佐竹山宗十郎重徳
| 時代 | 江戸時代後期 |
|---|---|
| 分野 | 遊郭評・性風俗記録・春画蒐集 |
| 活動地域 | (吉原を中心)ほか |
| 主な業績 | 遊郭“温度差”分類表、春画の目録化 |
| 同時代の関係者 | 遊女仲介人、書肆、目明かし組合 |
| 評価 | 風俗史料として再評価されることがある |
| 備考 | 一部で“収集欲の暴走”が指摘される |
佐竹山宗十郎重徳(さたけやま そうじゅうろう しげのり)は、後期に活動したとされるの遊郭レビュアーである。あわせて、異例の規模でを収集し、記録媒体として整理したことで知られている[1]。
概要[編集]
は、江戸の遊郭文化を“読める形”に整えた人物として語られている。彼が残したとされる評定書類は、単なる噂の羅列ではなく、客の体験を「季節」「宿代の変動」「掛茶の香り」などに分解して記録するという、いわば民間のレビュー体系であったとされる[1]。
また、春画については「絵柄」だけでなく「版の硬さ」「紙の繊維」「開き癖のつき方」まで同列に扱った目録があったと伝えられる。特に、彼が“見出し”として採用した用語の多くは、後年の書肆が模倣したとも言われる[2]。ただし、収集の熱が過度であったという証言もあり、その点は批判の材料になったとされる。
なお、彼の名がやけに長いことから、家督・養子縁組・役職の兼帯を経て改名が繰り返された可能性が指摘される。一方で、真相は定かではないとされる。
生涯と活動の背景[編集]
宗十郎重徳の生涯は、遊郭の“内側の情報”にアクセスしやすかった環境から始まったとされる。伝承では、彼はの下町で、書店の見習いから“目録係”へ抜擢されたのち、吉原周辺の出入りに慣れていったとされる[3]。その過程で、遊郭の評判が、花代や人員配置だけでなく、床の湿り気や行灯の明るさにも左右されるという観察が蓄積されたという。
評の体系が整ったのは、彼が「温度差」という概念を持ち込んだ時期だとされる。ここでいう温度差は、実際の体温ではなく、客が体感する“空気の粘度”を指す比喩であり、たとえば「香の立ち上がりは10刻(約2時間半)以内に終わる」「太鼓の間に立ち上がる苛立ちは3段階で沈静する」といった細部が記されたとされる[4]。
同時代には、情報の売買が密に行われていた。彼はとされる末端の連携者、そしての帳場筋と接点を持ち、匿名の“評者”として記事に近い記録を流したと考えられている[5]。その結果、単なる噂ではなく、比較可能な項目が増え、遊郭側も対応を迫られたという。
ただし、彼がどの程度“公式”に関与したのかは不明である。吉原の大立者筋に出入りしていたという話と、書店の裏で春画の梱包をしていたという話が混ざって伝わり、後世の筆者が混乱した可能性があるとされる。
遊郭レビュアーとしての手法[編集]
評定書『香月録』と“温度差”分類[編集]
宗十郎重徳の代表的資料として、遊郭評定書『』が挙げられることがある。この書は「香(線香)」「月(照明)」「賃(宿代)」「声(会話の起点)」の4章で構成され、各章に「差分」を持たせる形式を採用していたとされる[6]。
特に温度差の扱いが特徴だとされる。『香月録』では、掛茶が配されるタイミングを基準に、客の機嫌を「第一沈黙」「第二饒舌」「第三決断」の3段階に分けると記されていたという。しかも、各段階に対応する香の種類は、厳密に「香木の切り口の年輪が七〜九本に見えるもの」などと書かれていた、と伝えられる[7]。
ただし、これらは後年に誇張された可能性が指摘される。一方で、誇張があるにせよ、分類が“再現性”を意識している点が、現代的なレビューにも通じるとして評価されることがある。
情報流通:吉原の“閲覧税”構想[編集]
彼が社会に与えた影響として、遊郭評の“共有”が挙げられる。宗十郎重徳は、評定書を複製して書肆で回覧させる仕組みを構想したとされる。さらに、そのための財源として「閲覧税」なる概念を持ち出したとも伝えられている[8]。
“閲覧税”は、幕府の税制ではなく、あくまで書肆と仲介人の自主的な徴収で、閲覧者に「紙面一枚につき一朱を上納」させる仕組みだったと書かれているという。しかも徴収のタイミングは「月の薄い晩、つまり十五夜の二日後」に固定されていた、などと細かい数字が残るとされる[9]。
この構想は実際に施行されたかは不明である。だが、遊郭の“外部評価”が制度化される気配はあったとされ、結果として宿選びが「口伝」から「項目比較」に寄ったという証言がある。
春画コレクターとしての蒐集思想[編集]
宗十郎重徳は、春画の蒐集家として語られる。もっとも、単なる収集ではなく、春画を「閲覧のための道具」として扱った点が異色だったとされる。彼は春画を冊子状にまとめ、見開きの順序だけでなく、鑑賞の手順を文章で添えたとされる[10]。
伝承では、彼の蔵書は“千点”ではなく“九百三十七丁”だったという。ここで丁はページではなく、板木から刷り出された“視認単位”を指す独自換算だったともされる[11]。さらに、版木の保管には「湿度が六〜七割の夜」「結露が生まれる直前」の2段階の方針があったとされ、徹底ぶりが語られている。
一方で、目録の言葉が露骨すぎるとして、書肆の一部からは嫌われた可能性があるとも言われる。ただし、宗十郎の方法は“情報整理”としては合理的であり、結果的に後年の風俗研究者が参照せざるを得なくなった、という筋書きが語られることもある。
なお、春画の収集に絡んだ契約者として、の紙問屋と、の製本職人名が挙げられることがある。もっとも、彼らの名が史料に同時に現れるかどうかは定かではないとされる。
影響:風俗文化と“読む習慣”への波及[編集]
宗十郎重徳の活動は、遊郭文化における評価のされ方を変えたとされる。従来、吉原や周辺の遊所は評判が口伝で流通し、選択の基準がその場の空気に依存しがちだったとされる。しかし彼の手法では、たとえば「初見の一杯目で香が折れるか」「仲居の返答が一拍遅れるか」といった細部が項目化されたとされる[12]。
この“項目化”は、客の行動にも影響した。『香月録』の回覧により、客は来訪前に自分の気分に近い条件を選び、遊女側の初動に対する期待値を揃えるようになった、という伝承がある[13]。結果として、遊郭の側も「いつもより明るい灯り」「香を濃くする」「声の間を整える」など、微調整を行うようになったとされる。
さらに、春画の整理が“閲覧の作法”をもたらしたことで、春画市場そのものの動きが変化したとも語られる。紙のサイズや綴じ方で需要が変わる、という考え方が広まり、書肆は表紙に短い評文を添えるようになったとされる[14]。
ただし、この影響は常に肯定的に語られるわけではない。情報が流通するほど、遊郭側は“調整のための演出”に頼り、逆に空気感が均されるという懸念も生まれたとされる。
批判と論争[編集]
宗十郎重徳には、倫理面の批判と、資料性への疑義が同時に向けられたとされる。とくに、春画目録が「鑑賞手順」を暗に規定していた点から、個人の嗜好を越えて“模範”として受け取られたのではないか、という指摘があったとされる[15]。
また、遊郭レビュアーとしての姿勢にも論争があった。『香月録』には、吉原の“良し悪し”を評価する基準が並ぶが、その基準が金銭やコネに左右される可能性を疑う声があったという。実際、彼が「賃の階段は七段」と書き残した一方で、時期によって宿代の記録が食い違うという指摘がある[16]。
さらに、彼の経歴の真偽をめぐっては、編集者の癖が疑われることがある。『香月録』の後半にあたる“香の年輪が七〜九本”というくだりは、写本の段階で誰かが遊び心を混ぜたのではないか、と推定されることがある[17]。ただし、写本文化のなかでは改変が起こりやすく、真実の復元が困難であったとされる。
このように、彼の評価は一枚岩ではない。風俗史料としての価値を認めつつも、どこまでが観察でどこからが演出かをめぐって、後世に継続して論争が残った、とまとめられることがある。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 田中逸見『江戸風俗の「項目化」:遊郭評定書の系譜』榛名書房, 1974.
- ^ Margaret A. Thornton「Cataloguing Intimacy: Edo Review Manuscripts」『Journal of Early Popular Literacy』Vol.12, No.3, pp.41-63, 1998.
- ^ 小林金四郎『香月録の伝来と写本差異』江都大学出版局, 2003.
- ^ 佐伯春風『春画目録学の成立事情』青蒼堂, 1989.
- ^ Henry W. Kinsley「Paper Texture and Cultural Access in Late Tokugawa」『Transactions of the Palaeography Society』第6巻第2号, pp.101-129, 2005.
- ^ 中村すみ子『吉原の評が生む市場変化—自主税構想とその周辺』風媒社, 2011.
- ^ 山縣太左衛門『目明かし連携と都市情報の流通』汐留史料館, 1966.
- ^ 高橋みのり『湿度で語る版木:蒐集家の保管技法』東京製本研究所紀要, Vol.8, No.1, pp.77-92, 2017.
- ^ (微妙に誤りが残る)Karl E. Watanabe『The Yoshawara Index』(英語題), Hokkaido Academic Press, 1952.
外部リンク
- 江都風俗資料アーカイブ
- 春画目録研究会
- 香月録写本ギャラリー
- 吉原レビュー史の会
- 紙と湿度の実験ノート