写真のマルイ
| 名称 | 写真のマルイ |
|---|---|
| 種類 | 写真館(撮影所兼現像室) |
| 所在地 | 山形県新庄市(架空地区:北新庄二丁目光明通り) |
| 設立 | (創業) |
| 高さ | 約13.2メートル |
| 構造 | 煉瓦造一部木造・寄棟屋根(後年改装) |
| 設計者 | 堀川写真建築設計事務所(架空)・堀川貞次郎 |
写真のマルイ(しゃしんのまるい、英: Shashin no Marui)は、にある写真館(撮影所)である[1]。キャッチコピーは「シャッターに真心こめて」とされ、地域の記念写真文化を支えたと伝えられている[1]。
概要[編集]
写真のマルイは、山形県新庄市に所在したとされる写真館である。現在では建物の大半は現存せず、跡地周辺は「光明通り商店会」として再編されているが、同店の撮影技法や接客用語は地域の民間言説として残存している[1]。
同館が掲げていた「シャッターに真心こめて」というキャッチコピーは、撮影が単なる記録ではなく、家族の記憶を“仕上げる作業”であるという価値観を象徴するものとして語られている。とくに、撮影当日の待合室に掲示された「沈黙は2分まで、笑いは3回まで」のような掲示は、当時の評判として記録されている[2]。
名称[編集]
「写真のマルイ」は、創業者が屋号として用いた「マルイ」を写真技術の“丸め込み”になぞらえた命名であると説明されることが多い。ここでいう丸め込みとは、レンズの収差を“丁寧に言い換えて”印画紙に収める技術的比喩であったとされる[3]。
また、店名の由来が「丸(円)=光の形、イ(愛)=仕上げの精神」に結び付けて語られた時期もある。もっとも、この語呂合わせは後年に増えた可能性が指摘されており、昭和初期の広告原本が現存しないため、当時の公式説明は不明とされる[4]。
沿革/歴史[編集]
写真のマルイの創業はに遡るとされ、当初は「北新庄二丁目光明通り」に間借りの撮影ブースを構えた小規模事業として始まったと伝えられている[5]。開業初年度の売上は「現金31円42銭、掛売り9円15銭」であったと記した帳簿の写しが、のちに商店会史へ転記されたとされる[6]。ただし写しの出所には異説があり、検証は未了である。
には撮影室の増築が行われ、屋根の高さが当初から約1.8メートル引き上げられたとされる。これは上方からの自然光を調整するためであると説明され、照射角を「南寄り23度」とする掲示が存在したと記録されている[7]。一方で、実際の建築図面は残っていないため、技術説明が後から整えられた可能性もある。
戦時期には現像薬品の調達が制限され、写真のマルイでは代替処方の研究が進められたとされる。地域の回想では、アルカリ成分の比率を「理屈は耳で覚える、分量は目盛りで守る」として管理したという逸話が語られている[8]。なお、同館は地域学校の卒業アルバム撮影を請け負うようになり、毎年“期日厳守の遅れない段取り”が評価されたとされる[9]。
戦後は増改築が続き、には「真心仕上げ室」が新設されたとされる。仕上げ室では、乾燥時間を「最短47分、標準63分」と定め、仕上がりの安定化を図ったとする説明が残っている[10]。もっとも、乾燥時間は天候で変動するため、数字は宣伝用の目安だった可能性が指摘されている。
施設[編集]
写真のマルイの建物は、正面が煉瓦造で側面が木造に近い混構造として知られている。煉瓦部には気流を調整するための小窓が連続して設けられ、撮影光が“暴れない”ようにする意匠であったと説明される[11]。
撮影室は二部屋構成で、第一撮影室は「大人用」、第二撮影室は「小さな背の人用」と表現されていたとされる。背景紙は巻き上げ式で、交換頻度を月に「最大12回」とする運用があったという[12]。この運用は広告コピーにも影響し、「毎月12回、背景と気分を入れ替える」として語られたとされるが、資料の整合性は完全ではない。
現像室は別棟に近い設計で、換気は天井ファンと床下通気の二段階で行われたとされる。現像薬品の温度管理は「20℃で安定、室温の揺れは±1.3℃まで」と決められていたという言い伝えがある[13]。ただし、一般的な現像工程の温度許容には幅があるため、数字は“理想値”として伝わった可能性がある。
また、待合室には利用者のための掲示板があり、撮影前の所作を促す文章が貼られていたとされる。そこでは「沈黙は2分まで、握手は1回、視線はレンズの奥」といった短文が並び、スタッフの教育にも用いられたと伝えられている[2]。
交通アクセス[編集]
交通アクセスは、当時の主要動線である中心部から徒歩圏として案内されていたとされる。現在の地理と整合しない可能性はあるが、当時の案内図では、最寄りの“停車場”を「南光停車場(距離約410メートル)」と記したとされる[14]。
最寄りの導線は、光明通り商店会側からの小路を通るとされ、雨天時にはアーケードの一部を通行できたとされる。利用者には「傘は入口で畳む、ぬれは床の溝へ」と注意が出されていたという[15]。
自転車利用者向けには、写真館前の短い駐輪スペースに“鍵を掛けるより、忘れない”という注意札があったと記録されている。もっとも、当該スペースの位置や広さは資料が乏しく、推定に基づく説明が多いとされる。
文化財[編集]
写真のマルイの建物跡は、民間保存の動きがあったとされる。新庄市の文化行政担当課がまとめた「景観再生候補」のリストに、煉瓦外壁の一部が“保存価値あり”として記載されたとされるが、最終指定に至らなかったと説明される[16]。
一方で、写真のマルイに由来する看板部材や待合室掲示の一部は、地域の資料館へ移管されたとされる。これらは「光明通り写真遺物(仮称)」として扱われ、地域学習会での展示に用いられているとされる[17]。ただし、移管の時期には複数の説があり、に搬入されたとする説と、の回収事業で一括移管されたとする説が併存している。
建築的には、煉瓦部の小窓の連続配置が“光の制御装置”として機能した可能性が指摘されている。もっとも、当時の技術的裏付け資料が限定的であるため、文化財としての位置付けは「技術史的観点からの参考」止まりとされている[18]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 山岡綾人『新庄の記念写真と街角の広告』山形文化叢書, 2011.
- ^ 井戸端昌司「シャッターに真心こめて—写真館経営の言語戦略」『地方史通信』第12巻第3号, pp. 41-58, 2014.
- ^ H. Caldwell『Small-Town Photography Practices』Narrowhouse Press, 2009.
- ^ 佐々木鏡子『煉瓦外壁の光学的意匠:昭和初期の仮説集』東北建築文庫, 2016.
- ^ 堀川貞次郎『撮影光の整え方(手控え)』堀川写真建築設計事務所, 1938.
- ^ 新庄市教育委員会『光明通り写真遺物目録(試案)』新庄市文化課, 1992.
- ^ 田宮由紀子「乾燥時間の数値化と消費者心理」『写真史研究』Vol. 7, No. 1, pp. 77-96, 2020.
- ^ 丸井家所蔵『北新庄の帳簿写し(複製)』非公開史料, 【要出典】, 1955.
- ^ K. van Dalen『Archives of Daily Use』Urban Folio, 2012.
- ^ 【図説】『山形の小建築と生活技術』山形日日出版社, 1987.
外部リンク
- 光明通り商店会 公式アーカイブ
- 新庄市 写真遺物データベース
- 山形煉瓦建築研究会
- 地方史通信 電子バックナンバー
- 堀川写真建築設計事務所(閉鎖ページ)