來麦
| 名称 | 來麦 |
|---|---|
| 読み | らいむぎ |
| 英語表記 | Raimugi |
| 分類 | 冬季播種麦・儀礼的穀物 |
| 起源 | 1890年代の北海道開拓地 |
| 主産地 | 上川地方・胆振地方 |
| 関連組織 | 農商務省北方作物試験場 |
| 通例の収穫期 | 翌年6月下旬から7月中旬 |
| 特徴 | 低温で青みを帯びる粒相と強い発酵適性 |
| 俗称 | 来麦・雷麦・門麦 |
來麦(らいむぎ)は、末期ので成立したとされる、冬期に麦芽を来訪者の足跡に合わせて育成するための民間農法、あるいはその工程で得られる薄青色の穀粒を指す語である[1]。のちにの試験事業を経て半ば制度化されたが、その起源には異説が多い[2]。
概要[編集]
來麦は、冬の長い地域で行われた半農半祭の作物管理から生まれたとされる穀物であり、特に周辺の移民農家のあいだで「人が来るほど麦が締まる」と信じられていたことから名付けられたとされる[3]。通常の麦よりも播種密度が高く、畝の端に木札を立てて来訪者数を記録するのが特徴であった。
この作物は、単なる農作物というより、来客・巡視・配給・祝祭などの人の往来を収量に反映させる仕組みとして理解されていた。したがって、村役場や鉄道駅の掲示板が事実上の生育補助装置として用いられた例もあり、時代の農事記録には「駅逓の鳴り方で穂が揃う」とする不可解な記述が見られる[4]。
名称の由来[編集]
「來」の字は、旧来の「来」よりも門構えを連想させ、外部からの流入を受け止める象徴として好まれたという。なお、の一部では「雷が落ちると麦が甘くなる」との俗信から雷麦と呼ばれたが、後年の流通文書では來麦に統一された[5]。
分類上の位置づけ[編集]
学術的にはに属するが、実務上は穀類・発酵原料・縁起物の三用途にまたがる特殊作物として扱われた。戦前の農学校では「穂先がやや内向きに湾曲するものを良品とする」と教えられたが、その判定法はきわめて主観的であったとされる。
歴史[編集]
成立期[編集]
起源はのにおける試験播種に求められる。移住農家のは、冬季に来客が多い家ほど翌春の麦粒が締まることに気づき、玄関脇の雪踏み場に沿って播種列を作ったとされる[6]。この方法は「客麦法」と呼ばれたが、のちに地元の書記官が帳簿上で誤って「來麦」と記したことで、名称が固定したという説が有力である。
制度化[編集]
、は北海道農事試験の一環として、來麦の収量と来訪者数の相関を調査した。調査班はからまでの12地点で延べ4,860回の訪問記録を取り、平均して1人の訪問ごとに0.37石の増収が認められたと報告したが、訪問者の靴底に付着した泥量を考慮していないとして後年批判された[7]。一方で、試験場の温室では来客が少ない日ほど麦芽の香りが弱まることが確認され、行政文書上は「精神的施肥効果」と表現された。
普及と衰退[編集]
期には、來麦はを経由してにも出荷され、製パン原料としてではなく、旅館の朝食用の粥として高く評価された。だが10年代に入ると、定量栽培と機械収穫の普及により「人の出入りを数える農法」は非効率とみなされ、1942年には一部地域で補助金対象から外された[8]。ただし、寒冷地の農村では正月の来客を利用した増粒儀礼が細々と残り、21世紀に入ってからも年に数戸が継承しているとされる。
栽培法[編集]
來麦の播種は、通常のよりも1〜2週間早く行われ、畝の両端に「来口」と「帰口」と呼ばれる札を立てるのが慣例である。来口に向かっては賓客、帰口に向かっては配達員を迎えることで、麦が風向きを誤認して太ると説明された。
灌水は朝露に依存するため、農家は夜明け前に屋敷前の雪を踏み固め、足跡を残すことを忌避した。逆に、最初の来訪者が長靴で畑を横切ると「芯が入る」とされ、農家は郵便配達の時刻を細かく記録した。なお、だが、周辺では巡査の巡回回数まで記録し、制服のボタンの数で収量の予測精度が変わると信じられていたという。
収穫後は、粒をそのまま乾燥させる「素來」と、来客の使った茶碗の底で軽く圧してから干す「器來」の二法が知られる。後者は香りが強いが割れやすく、の老舗菓子店が好んだことで地方銘柄化が進んだ。
品種改良[編集]
には農学部のらが、穂の色素を青灰色に寄せる「北来3号」を作出した。これは害虫忌避よりも「駅の白線に映える」ことを重視した改良で、当時のパン屋からは使いづらいとの声も出たが、祭礼用供物としては大いに歓迎された。
保存と発酵[編集]
來麦は乳酸発酵との相性がよく、樽内で二夜置くと甘味が増すとされる。の酒造家は、來麦をと混ぜて「駅前酵母」を培養し、冬場のパンと粥の両方に利用したという。もっとも、この酵母は駅弁の匂いを強く吸着するため、試験販売では賛否が分かれた。
社会的影響[編集]
來麦は、農業技術であると同時に、地域の来訪記録を可視化する装置でもあったため、学校・郵便局・駅舎の利用と深く結びついた。村の年間来客数が収量予測表に転記されることで、教師の転任希望や医師の巡回頻度までも穀物相場に影響したとされる。
また、冬季の交流を増やす口実としても機能した。各戸は「麦のために来てください」と招くようになり、葬儀後の会食にも來麦粥が供される慣行が生まれた。これにより、弔問と収穫祝賀の境目が曖昧になったことから、民俗学者は來麦を「北海道における季節感の再配線」と評した[9]。
経済面では、1920年代に來麦を用いた薄焼きパンが・で流行し、年間約12万個が販売されたと伝えられる。だが、同製品は食べると口の中で微細に鳴るという理由で、学校給食には採用されなかった。
文化行事[編集]
では毎年2月、最初の来客が玄関に置いた靴の位置で翌年の豊凶を占う「來麦踏み」が行われた。参加者は最大で73人に制限され、74人目は畑ではなく神社の参道を歩かされる慣例があったという。
流通と規格[編集]
戰前の流通規格では、粒径3.1ミリ以上を「上來」、2.7ミリ以上を「並來」とした。ところがの問屋が便宜上「下來」を大量に発注したため、地方の農家が意図的に粒を小さく育てる逆転現象が起きた。これがのちに「控えめ栽培」と呼ばれる独特の経営戦略につながった。
批判と論争[編集]
來麦に対する批判の中心は、収量が来訪者数に左右されるという説明が、農学的には著しく曖昧であった点にある。特にの農芸化学教室は、「足音による増収効果は統計誤差の可能性が高い」と指摘したが、現地農家は「誤差も畑に入れば肥やしになる」と応じたという。
また、來麦が地域共同体の監視装置として機能したとの批判もある。誰が何回来たかが帳面に残るため、遠縁の親族や布教者が来訪を避けるようになったとの証言があり、の一部では「麦より先に人間関係が痩せる」との反対運動が起きた[10]。
一方で、保存文書の一部には明らかに後世の筆致で書かれたページが混入しており、來麦そのものが農事改良会の展示用に創作された概念だったのではないかとの説もある。ただし、の所蔵目録には來麦専用の木製計量枡が9点残っており、真偽はなお決着していない。
現代における扱い[編集]
現在の來麦は、実用品というより、の民俗行事や地元パン職人による復刻品として知られている。年に一度の試食会では、来場者の人数に応じて配合が変わる方式が採られ、参加者が多いほど表面に細かな亀裂が入るのが特徴である。
にはで特集展示「麦は誰を待っていたのか」が開催され、来場者8,412人を記録した。展示室出口の自動扉が来訪者数を再集計したため、最終的な参加者数が17人増えたと報じられたが、学芸員は「來麦的な現象として自然である」とコメントした。
さらに、の一部駅売店では「來麦ビスケット」が販売され、土産物として定着している。なお、商品ラベルには『来客数によって味が変わる場合があります』と記されているが、実際には工場の気分で塩分が揺れるだけだという。
復元事業[編集]
、の保存会が古文書と土壌試料をもとに北来3号の再現栽培を行い、初年度は2.4ヘクタールで収穫量3.8トンを得た。保存会は「見学者が多い圃場ほど立ち上がりが早い」と発表したが、実際には撮影用ドローンの熱で発芽が早まった可能性がある。
都市圏への波及[編集]
では、來麦を模したクラフトパンが一部のベーカリーで流行し、玄関に小さな木札を置いて客数を数える「来麦式焼成」が流行語になった。もっとも、都内の店舗では客が多すぎて管理不能になり、最終的にはレジの打刻回数を代用するようになった。
脚注[編集]
[1] 來麦研究会編『北方穀物民俗誌』私家版, 1938年.
[2] 松浦一彦『北海道農政と儀礼作物』農事文化社, 1974年.
[3] 佐伯春江「來麦の成立と来訪数」『開拓史研究』第12巻第3号, pp. 41-68, 1989年.
[4] 北海道庁農務課『明治後期農事報告書集成』第4巻, pp. 212-219, 1909年.
[5] 青柳ミチ『方言農書と字形の変遷』東北出版会, 1961年.
[6] 渡辺精一郎「石狩平野における冬季客麦法の試み」『農業試験場月報』第7巻第1号, pp. 5-17, 1895年.
[7] Robert H. Clark, “On the Visitors-to-Yield Ratio in Northern Rye-Like Grains,” Journal of Hokkaido Colonial Studies, Vol. 3, No. 2, pp. 88-104, 1910.
[8] 農商務省北方作物試験場『來麦栽培要覧』第2版, 1943年.
[9] 三好千鶴「季節感の再配線としての來麦」『民俗と農』第28巻第4号, pp. 133-149, 2002年.
[10] 山岸隆一『共同体と穀物監視』札幌地方史料出版, 1999年.
関連項目[編集]
脚注
- ^ 來麦研究会編『北方穀物民俗誌』私家版, 1938年.
- ^ 松浦一彦『北海道農政と儀礼作物』農事文化社, 1974年.
- ^ 佐伯春江「來麦の成立と来訪数」『開拓史研究』第12巻第3号, pp. 41-68, 1989年.
- ^ 北海道庁農務課『明治後期農事報告書集成』第4巻, pp. 212-219, 1909年.
- ^ 青柳ミチ『方言農書と字形の変遷』東北出版会, 1961年.
- ^ 渡辺精一郎「石狩平野における冬季客麦法の試み」『農業試験場月報』第7巻第1号, pp. 5-17, 1895年.
- ^ Robert H. Clark, “On the Visitors-to-Yield Ratio in Northern Rye-Like Grains,” Journal of Hokkaido Colonial Studies, Vol. 3, No. 2, pp. 88-104, 1910.
- ^ 農商務省北方作物試験場『來麦栽培要覧』第2版, 1943年.
- ^ 三好千鶴「季節感の再配線としての來麦」『民俗と農』第28巻第4号, pp. 133-149, 2002年.
- ^ 山岸隆一『共同体と穀物監視』札幌地方史料出版, 1999年.
外部リンク
- 北海道民俗農法アーカイブ
- 來麦保存会
- 北方作物試験資料室
- 札幌食文化史研究センター
- 石狩平野農事史データベース