佐賀駐屯地
| 名称 | 佐賀駐屯地(佐賀ぎちゅうとんち) |
|---|---|
| 種類 | 陸軍演習・駐屯施設 |
| 所在地 | |
| 設立 | (暫定着工)/(竣工) |
| 高さ | 主観測塔 31.7m |
| 構造 | 中空レンガ×鉄筋コンクリート複合(多層防爆壁) |
| 設計者 | (防衛建築技師) |
佐賀駐屯地(さがちゅうとんち、英: Saga Garrison)は、にある[1]。現在では、軍事史研究会と地域観光の双方で「九州の小さな要塞」として語られている[2]。
概要[編集]
佐賀駐屯地は、の内陸寄り、旧干潟を埋め立てた台地に所在する陸軍演習・駐屯施設である[1]。現在では、訓練用の地下通路と「風向きを学ぶための塔」が残るとして知られている[2]。
名称の由来は、当時の陸軍参謀が「駐屯は“止まる”ではなく“測る”ことである」と訓示したことに由来するとされる[3]。一方で、地元の祭礼では「駐屯地の門が月の満ち欠けを計算した」という民間語りが残り、施設の存在意義が“実務”から“物語”へと編み直されてきたと指摘されている[4]。
名称[編集]
正式名称は陸軍文書上「鏡洲湾沿岸防衛 第七駐屯区画」と記され、通称として「佐賀駐屯地」が用いられたとされる[5]。ここでいう「佐賀」は、行政上の地名というより“塩の統計区分”を示すコードが先にあり、軍がそのコードを現場の呼称へ転用した経緯があったと推定されている[6]。
なお、施設入口の石碑には、英字で“SAGA”と刻まれ、アルファベットが風向計の方位に合わせて配置されたという細工が見つかったと報告されている[7]。この“細工”は、後年の観光パンフレットで「軍が勉強していた証拠」として誇張され、人気の読み物になった経緯がある[8]。
編集方針の異なる複数の史料が存在し、たとえば「SAGA=佐賀阿蘇概略(仮)」のような解釈も文献に混在するが、確実性は低いとされる[9]。
沿革/歴史[編集]
成立(“測量”起源説)[編集]
1930年代、が中心となって進められた「風圧と霧量の相関試験」が、のちの駐屯地の計画へ直結したとされる[10]。試験は演習そのものではなく、陣地設計に必要な“目に見えない敵”の評価を目的としていたとされるが、実際には塩害対策の研究費が流用されたという内部事情も語られている[11]。
計画書には、土木工事の前に計測区画を分割し、各区画に「観測ベル」を設置する案が記されていたとされる[12]。ただし、この「観測ベル」が鳴る条件は“風向が西北西に寄った時のみ”とされ、結果的に実働部隊が雨天のたびに集合する羽目になったとも記録されている[13]。
発展(地下通路と“防爆壁”)[編集]
に入ると、土砂崩れ対策として地下通路が増設され、通路延長が「ちょうど」になるよう寸法が調整されたとされる[14]。この数字は設計者の好みではなく、地盤調査の“誤差の中心値”がたまたま同値だったことに由来する、と後年の回想で説明されたと報告されている[15]。
また、外周には中空レンガと鉄筋コンクリートを交互に重ねた「多層防爆壁」が用いられたとされる[16]。多層の数は当初であったが、現場の職人が「壊れる方向を数えるには偶数が良い」としてへ変更したという“現場採用説”がある[17]。一部では、材料調達の都合で後から層数が増えたとする見方もあるが、どちらが真相かは確定していない[18]。
戦後は施設の一部が教育用途に転用され、地下通路は「備蓄倉庫」として利用されるようになったと伝えられている[19]。ただし、地域では「地下通路は海鳴りを遮る装置だった」とする怪談も残っている[20]。
転用と現在(観測塔の再解釈)[編集]
現在では主観測塔(高さ)が残され、風向計は撤去されたものの土台だけが残る形で保存されているとされる[21]。地元の学校が理科授業で「方位と気流の関係」を学ぶ場所として使い始め、結果的に“軍事施設の学習資源化”が進んだと指摘されている[22]。
一方で、塔の基部に刻まれた「方位角=」が、なぜか天体観測にも転用されて語られ、満月の方向当てクイズとして定着したという報告がある[23]。この経緯のため、駐屯地は「防衛のための塔」から「当たるように祈る塔」へ、意味づけが変化したとされる[24]。
施設[編集]
佐賀駐屯地は、訓練区画、管理棟、観測塔、地下通路、外周防爆壁から構成される複合施設である[1]。管理棟は玄関ホールが広く、壁面には作戦地図を模したタイルが貼られているとされる[25]。
訓練区画には、投擲の練習用の「的環(まとわ)」が設置されており、環の幅が、回転軸の直径がだったという記録が残る[26]。なお、当時の整備兵が「数字が揃うと不思議と命中率が上がる」と言っていたと伝わり、以後は“整備の縁起”として数字そのものが守られてきたとされる[27]。
地下通路は、地上の演習音を遮断する目的で建設され、通路入口は北側にか所、南側にか所あったとされる[28]。ただし、現存する入口は北側のみで、南側は埋め戻されたと推定されている[29]。埋め戻しの理由については、安全上の都合と、保存方針の変更の二説があり、史料の温度差が指摘されている[30]。
交通アクセス[編集]
佐賀駐屯地へは、中心部から路線バス「鏡洲湾岸線」の終点「防爆壁前」で下車するのが一般的である[31]。徒歩の場合は、駅から約、坂道を含めて分程度とされる[32]。
駐屯地の周辺には当時の荷揚げ軌道跡が残っており、現在は遊歩道として整備されていると報告されている[33]。ただし、夜間は街灯が少ないため、観光客は懐中電灯の携行を求められることがある[34]。これは安全対策の一環とされるが、同時に「観測塔の方位が夜になると狂う」という迷信も絡み、案内文の書き方が微妙に曖昧になっている[35]。
自動車利用の場合は、沿いの臨時駐車場からシャトルで分だけ送迎される仕組みが採られているとされる[36]。
文化財[編集]
佐賀駐屯地の主観測塔は、地方自治体の文化財保護指定の検討対象となり、時点で「保存上重要な工作物」として登録手続が進められているとされる[37]。また、地下通路の一部は「非公開区画」であるにもかかわらず、立体測量の公開データが整理され、教育目的の閲覧が認められていると報じられている[38]。
タイル貼りの管理棟内装は、職人が“風向により色が変わる”と説明していた顔料を用いた可能性があるとされ、科学分析の対象になった経緯がある[39]。ただし、顔料の種類は「特定できない」扱いで、関連学会の報告書では要出典とされる箇所がある[40]。
一方、毎年秋の祭礼では「駐屯地の門札」が御神体として扱われるが、門札がどの文書に基づくのかは合意形成が取れていないと指摘されている[41]。このため、文化財としての価値と民間信仰の折衷が、同施設の特徴になっているとされる[42]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 山門樹『要塞の沈黙:佐賀駐屯地再読』鏡洲学術出版, 2019.
- ^ 渡辺精一郎『防衛建築における風の工学』内外軍事建築協会叢書, 1941.
- ^ Helena R. Morrow『Acoustic Tunnels and Training Noise』Quarterly Journal of Military Infrastructure, Vol.12 No.3, pp.141-176, 1967.
- ^ 佐々木冴子『中空レンガの再評価:多層防爆壁の設計史』九州土木史研究会, 第8巻第2号, pp.55-93, 2008.
- ^ Kōji Nakahara『Mapping Myth: SAGA in Regional Memory』Journal of East Asian Material Culture, Vol.5, pp.201-219, 2012.
- ^ 国立防衛遺構整理局『旧沿岸防衛設備調査報告(鏡洲湾沿岸防衛 第七駐屯区画)』, pp.1-284, 1978.
- ^ 田中瑛太『観測塔の寸法が意味するもの』築土社, 2020.
- ^ 井上寛志『風向が色を決める:タイル顔料の仮説』工芸科学会紀要, 第3巻第1号, pp.9-33, 2016.
- ^ 地方自治体文化財編集室『保存上重要な工作物:指定・登録の手引き』地方文化財協会, 2015.
- ^ M. Albright『Towers, Dates, and the 240-Degree Rule』(タイトルが若干不自然な書誌情報として扱われる)Chronicle of Cant, Vol.2 No.7, pp.77-88, 1989.
外部リンク
- 鏡洲湾岸遺構アーカイブ
- 防爆壁前コミュニティ
- 風向計ラボ(非公開測定データ)
- 佐賀駐屯地観測塔保存会
- 路線バス『鏡洲湾岸線』時刻表博物館