる[1]。とくに「場を仕立てる技術」を体系化したことで、近代日本の見世物文化に独特の影響を与えたとされる[2]。
概要[編集]
今井興行は、を拠点に成立したとされる興行稼業の総称である。一般には一企業名として扱われるが、実際にはの貸し席管理、移動式の舞台装置、町内会向けの映画上映までを束ねた半ば連合体のような存在であったと伝えられる。
この系譜の特徴は、単に演目を売るのではなく、の徴収方法から客席の傾斜角、終演後の帰路誘導に至るまでを一括して設計した点にある。今井家の帳簿には「雨天三割増し」「月末の財布薄化対策」などの記載があり、当時の興行師の中でもきわめて実務的であったとされる[3]。
成立と初期の拡大[編集]
浅草十二番地の小屋掛け[編集]
今井興行の始まりは、に今井藤作が十二番地で始めた仮設小屋の貸出業に求められる。藤作は元々の手代であったが、暴風で倒れた資材置場の梁を再利用し、三日で寄席を組み上げたのが評判を呼んだという。これがのちに「三日小屋」と呼ばれる設営法で、最短で客席を完成させた記録が残る[4]。
初期は落語家や浪曲師の巡業を請け負う小規模業者であったが、藤作は「芸人より先に雨樋を押さえよ」と述べたとされ、舞台よりも周辺導線の確保を重視した。なお、この方針は末期の都市雑踏に極めて適合したらしく、同業他社よりも客の滞留率が12%ほど高かったという社内資料がある。
映画と演芸の接続[編集]
頃、今井興行はと寄席の間に「半地下式転換幕」を導入し、昼は活動写真、夜は漫才と奇術を上演する方式を採用した。これにより、上映回転率は一日からに向上したとされる。
この方式を考案したのは、帳簿係のであったという説が有力である。サチは観客の退席速度を「飽きる前に次を見せる」構造で制御し、券売所の横に甘酒屋を置くことで再入場率を上げた。観客の胃袋と注意力を同時に管理するこの手法は、後年のの原型と評価される一方、近隣の豆腐屋からは「客がみな途中で寒天を買う」と苦情が出た。
組織と人物[編集]
今井藤作[編集]
創業者の今井藤作は、生まれとされる人物で、職人肌の興行師として知られる。彼は台本を読めない芸人に対しても「せりふは覚えなくてよい、笑う場所だけ守れ」と指示したと伝えられ、演者の自由度を高めた。
藤作はまた、巡業先の宿で必ず障子紙の枚数を数え、破れやすい部屋ほど高座の人気が出ると信じていた。この奇妙な経験則は、のちに「藤作の破れ障子理論」と呼ばれ、今井興行の人事評価にも用いられたというが、実証的根拠は乏しい。
今井サチと経理部[編集]
に経理部へ加わった今井サチは、今井興行の実務を制度化した人物である。彼女は木札、半券、入場整理紙の色を曜日ごとに変え、精算ミスを月平均からへ減らしたとされる。
一方でサチは、帳簿の余白に客の反応を星印で記録していた。たとえば「三つ星: 泣く」「五つ星: 泣きながら再来場」などである。この評価法は一部の演芸評論家に好評であったが、税務署には理解されず、昭和初期ので説明会が開かれたという。
事業展開[編集]
巡業網の形成[編集]
今井興行はへと巡業網を拡大し、特に駅前の空き地を「仮設文化地帯」として扱う独自の運営で知られた。移動舞台は最大での貨車に収まり、折りたたみ式の幕はの三色が標準であった。
1930年代半ばには、各地の青年団と提携し、盆踊りと新作喜劇を混在させる「盆笑会」を開催した。観客動員は一晩でに達した回もあり、地元の消防組からは「舞台が大きすぎて盆が見えない」との指摘があった。
広告戦略と今井式看板[編集]
今井興行の名を広めたのは、実は芸ではなく看板であるとされる。彼らはからにかけて、角度に傾けた木製看板を設置し、夜間には石灰を混ぜた白墨で演目名を浮かび上がらせた。
とくに有名なのが「本日、雨でも笑う」という文句で、これが実際の公演内容ではなく天候保証を指していたことから、観客の誤解を生んだ。ある年には、雷雨の日に客が通常の1.4倍集まり、演目よりも「本当に笑えるか」を確認する見物客が増えたと記録されている。
社会的影響[編集]
今井興行は、初期の都市娯楽における「時間を買う」という発想を定着させたとされる。それまでの興行は演目中心であったが、今井興行は待合、売店、退場導線を含めて娯楽とみなしたため、近代的なレジャー経営の先駆例と評価されることがある。
また、周辺商店街との相互依存関係も強かった。豆菓子店、紙芝居屋、靴磨き業者までが今井興行の開演時刻に合わせて営業し、地域の夜間売上は平均増加したという。もっとも、この数字は今井家の顧問税理士が夜食の売上まで含めて計算した可能性があり、とする意見もある。
戦時色が強まると、今井興行は娯楽統制の波を受け、演目を「健全喜劇」に改めるよう指導された。これに対し藤作は「笑いに健全も不健全もあるか」と語ったとされるが、翌日には舞台の幕が半分だけ小さくなっていたという逸話が残る。
批判と論争[編集]
今井興行には、芸人を大量動員しすぎるあまり、演者の個性を均質化したという批判がある。とくにの「三味線一斉交換事件」では、舞台ごとに演者の楽器を共通管理した結果、二十数名の芸人が自分の三味線を見失い、公演前に楽屋で小さな騒動となった。
また、今井式の集客理論は「観客の退屈を前提にしている」として演劇評論家のから批判された。佐伯は『興行とは注意力の搾取ではない』と書いたが、今井側は逆に「注意力が余っているから劇場へ来るのだ」と反論している。なお、この論争の末に、上演時間が伸びただけで満足度が14%上がったという社内実験結果が残された。
晩年とその後[編集]
に入ると、今井興行は戦前型の巡業網を縮小し、戦後は映画館の復旧請負や簡易舞台のリース業へと軸足を移した。藤作は晩年、の長屋で「舞台は建てるものではなく、逃げ道を残すものだ」と繰り返していたという。
今井家の一部はに「今井舞台工芸」として分離独立したが、旧帳簿の一部は行方不明となった。関係者の証言によれば、その中には「客席が狭いほど拍手が大きい」「梨の木の近くでは怪談を入れる」などの独自メモが含まれていたとされる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 今井藤作『浅草小屋掛け帳』今井興行資料室, 1932年.
- ^ 佐伯冬彦『都市娯楽と注意力の経済』東亜出版, 1941年.
- ^ 今井サチ『半券と星印――興行実務の整理術』東京文化社, 1938年.
- ^ 松浦敬一「今井興行における仮設舞台の構造」『演芸研究』Vol. 12, No. 3, pp. 44-61, 1967年.
- ^ H. Thornton, “Portable Stages and Urban Leisure in Prewar Tokyo,” Journal of East Asian Performance Studies, Vol. 8, No. 2, pp. 101-129, 1988.
- ^ 中村良平『看板が町を動かす』関東書房, 1954年.
- ^ 渡辺精一郎「巡業網の社会地理学」『日本都市史学会紀要』第9巻第1号, pp. 7-28, 1976年.
- ^ M. A. Thornton, “Rain Guarantees and Audience Retention: A Curious Case,” Performing Arts Quarterly, Vol. 21, No. 4, pp. 233-250, 1995.
- ^ 今井家文庫編『三日小屋の実際――折りたたみ舞台の設計図』私家版, 1949年.
- ^ 小林三郎『興行と胃袋の関係』春陽館, 1936年.
- ^ 田所静子「盆笑会の民俗学的再検討」『地方芸能』第4巻第2号, pp. 88-95, 2001年.
外部リンク
- 浅草興行史アーカイブ
- 昭和レジャー資料館
- 今井興行研究会
- 東京仮設舞台データベース
- 演芸と広告の交差点