伊良部
| 名称 | 伊良部 |
|---|---|
| 読み | いらぶ |
| 分野 | 海上技法・民俗・交易文化 |
| 成立 | 17世紀後半ごろ |
| 起源地 | 沖縄県宮古列島西部 |
| 中心人物 | 伊良部新右衛門、平良カネ |
| 主な文献 | 『海潮秘録』ほか |
| 関連儀礼 | 返し潮祭、舟口合わせ |
| 特徴 | 潮目を符号化して船団を誘導する |
伊良部(いらぶ、英: Irabu)は、西部の海域に由来する漁労・航海・島嶼交易の複合文化である。特に末期に体系化された潮流測定法と、周辺で発達した「返し潮」の儀礼が知られている[1]。
概要[編集]
伊良部は、の海人(うみんちゅ)たちが用いた潮流読解と航路合図の総称である。単なる航海術ではなく、潮の向き・月齢・島影の反響音を組み合わせて「見えない港」を探す技法として発達したとされる。
この体系は、後半にの貢租船がしばしば暗礁に乗り上げたことを契機に整えられたとされる。なお、近年の民俗学では、伊良部は実在の島名に由来するというより、航海中に交わされる短い掛け声「いらぶ、いらぶ」に由来するとの説もあり、こちらが有力であるとする研究者もいる[2]。
歴史[編集]
成立と初期の普及[編集]
伊良部の原型は、ごろに北岸の干瀬で観測された「三たび返る潮」にあると伝えられる。島の古老・伊良部新右衛門は、潮の転換点を貝殻に刻んで記録し、風向きと合わせて航路を決める方法をへの上納船に教えたとされる[3]。
この技法は当初、船頭の経験則の域を出なかったが、に平良カネが「潮は声にすれば覚えられる」として、若者に唱和させる訓練を始めたことで急速に普及した。伊良部節とも呼ばれるこの唱和法は、一見すると民謡に近いが、実際には左舷・右舷・退避の三種の命令が音節単位で埋め込まれていたという。
制度化と交易への転用[編集]
中葉になると、伊良部はの役人によって半ば公的な航海手順として採用された。とりわけの「久松沖回航事故」以後、は潮目の読みを記した木札の携行を義務づけ、これを「伊良部札」と呼んだ[4]。
また、交易の現場では、伊良部の符号が塩・黒糖・布の受け渡し確認にも用いられた。船着き場で「二潮、三影」と唱えれば二俵の積み込み完了、「鳩返し」と答えれば返送品あり、という具合である。この簡潔さゆえ、では一時期、帳付けより先に伊良部で取引が成立するほどであった。
近代化と衰退[編集]
期に入ると、の海運行政は近代測量に移行し、伊良部は迷信混じりの古風な技法として扱われるようになった。しかし、台風接近時に沖で避難誘導に成功したことから再評価が進み、の海事嘱託だった渡久地正隆が、潮目の読みを気圧変化と関連づけて報告した[5]。
ただし、この報告は後年の研究で、測候所の記録と合わない日付が複数見つかっており、いわゆる「要出典案件」として扱われている。にもかかわらず、伊良部は地域祭礼のなかに残り、30年代まで子どもの遊び歌としても歌い継がれた。
技法[編集]
潮目の符号化[編集]
伊良部の中核は、潮の速さを三段階、波の高さを五段階、島影の濃さを四段階で記録する三層式の符号化にあった。これらを縦に読み合わせることで、船長は「本潮」「戻り潮」「眠潮」のいずれかを判断したとされる。
記録には、貝殻片を縄に結び付けた「潮珠」が用いられた。潮珠は通常12個ひと組で、の夜には13個に増やす慣習があり、これは月が船を数え間違えるのを防ぐためだと説明されるが、実際には若手船員の訓練用だったという説もある。
返し潮祭[編集]
年に一度、南岸の砂浜で行われた返し潮祭では、船主と網元が互いに逆向きに歩き、最後に同時に振り返る儀礼が行われた。このとき、最初に振り返った者が翌年の豊漁を得るとされたが、実際には先に振り返った者が潮の変化を早く察知できたためである。
祭礼の終盤には、伊良部節を七回唱え、の方向を木槌で示す「舟口合わせ」が行われた。これが成功すると、村の子どもたちが浜辺で黒糖水を配ったという。
社会的影響[編集]
伊良部は海上の安全技術であると同時に、共同体の合意形成を支える符号体系でもあった。特に後半の島嶼間交易では、言語の違う船乗り同士が伊良部の単語だけで出港時刻と積荷量を共有できたため、離島経済の共通語として機能したとされる。
一方で、伊良部を独占した一族が航路情報を囲い込んだため、ごろには「潮を読む権利は誰のものか」を巡る小競り合いが起きた。これを受け、の商人・宮良安太郎は公開講習を提案し、結果として伊良部は秘伝から半公開の地域知へと変化した。
批判と論争[編集]
伊良部の実効性については、早くから懐疑論が存在した。とくにの海洋学者・長谷部辰雄は、の論文で「潮を音節に置き換える操作は教育効果を持つが、航路決定の精度は統計的に示されていない」と述べた[6]。
これに対し、地域側は「数字で測れぬ安全がある」と反論したが、その後の再現実験では、被験者が伊良部節を歌った群のほうが、単純に船酔いを忘れやすかったことが判明した。なお、の県教育委員会資料には、伊良部を「海上版の暗算」と呼ぶ記述があるが、関係者の証言と一致しない点があり、現在でも議論が続いている[7]。
現代における扱い[編集]
現在の伊良部は、実務技法としてよりも民俗芸能、観光プログラム、学校教育の副教材として知られている。では、潮珠の複製と木札の展示が行われ、年に約3,400人が参加する体験講座があるという[8]。
また、では「伊良部の日」が非公式に定着しており、毎年の第2土曜日に港で小規模な再現航海が行われる。もっとも、使用される船はほぼ観光用グラスボートであり、海人たちの間では「透明な底では潮は読めない」と半ば冗談で語られている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 宮城 恒一『伊良部潮目考』琉球民俗研究会, 1984.
- ^ 渡久地 正隆「島嶼航海における符号化手順」『海事文化史研究』Vol. 12, No. 3, 192 pp. 41-68.
- ^ 長谷部 辰雄「伊良部の再現実験と教育効果」『東京帝国大学海洋学報』第7巻第2号, 1911, pp. 15-39.
- ^ 平良 カネ『潮は声にすれば覚えられる』首里港出版, 1730.
- ^ 仲宗根 眞一「返し潮祭の構造」『沖縄民俗』第18号, 1976, pp. 201-219.
- ^ M. A. Thornton, 'Rhythmic Navigation Systems of the Ryukyu Islands', Journal of Maritime Ethnography, Vol. 9, No. 1, 2004, pp. 77-103.
- ^ 宮良 安太郎『港と木札の経済史』那覇文化社, 1894.
- ^ 沖縄県教育委員会『地域教材としての伊良部』県教委資料第44号, 1978.
- ^ 佐久本 直人「潮珠の材料学的検討」『琉球工藝学雑誌』第3巻第4号, 1962, pp. 9-22.
- ^ Harold J. Wexler, 'On the Directional Memory of Island Sailors', Pacific Studies Quarterly, Vol. 21, No. 4, 1998, pp. 301-330.
外部リンク
- 沖縄民俗アーカイブ
- 宮古列島海事史研究所
- 琉球王府文書デジタル叢書
- 潮珠保存会
- 伊良部節保存協議会