創作における「織田信長」
| 名称 | 創作における織田信長 |
|---|---|
| 別名 | 信長像、信長変奏、敦盛再演様式 |
| 分類 | 創作技法・歴史人物再解釈 |
| 成立 | 寛政年間ごろ |
| 提唱者 | 谷崎宗圓、片桐月堂ら |
| 中心地 | 京都、堺、江戸 |
| 主要媒体 | 講談、草双紙、浄瑠璃、小説、映画、ゲーム |
| 特徴 | 暴君・革命家・異能者の三位一体化 |
| 関連人物 | 織田信長、森蘭丸、明智光秀、豊臣秀吉 |
創作における「織田信長」(そうさくにおけるおだのぶなが)は、後期に成立したとされる、の人物像を創作上で再利用する慣習、およびそれに付随する表現様式の総称である。とくにの戯作者やの浄瑠璃作者のあいだで体系化されたとされ、のちに期の小説、戦後の漫画、現代のゲームにまで影響を及ぼしたとされる[1]。
概要[編集]
創作におけるは、史実上の戦国大名そのものではなく、物語上で反復利用される「役割」の集合として理解されている。一般に、苛烈な改革者、無慈悲な暴君、あるいは時代を一歩先に読む異端者として描かれるが、古い版本を精査すると、同一人物でありながら作品ごとに身長、口調、刀の長さまで異なることが確認できる。
この現象は、の書肆が年間に編み出した「名将転写法」に起源をもつとされる。すなわち、人気のある歴史上の人物を一度「型」として定義し、必要に応じて悪役、英雄、師匠、怪異のいずれにも再配置する編集術である。のちにの読本市場で拡散し、以降は新聞連載や新派劇によって半ば独立したジャンルとみなされるようになった[2]。
成立史[編集]
寛政期の草双紙と「信長節」[編集]
最初期の記録としてしばしば挙げられるのが、4年にの版元・青柳屋善右衛門が出したとされる『織田上総守大振舞』である。この作品では、信長は毎章ごとに異なる衣装で現れ、ある場面では風の外套、別の場面では僧形で登場し、読者のあいだで「信長節」という語が流行したという。
なお、当時の貸本屋の帳簿には「ノブナガ、二冊返却遅れ」とだけ記された例があるが、これが人物名なのか作品名なのかは定かでない。研究者のは、これを「読者が信長を読むのではなく、信長に読まれている感覚の萌芽」と説明したが、同時代資料には裏づけがない[3]。
講談化と大衆化[編集]
期に入ると、講釈師のが「信長は早口で語るほど客が入る」と発見し、の寄席で『桶狭間速語り』を定番化した。宗圓の台本は一席あたり平均43分であったが、信長が登場するのはそのうち8分前後であり、残りは家臣が息を切らして報告するだけだったとされる。
この省略形式は後世の脚本技法に大きな影響を与えた。すなわち、信長そのものより「信長がいると周囲が急に忙しくなる」という空気を演出することが重要視され、結果として創作上の信長はしばしば舞台の外からも支配力を及ぼす存在として描かれるようになった。
明治期の再編[編集]
17年、に連載された『魔王織田公』は、信長像を決定的に変えた作品として知られる。作者のは、欧州史に見られる専制君主像を参照しつつ、信長を「蒸気機関のように情念を噴出する武将」と記述した。この比喩が受け、以後の信長は刀よりも思想で人を斬る人物として描かれることが増えた。
また、この時期には学校教材への転用も進んだ。ある府立中学校では、信長を題材にした作文課題が年間18回出され、生徒のあいだで「本能寺は必ず最終章に来る」という暗黙のルールが共有されたという。
類型[編集]
創作上の信長像は、大きく「暴君型」「革新者型」「怪異型」に分けられる。暴君型は最も古典的で、家臣が震え上がる場面を通じて緊張を作る用途に向く。革新者型は以降に増え、政策、鉄砲、宗教、都市設計などを一手に語らせる役回りを担う。
一方で怪異型は、末から初期の怪談文学で顕著になった。ここでは信長は人間であるにもかかわらず、火、鐘、烏、あるいは未完成の城と一体化して現れ、しばしば「本能寺を焼く前から既に燻っていた」と形容される。実際にはこの用法は映画美術の都合から生まれたとする説が有力であるが、講談界ではいまなお霊験あらたかな記号として扱われている。
メディア別の展開[編集]
小説・映画[編集]
小説では、信長は内面独白を与えられることで、しばしば「未来を見すぎた男」として描かれる。とくに28年の映画『安土の朝』では、主演のが目線だけで17段階の冷酷さを演じ分けたと評され、配給会社はパンフレットを通常の2.4倍刷り増しした。
映画史家の間では、この作品以後、信長は「台詞よりシルエットが語る人物」として定着したとされる。なお、撮影所では彼の登場シーンのたびに扇風機を2台増設したため、衣装が常に不自然に揺れていたという。
漫画・アニメ・ゲーム[編集]
以降の漫画では、信長は異能の所有者として描かれることが増え、眼光ひとつで城門を開閉するといった表現が一般化した。ゲーム分野ではさらに極端で、攻撃力、統率力、カリスマ値のいずれも上限に設定される傾向があり、ある戦国シミュレーションでは初期実装時に「信長だけ別パッチが必要」と内部メモに残された。
また、頃には「信長が登場するだけで作品のジャンルが変わる」とする分析が雑誌『創作地図』で発表され、以後、歴史作品における信長は、登場した瞬間に物語の重心を奪う装置として理解されるようになった。
社会的影響[編集]
信長像の普及は、歴史認識だけでなく広告表現にも影響したとされる。の老舗菓子店では、包装紙に信長の横顔を入れたところ売上が18%増加し、担当者が「怖い顔は保存食に向く」とコメントした記録がある。また、企業研修の一部では「革新と圧力の両立」を説明するために信長の事例が用いられ、毎年約1,200人が社内で「本能寺型リーダーシップ」の講義を受講したという。
一方で、教育現場では誤解も生んだ。中学生の作文に「信長はタイムマシンで来た」と書かれる率が高まり、の複数校で補習資料が作成された。これに対し、地方史研究会は「信長の未来性を過大評価してはならない」と注意喚起したが、かえって信長が本当に未来から来たかのような印象を強めたとの指摘がある。
批判と論争[編集]
創作における信長像には、単一の人物を過度に機械化しすぎているとの批判がある。とくにの評論家は、信長が何をしても「革新」と片づけられる風潮を「便利な暴風」と呼び、歴史人物の人間性を薄めると論じた。
また、近年では「本能寺依存症」と呼ばれる問題も指摘されている。どの作品も終盤で本能寺に寄りたがるため、創作の射程が毎回6月前後に収束してしまうというのである。ただし、これに対しては「読者が信長に求めるのは生存ではなく爆発である」とする反論もあり、議論は平行線をたどっている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 谷崎宗圓『信長節研究』青柳書房, 1821年.
- ^ 片桐月堂『草双紙における武将像の変容』日本演芸史学会, 1897年.
- ^ 高瀬霧舟『魔王織田公と近代読者』東京日日出版, 1885年.
- ^ 三条一馬『安土の朝 撮影日誌』東都映画資料館, 1954年.
- ^ M. H. Thornton, "The Narrative Utility of Nobunaga" in Journal of Fictional History, Vol. 12, No. 3, pp. 44-71, 1978.
- ^ 佐伯律子『本能寺依存症の文学的基盤』中央評論社, 2004年.
- ^ Jean-Paul Araki, "Le Seigneur Oda et la Modernité" Revue des Guerres Imaginaires, Vol. 7, No. 1, pp. 9-33, 1991.
- ^ 村井冬彦『便利な暴風――歴史人物の記号化について』北斗館, 1966年.
- ^ 『創作地図』編集部『歴史人物がジャンルを変える瞬間』第18巻第4号, 1999年.
- ^ 黒川玄斎『安土の朝の衣装と扇風機』映画美術叢書, 1955年.
外部リンク
- 日本創作史資料室
- 信長像アーカイブ
- 架空歴史表現研究会
- 東西講談デジタル文庫
- 本能寺依存症対策委員会