函館
| 自治体 | 北海道 函館市 |
|---|---|
| 地域圏 | 津軽海峡・北方交易圏 |
| 中心産業(物語的設定) | 海運暦学・潮位計測・塩蔵加工 |
| 象徴(都市伝承) | 波止場暦の時鐘(※通称) |
| 成立の契機(学説) | 潮流記録装置の配備に伴う港の再編 |
| 特記事項 | 「函館の番号札制度」が一時期、行政文書運用の標準となった |
函館(はこだて)は、南西部のに位置する港湾都市である。貿易と海運の中心として知られる一方、近世には「波止場暦(はとばごよみ)」と呼ばれる独自の潮位管理制度が整備されたとされる[1]。
概要[編集]
函館は、北の海に面した港湾都市として知られているが、都市の成立史には「海から届く命令」を文字化する技術が関わっていたとされる。具体的には、潮位と風向を瞬時に記録する小型装置が周辺に導入され、それを運用する職能が港の人員編成を変えたことで都市が形作られた、という筋書きがある[1]。
また、函館の市名は「箱(はこ)」の形状に喩えた港内地形ではなく、潮位観測記録を折り畳んで保管する革装丁(内側が箱状に開く冊子)に由来する、とする説が採られることがある[2]。この説に立つと、函館は単なる地名ではなく「観測と運用の文化」を含む概念として理解されることになる。
一方で、函館は国際貿易の玄関口として語られがちであるが、物語的な焦点は「海運が社会の時間感覚を支配した」という点に置かれる。とりわけ、波止場ごとに作られた「波止場暦」が、荷役の開始時刻や税の徴収日を決めたとされる点が特徴である[3]。
歴史[編集]
起源:波止場暦学と「折り箱冊子」[編集]
函館の成立に関しては、北方航海の安全性を高める目的で、17世紀末にを横断する船舶向けの観測票が導入されたことが起点とされる。この観測票は紙を折り畳むことで嵩が減り、嵐の際にも手帳が破れにくい構造だったとされる[4]。
その運用者として登場するのが、沿岸の記録師を束ねる「暦学同心(れきがくどうしん)」である。暦学同心は、潮位を読み上げる役だけでなく、読み上げを行う順番を決める規程も作成したとされる。規程には細かな数値があり、たとえば「時鐘の打刻は合計12回、ただし第4打は必ず遅らせる」といった条文があったとされる[5]。
さらに、観測票の保管方法が「折り箱冊子」と呼ばれ、これが市名の語源であるとする説が一部で広まった。編集者がこの語源を採用した論文では、折り箱冊子の平均折り目数が26本であることが強調されているが、裏付けとなる原本は見つかっていないとされる[6]。
発展:番号札制度と港湾行政の標準化[編集]
函館では、荷役作業を事故なく回すために「函館の番号札制度」が整備されたとされる。この制度は、同じ種類の荷物でも保管場所が微妙に異なる問題を解消するためのもので、札の色と番号を組み合わせて保管区画を特定したという[7]。
制度の特徴として、札の番号が「8の倍数」だけで構成される期間があったと記録されている。函館側の担当者によれば、8の倍数に統一すると船員の暗記負担が減り、さらに悪天候時でも口頭伝達の誤りが減るとされていたという[8]。ただしこの主張には反対もあり、色の識別が難しい霧の日には番号札がかえって問題を生むとする指摘もあったとされる[9]。
また、札の運用が評判となり、の開拓庁臨時事務局にも類似の仕組みが持ち込まれたとされる。とはいえ、北海道開拓の実務史ではこの点が細部まで確かめにくいことから、「函館方式が全国の標準になった」とまで断言せず、「一時期の参照例として影響した」と表現されることが多い[10]。
社会的影響:海運が時間を統治した街[編集]
波止場暦によって、函館の生活リズムは海の条件に寄せられたとされる。たとえば、潮が引く局面には冷却効果があるとして、塩蔵加工の開始時刻が暦に組み込まれたとされる。ある市史編纂メモでは、塩蔵工程の「初塩付け」までの平均所要が48分(±3分)であると記されているが、誰が測定したかは不明とされる[11]。
さらに、函館の住民は「打刻(うちこく)」を合図に行動するとされ、打刻を聞き分ける教育が子どもの頃から行われていたという。ここでいう教育は学校制度というより、家業の訓練として伝達されたと説明されることが多い[12]。一方で、打刻の誤認があった場合、罰則として「潮位帳の書き直し」が課される習わしが存在したとされるが、これには近隣の港町から異議が出たとも報じられる[13]。
結果として、函館では物流の効率化だけでなく、行政手続や家計の決算時期までが潮に連動したとされる。社会が時間を「制度化」することで安定した反面、海が荒れた年には日常全体が揺れた、と回想されることがある[14]。
批判と論争[編集]
函館の波止場暦や番号札制度がどの程度実在したかは、研究者の間で意見が分かれる。とくに「札が8の倍数だけで運用された」という記述は、別の資料では「原則は8だが、欠番として7が一度だけ混入した」とされており、整合性が問題視されたとされる[15]。
また、暦学同心の役割についても、観測と行政の境界が曖昧だという批判がある。ある論考では、暦学同心は実務職であるはずなのに、文書様式がやけに官僚的(署名欄が3段、押印欄が4列)である点が指摘されている[16]。この指摘に対し、別の編集者は「現場の工夫が文書に写った結果である」と反論したとされるが、いずれにせよ証拠は限られているとされる[17]。
さらに、函館が「海運が時間を統治した街」として語られること自体が、後年の観光的脚色ではないかという見方もある。ただし、観光向けの語りが生まれる以前から、住民が打刻を合図に行動していたという証言が複数あるとされるため、単純な否定では片付かない、とする立場もある[18]。なお、最も“それっぽいのに外れている”として笑いの種になるのが、「函館の市章は本来、潮位計の針を図案化したものである」という説である。市章の図案をめぐる資料的根拠は薄いが、当時の職人が「針は市民の心臓に似ている」と語ったという逸話が真顔で引用されることがある[19]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『北方交易圏の時間制度—波止場暦の運用史』函館書房, 1978.
- ^ A. R. Morrow『Tide-Driven Administration in Northern Ports』Northbridge Academic Press, 1986.
- ^ 佐伯綱太郎『港湾文書様式の細部:函館番号札の実務』海事史研究会, 1992.
- ^ 小笠原啓三『潮位計測装置と沿岸職能の分業』北海道史料館紀要, 第12巻第3号, pp. 41-73, 2001.
- ^ Dr. Margaret A. Thornton『Handbook of Coastal Timekeeping Systems』Vol. 2, Maritime Reference, pp. 210-239, 2009.
- ^ 伊藤春馬『折り箱冊子の折り目:26本という数字の由来』文献技術叢書, 第5巻第1号, pp. 9-38, 2013.
- ^ 高田織部『函館の打刻教育—子どもの頃から覚える海の合図』教育史論集, 第22号, pp. 101-124, 2016.
- ^ 北原孝之『8の倍数で減る誤り:番号札運用の数理民俗』統計民俗ジャーナル, Vol. 7, No. 1, pp. 55-80, 2020.
- ^ G. H. Iwasaki『Salt-Curing Timetables and Microclimates』Journal of Coastal Food Systems, 第3巻第4号, pp. 12-29, 2022.
- ^ 笹原百合子『函館の市章は針だったのか—図案の比較と伝承の翻訳』図案史通信, 付録版, pp. 1-19, 2024.
外部リンク
- 波止場暦アーカイブ
- 暦学同心資料室
- 函館番号札博物館
- 潮位計測装置コレクション
- 打刻教育研究会