入江海斗
| 氏名 | 入江 海斗 |
|---|---|
| ふりがな | いりえ かいと |
| 生年月日 | 6月12日 |
| 出生地 | |
| 没年月日 | 11月3日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 社会記録研究者(フィールド・アーカイビスト) |
| 活動期間 | 1922年 - 1972年 |
| 主な業績 | 「二重帳票式聞き取り」確立/災害記録の標準化 |
| 受賞歴 | (1958年)、特別賞(1966年) |
入江 海斗(いりえ かいと、 - )は、の社会記録研究者。細密な現地聞き取り法として広く知られる[1]。
概要[編集]
入江海斗は、日本の社会記録研究者として知られる人物である。彼は「口述は嘘をつくが、紙は嘘をつきにくい」という信条のもと、聞き取りの手順を工学的に再設計したとされる。
特に彼が提唱した「二重帳票式聞き取り」は、同じ出来事を〈当事者の言葉〉と〈記録者の観察〉で二枚の帳票に分けて処理する方法であり、のちにやの編集現場へ波及したとされる[2]。一方で、帳票の設計があまりに几帳面であるとして、研究者の間に「人を測る道具になりすぎた」との批判も生まれた[3]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
入江はの造船下請けを営む家に生まれた。父は「船は寸法で語れるが、人は沈黙で語る」と言い、海斗は早くから港の朝市で聞き込みを手伝ったとされる。
、家業の帳面に混ざっていた海辺の古い日誌から、彼は「同じ潮の匂いでも、語り手で誤差が出る」ことに気づいたと伝えられる[4]。のちに海斗は、記録の精度を高めるために、当事者の発話を「温度」「距離」「視線の向き」という3要素へ分解する癖を身につけたとされる。
青年期[編集]
、海斗はへ進学し、図書係として古文書の虫食い部分を「記録の空白」と名付けて分類した。彼のノートは「空白率」を1ページごとに算出しており、当時の先生からは「生徒に統計を教えるには早すぎる」と苦笑されたという[5]。
、彼は陸軍の通信講習を傍聴し、暗号化された伝達が誤差を減らす仕組みに興味を抱いた。ここから「口述の伝達も、符号化に近づければ安定する」という発想へつながったとされる[6]。
活動期[編集]
、海斗はの付属の臨時記録班に採用される。所属初年度の調査では、聞き取りを終えたのちに必ず同一質問を「48分後」に再実施する運用が採られ、彼はその短時間の揺らぎを「記憶の呼吸」と呼んだとされる[7]。
、流域の工場労働者を対象にした聞き取りプロジェクトで、彼は「二重帳票式聞き取り」を試験導入した。帳票Aには当事者の発話を、帳票Bには記録者の観察(服の汚れ、靴の摩耗、話す速度)を、各項目ごとに0.5段階の記号で記入したとされる。
この方法は、災害時の記録整理にも応用された。特にの関連資料では、同一証言が最大で「7回の再編集」に回されても整合性が崩れないと報告されたが、当時の関係者の間では「帳票が正しいのか、人が間違えるのか分からなくなる」との声も挙がった[8]。
晩年と死去[編集]
、海斗は現地聞き取りを若手へ引き継ぐため、で「帳票の書式規格」を講義した。彼は席上で「書式の罫線は、心の限界を先に決めてしまう」と述べたとされる[9]。
晩年は健康を崩しつつも、まで災害記録の校閲を続けた。最期は11月3日、で療養中に死去したとされる。死去時の年齢は満78歳とされるが、遺族記録では79歳と記されており、数字の揺れもまた彼の方法論の対象になったと伝えられる[10]。
人物[編集]
入江海斗の性格は几帳面であると同時に、妙に人間臭い部分もあったと記録されている。彼は調査現場で、必ず「最初の質問を、相手の声の高さと同じ高さで投げる」ことにこだわったとされる。
逸話として、ある漁師に聞き取りを行った際、海斗が帳票Bの観察欄に「塩の粒が左手首の外側に多い」と書いたところ、漁師は笑って「それは潮のせいじゃなくて、君の筆圧のせいだ」と返したという[11]。
また彼は、謝礼を渡す時だけ筆記具を変えるという習慣があった。若手が理由を尋ねると「謝礼の瞬間に手が勝手に速くなる。速さは記録に漏れるからだ」と答えたとされる。こうした振る舞いは、理詰めでありながら、同時に記録する側の癖まで含めて観察しようとする姿勢として評価されている。
業績・作品[編集]
入江は研究書・書式集の形で複数の業績を残した。代表作は『二重帳票式聞き取りの実務』であり、彼の死後になって版を重ねたとされる。この書では、聞き取りの質問順序を「導入→確認→逆照合→沈黙の許可」の4段階に分け、各段階の所要時間の目安を分単位で示したとされる[12]。
次いで『災害記録の罫線学』があり、ここではやだけでなく、救援車両の到着までの「歩幅の平均」「待機列の曲率」まで推定して記録すると述べられている。さらに、架空の付録として「夜間聞き取り用・赤外のない照明表」が掲載されていたと伝えられ、読者の間では「本気か冗談か分からないのが海斗らしい」と評される[13]。
加えて、彼は「標準罫線体系」を作るため、帳票の罫線間隔を0.8ミリ刻みに設計したとされる。研究者の一部は、その細かさが行政の採用に直結したと見ているが、別の研究者は「罫線が先行して、現場の声が後から合わせる」危険があったと指摘している[14]。
後世の評価[編集]
入江の評価は概ね高いものの、功罪が分けて語られることが多い。肯定的な見解では、彼の方法が記録の再利用を促し、災害対応の学習速度を上げたとされる。
一方で、批判側は二重帳票によって「当事者の言葉が観察指標の一部として扱われる」ようになり、結果として語り手が自己修正するようになったのではないかと疑っている。実際、ある自治体の協力者は「調査が来ると、町内会で“こう言うと正確になる”と練習が始まった」と証言したと報告されている[15]。
それでも現在では、入江の聞き取り運用が教育資料として残り、現場の記録者には「数字より先に、相手の沈黙を読め」という教えとして受け継がれているとされる。
系譜・家族[編集]
入江は出身の血筋として知られ、家族構成は妻と二人の子がいたとされる。妻の名は家出身の「妙子」と伝えられ、海斗の帳票管理を担ったとされる。
長男は「入江 連(れん)」で、記録印刷の技師になったとされる。次男は「入江 沙織」で、のちにの整理補助員として働いたと記録されている。家族の中でも沙織は、父の書式を学校へ持ち込み「作文の誤差」を測ろうとしたことで教師から注意を受けたという微笑ましい逸話が残っている[16]。
このように家族の役割は、研究の外側にも及んでいたとされる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 入江 海斗『二重帳票式聞き取りの実務』臨床社会調査研究所出版部, 1951年.
- ^ 佐伯 由紀夫「帳票規格が現場に与えた影響—入江海斗の運用分析」『社会記録学雑誌』第12巻第3号, 1960年, pp. 41-78.
- ^ Margaret A. Thornton「On the Engineering of Testimony」『Journal of Field Documentation』Vol. 6 No. 2, 1963, pp. 112-139.
- ^ 高村 勝久『災害記録の罫線学』東京学術図書, 1957年.
- ^ 田中 里砂「沈黙の許可と再質問の間隔—48分の根拠」『災害史研究年報』第8巻第1号, 1962年, pp. 9-33.
- ^ 国立資料館 編『標準罫線体系とその運用』国立資料館叢書, 1970年.
- ^ Kaito Irie「Procedure Notes for Dual-Entry Interviews」『Proceedings of the Archive Mechanics Conference』Vol. 3, 1966, pp. 5-27.
- ^ 安藤 光雄「海斗式観察欄における誤差の伝播」『記録科学レビュー』第4巻第4号, 1971年, pp. 201-226.
- ^ ピーター・ロウ『証言の符号化—罫線が先行する社会』青空文庫, 1969年.(邦訳版の表記が原著と一部異なる)
- ^ 入江 妙子『帳票と家のあいだ』港湾印刷, 1981年.
外部リンク
- 入江海斗記録アーカイブ
- 二重帳票式聞き取り 解説ポータル
- 災害罫線学 研究会
- 国立資料館 旧聞き取り書式庫
- フィールド・アーカイビスト会議