光聖ちま
| 名称 | 光聖ちま |
|---|---|
| 読み | こうせいちま |
| 分類 | 整光技法・都市民俗・準宗教儀礼 |
| 成立時期 | 1958年ごろ - 1970年代前半 |
| 成立地 | 東京都千代田区・神田周辺 |
| 主唱者 | 光聖会初代会頭・渡会光延 |
| 用途 | 祭礼照明、舞台補助、厄除け |
| 関連組織 | 光聖会、都立都市光環研究室 |
| 派生形 | 昼ちま、返しちま、港区式三灯法 |
光聖ちま(こうせいちま)は、を中心に成立したとされる、微細な光源の配列と祈祷動作を組み合わせた民俗的な整光技法である。末期の都市再開発とともに再評価され、現在では装飾・儀礼・舞台演出の三領域で知られている[1]。
概要[編集]
光聖ちまは、を張った小型灯具を一定の角度で並べ、短い唱句とともに点滅させることで空間の「濁り」を整えるとされる技法である。名称の「ちま」は、旧一帯で使われた職人語の「ちまつり」(細かく結び留める意)に由来するとされる[2]。
本来は商店街の防犯灯の明滅調整として始まったとされるが、やがての縁日やの高層ビル屋上演出に転用され、儀礼性と実用性が混線していった。この混線が逆に信用を生み、1974年にはの地域文化記録にも「照明民俗」として仮登録されたという[3]。
成立史[編集]
神田試験区画と初期の整光[編集]
起源は、神田松永町の金物問屋で試験的に導入された、電球の消費電力を抑えるための「間引き点灯」に求められる。これを見た渡会光延は、明滅の間隔に一定の呼吸法を合わせることで、通りの騒音が下がったように感じられると記録し、独自の整光法として整理した。なお、当時の記録には「商店主の87%が午後7時台の客足増を実感」とあるが、調査票の回収率は不明である[4]。
光聖会の結成[編集]
、渡会はの貸会議室で有志14名とともに光聖会を結成した。会員には提灯店主、照明技師、元職員、なぜか能楽の笛方まで含まれており、会合では毎回、灯具の並び順を巡って長時間の議論が行われたという。特に「三灯で始めるべきか、五灯で鎮めるべきか」をめぐる争いは3か月続き、最終的に会長裁定で「場の空気が静まった方が正しい」とされた[5]。
都市文化への接続[編集]
40年代に入ると、光聖ちまは商店街振興策として注目され、の地下街、の倉庫街、の演芸場前などでも試行された。とくに1968年の「首都圏夜灯会議」では、の担当者が「防災と美観を同時に満たす可能性がある」と発言したとされ、その後、書類上は照明改善事業として扱われつつ、現場では半ば口伝の儀礼として残った。ここで公的制度と民間信仰が接続したことが、光聖ちまの性格を決定づけたとみられる[6]。
作法[編集]
光聖ちまの基本作法は、灯具をからへ三段で並べ、最初に「ひかり、さぐり、ちま」と唱える点にある。次に右手で灯具の影を一度だけ払う所作を行い、最後に一歩後退して全体を見る。これにより、場の「偏光」が整うと説明されるが、実際には単に見え方が変わるだけであるともいう。
派生作法として、雨天時に用いる「返しちま」や、駅前広場向けに灯具を円環状に組む「昼ちま」がある。特に「昼ちま」は環境局の夜間景観試験で偶然採用されたのち、日中でも用いられるようになり、結果として「明るいのに暗く感じる」という独特の演出が生じた。これが若年層に受け、1970年代後半には学園祭の定番となった[7]。
社会的影響[編集]
光聖ちまは、単なる照明技法にとどまらず、地域コミュニティの合意形成手段として機能したとされる。商店会では、売上不振の責任を灯具配置のせいにできるため、対立が穏当に処理されたという指摘がある。また内の一部中学校では、文化祭の出し物として採用され、最終的には「光の礼法」という選択科目にまで発展した。
一方で、の「二十一灯事件」では、過度に厳格な派閥が駅前ロータリーを灯具で塞ぎ、通行人が迂回を強いられたため、から指導を受けた。これを契機に、光聖会は灯具数を最大17個までとする内規を制定したが、なぜ17なのかについては今も説明が揺れている。
批判と論争[編集]
光聖ちまには、初期から「照明に祈りを混ぜる必然がない」とする批判があった。とくに工学部の匿名研究者が1972年に発表したとされる小論では、効果の大半は視覚順応と集団暗示によるものだと結論づけられている。ただし、この論文は学内誌の巻号が不自然で、後年の再調査でも実在が確認されていない[8]。
また、1991年にはのホテルで開催された展示会において、LED化した光聖ちまが「伝統の断絶ではないか」と議論を呼んだ。しかし主催者は「伝統とは形式の保存ではなく、点滅の間隔を守ることである」と反論し、逆に来場者数を2日間で合計4,860人に伸ばしたという。ここで批判が宣伝に変わる構図は、光聖ちまの一つの特徴である。
変種と現代的展開[編集]
港区式三灯法[編集]
1980年代後半に生まれた港区式三灯法は、ガラス張りの高層ロビーで反射光を抑えるための簡略化版である。通常版より所要時間が短く、1回あたり約90秒で終わるため、外資系企業の受付やタワーマンションのエントランスに向いた。導入施設のうち、約6割が「来訪者の足音が小さくなる」と回答したとされるが、調査主体は光聖会の広報部であった。
海外への輸出[編集]
後半には、在外邦人コミュニティを介して、、へ広がった。現地では宗教儀礼というより、イベント照明の一種として理解され、特にアジア系飲食店の開店式で重宝された。なお、ロンドンで行われた一部の実演では、主催者が唱句の発音を誤り「ひかり、さぐり、チリ」となったが、むしろその方が人気を得たと伝えられる。
脚注[編集]
[1] 渡会光延『都市整光民俗の研究』光聖会出版部, 1976年.
[2] 斎藤久美子「神田職人語における『ちま』の用法」『東京民俗年報』第12号, pp. 41-58.
[3] 東京都生活文化局編『昭和四十九年度 地域文化仮登録一覧』東京都公文堂, 1975年.
[4] 中村義隆「神田松永町における夜間照明の実験記録」『照明と街路』Vol. 8, No. 3, pp. 12-19.
[5] 光聖会史編纂室『光聖会二十年誌』光聖会, 1982年.
[6] 建設省都市景観課『首都圏夜灯会議 議事概要』内部資料, 1969年.
[7] 佐伯理恵『昼ちまと学園祭文化』みすず灯社, 1994年.
[8] M. Thornton, "Collective Illumination and Ritual Compliance in Postwar Tokyo", Journal of Urban Folklore, Vol. 4, No. 2, pp. 201-219.
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡会光延『都市整光民俗の研究』光聖会出版部, 1976年.
- ^ 斎藤久美子「神田職人語における『ちま』の用法」『東京民俗年報』第12号, pp. 41-58.
- ^ 東京都生活文化局編『昭和四十九年度 地域文化仮登録一覧』東京都公文堂, 1975年.
- ^ 中村義隆「神田松永町における夜間照明の実験記録」『照明と街路』Vol. 8, No. 3, pp. 12-19.
- ^ 光聖会史編纂室『光聖会二十年誌』光聖会, 1982年.
- ^ 建設省都市景観課『首都圏夜灯会議 議事概要』内部資料, 1969年.
- ^ 佐伯理恵『昼ちまと学園祭文化』みすず灯社, 1994年.
- ^ M. Thornton, "Collective Illumination and Ritual Compliance in Postwar Tokyo", Journal of Urban Folklore, Vol. 4, No. 2, pp. 201-219.
- ^ A. K. Havel, "Ritualized Light Arrays in Japanese Neighborhood Planning", Pacific Urban Review, Vol. 11, No. 1, pp. 77-103.
- ^ 小野寺真一『光と町内会のあいだ』青潮社, 2001年.
- ^ 田島玲子「返しちまの儀礼構造」『民俗と照明』第7巻第1号, pp. 5-22.
外部リンク
- 光聖会公式記録室
- 東京都地域文化アーカイブ
- 神田照明民俗研究センター
- 夜灯学会デジタル年報
- 都市整光資料館