小倉総合会館
| 名称 | 小倉総合会館 |
|---|---|
| 正式名称 | 小倉都市連絡総合会館群 |
| 別名 | 小倉会館・総会館 |
| 分類 | 複合公共施設制度 |
| 所在地 | 福岡県北九州市小倉北区一帯 |
| 成立 | 1948年ごろ |
| 主管 | 北九州臨港復興委員会 |
| 主要機能 | 集会、保管、通達、講演、代替避難 |
| 廃止 | 1987年ごろに制度上は終了 |
小倉総合会館(こくらそうごうかいかん)は、の旧一帯で発達した、複合集会施設と多目的倉庫機能を兼ねた会館制度である。戦後の復興期に、港湾事務・町内会・演芸・防災備蓄を一体化する目的で整備されたとされる[1]。
概要[編集]
小倉総合会館は、市街地に点在した中小規模の会館、倉庫、講堂を「一つの制度」として束ねた行政的概念である。実体としては単独建築物を指す場合もあるが、地域ではむしろ「同じ札を掲げる建物群」を意味していたとされる。
この制度は、23年の港湾整理と商店街再編の際、会議室不足と物資保管場所不足を同時に解消するために発案されたと伝えられる。なお、初期の文書では「総合会館」ではなく「総会館」と誤記されており、この誤記が後年まで残ったことが制度名の混乱を招いた[2]。
成立の経緯[編集]
戦後復興と仮設会館の常態化[編集]
、周辺では、倉庫不足のための仮設建物に町内会、労働組合、婦人会、魚市場の荷札室が同居する状況が続いていた。これを見たの事務官・は、建物を作るのではなく「用途の重なりを認可する」方が早いと提案したとされる。
この発想は、当時の内で「建築行政の簡略化」として歓迎されたが、一方で消防当局からは「会議が多すぎる建物は避難経路を圧迫する」との指摘が出た。結果として、各会館には必ず二本以上の外階段を設けること、そして階段幅を会議室の椅子数で算定するという独自規格が導入された。
制度名の決定[編集]
名称の決定には、、の資材担当、周辺の自治会連合が関わったとされる。当初案には「共同会館」「港湾会館」「総合集会所」などがあったが、最終的に「総合会館」が選ばれた理由は、当時の書記が提出書類の余白に「総合」と書いたところ、上役がそのまま決裁印を押したためであるという逸話が残る。
ただし、別の資料では、会館の正式名は最初から「小倉総合会館」であり、むしろ「総会館」は商店街側の俗称だったとする説もある。いずれにせよ、この二重表記はの行政文書に大量に現れ、同一建物への荷物が誤って別会館へ搬入される事故が年平均17件発生したとされる。
施設構成[編集]
小倉総合会館は、一般の公民館とは異なり、建物ごとに用途が固定されていなかった。たとえば、1階が魚介の一時検品場、2階が将棋大会室、3階が防災備蓄棚という構成が標準で、月2回だけ逆転する「転換日」が設けられていた。
また、最も特徴的なのは「移動式掲示板」である。これは前の告知を、会議の進行に合わせて会館内へ滑車で引き込む装置で、利用者の間では「お知らせが歩いてくる」と呼ばれた。設置費は1基あたり27年時点で4万8,000円であったが、掲示板の紐がたびたび天井の梁に絡まり、実際の運用には専任の掲示技師が必要であった。
会館群には、ほかに「湯沸かし室付き倉庫」「演台併設荷さばき場」「盆踊り時のみ開く側廊下」などの珍しい設備があった。これらは後年、の小規模施設研究班によって「用途混成型公共建築の先駆」と紹介されたが、研究報告書の末尾には「再現不可」とだけ記されている[3]。
運用と社会的役割[編集]
町内会と港湾業務の共存[編集]
小倉総合会館の最大の役割は、異なる社会層の同居にあった。昼は港湾関係者の帳票整理、夕方は町内会総会、夜は演芸会という順で部屋が使われ、時には労働者の賃金袋仕分けが婦人会の裁縫教室と同じ机で行われた。
この混在はしばしば混乱を生んだが、逆に地域の合意形成を早めたともいわれる。例えば、1954年の漁業補助金をめぐる紛争では、討議の途中で翌日の餅つき大会の段取りが始まり、争点が「誰が臼を運ぶか」に置き換わったため、結果として補助金案が全会一致で可決されたという。
防災施設としての評価[編集]
の大雨の際、小倉総合会館の一角に備蓄されていた米袋、提灯、折り畳み机、拡声器が救援物資として即日転用されたことから、会館は「災害初動の最小単位」として注目された。以後、では同種施設に対し、1世帯あたり2.3日分の簡易食料を保管することが推奨されたとされる。
ただし、備蓄の中に演芸用の紙吹雪が大量に含まれていたため、雨天時に配布すると道路が妙に華やかになる問題が起きた。これが後の「救援物資の色彩規定」策定につながったというが、当時の担当者は取材に対し「そんな規定は知らない」と答えたとも伝えられる。
主な会館群[編集]
小倉総合会館は単独施設ではなく、用途別の会館群として語られることが多い。代表的なものとして、会館、会館、会館、会館、会館などがあったとされる。
これらはいずれも同一の規格書に従って建てられたが、現場大工の裁量が大きく、柱の本数や窓の高さに微妙な差が生じた。そのため、隣接する二棟の間で「同じ会館なのに階段が3段多い」「講堂の天井だけ妙に低い」といった個体差が生まれ、地域住民はそれぞれに愛称を付けて区別していた。
特に会館は魚市場との近接性から、盆暮れになると建物全体が干物の匂いを帯びることで知られた。また会館は、港の風で看板が年に4回ほど裏返るため、表記が半分だけ読めないまま改装され続けたという。こうした「半完成のまま成熟する」様式が、小倉総合会館の美学とされた。
批判と論争[編集]
制度の拡大に伴い、小倉総合会館には「何でも入れすぎる」「会議と倉庫を一緒にすると機密が米袋に紛れる」といった批判が出た。特にの会館点検では、青年団の演目台本と防災ラジオの取扱説明書が同じ封筒に綴じられていたことが発覚し、として後世の研究者がしばしば引用している。
また、会館の運営委員が実質的に地元有力者の持ち回りであったため、施設利用の優先順位をめぐる不満もあった。もっとも、優先順位は「火急の案件」「法要」「子ども会」「新婚旅行報告会」の順で明文化されていたため、住民の多くはむしろ分かりやすかったと回想している。
には、会館の一部が高層化される計画が持ち上がったが、建築審査の席で「そもそも総合会館とは平べったいものだ」と反対され、計画は立ち消えになった。これにより、小倉総合会館は「高さより横幅で発展した制度」として固定化された。
衰退と遺産[編集]
に入ると、、、民間の貸会議室が普及し、小倉総合会館の制度的必要性は次第に薄れた。1987年の再編で多くの会館は統合され、制度上は終了したとされるが、看板だけを残して集会機能を継続した建物も少なくなかった。
一方で、この制度は後の「災害時多目的拠点」や「地域複合コミュニティ施設」の先例として評価されている。特にの都市計画研究では、用途の曖昧さがかえって地域の自律性を高めたと分析され、小倉総合会館を「曖昧さの制度化」と呼んだ。
現在でも、古い町内では会館の跡地に建つマンションの1階共有室を「会館の名残」と呼ぶことがあり、年末になると自治会長がそこに折り畳み椅子を十二脚だけ並べる習慣が残っている。これを小倉総合会館の残響と見るか、単なる地域性と見るかで、住民の間では今も意見が分かれている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 久世義一『小倉会館群の形成と港湾復興』北九州都市史研究会, 1961.
- ^ 北九州市企画局『会館制度史資料集 第一輯』北九州市史料室, 1974.
- ^ Margaret A. Thornton, "Mixed-Use Civic Storage in Postwar Harbor Cities," Journal of Urban Anecdotes, Vol. 12, No. 3, 1982, pp. 41-66.
- ^ 渡辺精一郎『総合会館の思想―小倉における用途統合の試み』九州公共建築出版, 1979.
- ^ Theodore H. Lin, "Emergency Granaries and Assembly Halls: A Comparative Study," Pacific Municipal Review, Vol. 8, No. 1, 1971, pp. 9-28.
- ^ 北九州臨港復興委員会編『小倉総会館運用細則』委員会内部資料, 1949.
- ^ 佐伯志保『会議室の民俗学』海鳴社, 1988.
- ^ 吉岡玄『小倉の会館はなぜ二階建てなのか』港湾文化新書, 1992.
- ^ Harrison P. Webb, "The Staircase Code of Fukuoka Prefecture," Transactions of the Institute of Civic Architecture, Vol. 4, No. 2, 1958, pp. 103-119.
- ^ 小林さやか『紙吹雪と防災計画』九州生活文化叢書, 2001.
- ^ 山根健二『用途が増える建物の戦後史』建築と社会, 第17巻第4号, 1987, pp. 77-95.
外部リンク
- 北九州会館史アーカイブ
- 小倉都市復興資料館
- 港湾複合建築研究ネット
- 昭和公共施設年表データベース
- 会館制度口承記録保存会