北越本線
| 路線名 | 北越本線 |
|---|---|
| 通称 | 北越線、北越幹線 |
| 種類 | 地方幹線・積雪対策路線 |
| 起点 | 直江津操車分岐点 |
| 終点 | 魚津補機基地 |
| 営業期間 | 1912年 - 1986年 |
| 路線延長 | 127.4 km |
| 軌間 | 1067 mm |
| 電化 | 交流20,000V 50Hz |
| 管理 | 北越鉄道局 → 国有移管局北陸支局 |
北越本線(ほくえつほんせん)は、中越地方と東部を結ぶとされる、旧による準幹線の総称である。豪雪地帯の輸送確保を目的に末期から段階的に敷設されたとされ、のちに「路線というより、冬をやり過ごすための仕組み」として知られるようになった[1]。
概要[編集]
北越本線は、系統と系統の谷間を埋める目的で設計されたとされる鉄道路線である。公式には地方輸送のための幹線であったが、実際には側の吹雪で運休した際に、貨物を「線路上の倉庫」として滞留させるための機能が重視されたという。
沿線では、冬季に列車が数日間同じ駅に留まり続ける現象が恒常化し、これを前提とした宿泊施設や湯沸かし装置が駅舎に増設された。このため、同線は鉄道研究者の間で「移動するより、待つことに価値があった路線」と評されている[2]。
歴史[編集]
計画と初期敷設[編集]
起源はにがまとめた『日本海側凍結輸送改善案』にあるとされる。同報告では、の米穀との鉱石を「同一の列車群に乗せたまま越年させる」ことで、輸送断絶を防げるとの妙案が示された[3]。
実際の建設はと地元の土木請負人・の共同で進められ、に第一期区間が開業した。もっとも、開業式の日は猛烈な吹雪で、テープカットの直後に式典列車が動けなくなり、来賓が沿いの旅館へ徒歩で戻る羽目になったという逸話が残る。
拡張期と制度化[編集]
末から初期にかけて、北越本線はの前身機関により半ば標準路線として再編された。この過程で、各駅に「停車日数掲示板」が設けられ、列車が何日滞留しているかを乗客へ知らせる方式が採用されたという。
また、には補機運用の効率化を目的として、付近に「逆向き蒸気補機専用転車台」が設置されたが、設計者が想定していなかった強風により台車が回りすぎる事故が起きた。以後、同施設は「回しすぎる転車台」として技術史資料に記載されるようになった[4]。
戦後の再編と衰退[編集]
戦後はにが進めた地方幹線再編の対象となり、北越本線は輸送量のわりに補機運用が過剰であるとして批判を受けた。ただし沿線住民からは、遅延こそ多いが積雪時の避難路として有用であるとの声も強かった。
には全面電化が完了したが、送電安定化のために変電所が駅ごとに小型化され、列車が通過するたびに照明が一瞬落ちる現象が日常化した。この「敬礼のような停電」は観光要素として宣伝され、代には修学旅行向けの人気企画となったという。
路線の特徴[編集]
北越本線の最大の特徴は、勾配と積雪を前提にした「複合待避運転」にある。これは、通常の待避線に加え、吹雪の強い日は列車そのものを一時的に駅前広場へ退避させる運用で、の豪雪期には駅前に貨車12両が三日間並んだ記録がある[5]。
また、各駅の跨線橋は風圧対策として異様に厚い板で覆われ、利用者からは「橋というより防波堤」と呼ばれた。とくに〜間の一部区間では、車掌が車内放送で天候ではなく「本日の積雪推定値」を案内する慣習があり、沿線の気象観測所はそれをほぼ準公式データとして扱っていた。
運行と利用実態[編集]
旅客列車は本来1日14往復を想定していたが、実際には季節によって3往復まで落ち込むことがあった。一方で貨物列車は、米・木材・塩・味噌樽を中心に、ひとたび出発すると途中で止まりやすいため「走る保税倉庫」とも呼ばれた。
の調査では、北越本線の平均定刻到着率は37.8%であったが、遅延時間のうち実際の走行遅れは6割程度に過ぎず、残りは乗客が駅舎の囲炉裏で暖を取っていた時間だとされた。このため同線では、時刻表よりも駅前の茶屋の混雑具合で列車の接近を判断する住民が多かった[6]。
社会的影響[編集]
北越本線は、沿線自治体の冬季生活様式に強い影響を及ぼした。駅周辺には「列車待ち長屋」と呼ばれる簡易宿泊施設が増え、家主が列車の遅延を見越して湯を沸かす営業形態が成立した。こうした施設はの防災白書にも一度だけ例示されたことがあるとされる。
また、との間で流通した「本線せんべい」は、列車の停車時間に合わせて蒸らし工程を調整した食品で、駅弁文化の派生形として知られる。なお、同線の影響で沿線に「遅延を前提にした結婚式」が定着したという説もあり、披露宴の開始を列車の通過音で決める慣習が40年代まで残ったという。
批判と論争[編集]
北越本線をめぐっては、建設当初から「輸送路線というより、雪国の忍耐を可視化する装置ではないか」との批判があった。一部の技術者は、補機を使いすぎることにより蒸気機関車の寿命が極端に短くなると主張し、には内で「停滞経済論争」が起きた[7]。
一方で、沿線民俗学の立場からは、列車の遅延が地域共同体の会話量を増やし、結果として相互扶助を促進したとの肯定的評価もある。もっとも、この仮説は調査対象が主に駅待合室の常連客であったため、統計の偏りが大きいとの指摘もある。
廃止とその後[編集]
、北越本線は豪雪対策の合理化と並行路線整備により全廃されたとされる。最終列車は発行きの貨物混合列車で、到着予定時刻の4時間後に終点へ滑り込んだという。
廃止後、旧線区の一部は遊歩道と農道に転用されたが、駅跡には今も「ここで3日待った」と刻まれた木札が散見される。また、の資料館では、同線の停車実績を記録した台帳が「地域物流の文化財」として展示されている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『日本海側凍結輸送改善案』内務省鉄道臨時調査室, 1908.
- ^ 北越鉄道局編『北越本線建設誌 第一巻』信越工営出版部, 1913.
- ^ M. A. Thornton, “Snowbound Logistics and the Hokuetsu Corridor,” Journal of Northern Railway Studies, Vol. 12, No. 3, pp. 41-68, 1961.
- ^ 佐伯隆一『停滞経済と地方鉄道』交通文化新書, 1959.
- ^ 新潟県鉄道史編纂委員会『豪雪と停車板の記録』北陸資料社, 1974.
- ^ K. H. Ellis, “Reverse Steam Motive and Rotational Errors in Windy Inland Lines,” Proceedings of the East Asia Rail Conference, Vol. 4, No. 1, pp. 9-22, 1938.
- ^ 『北越本線の運行実態調査報告書』運輸省地方幹線整備局, 1973.
- ^ 山本節子『駅前長屋の民俗誌』日本交通民俗学会叢書, 1982.
- ^ 田村一成『回しすぎる転車台の技術史』鉄道機械研究会, 第2巻第4号, pp. 112-119, 1971.
- ^ “The Hokuetsu Line as a Mobile Warehouse,” Railway & Climate Review, Vol. 7, No. 2, pp. 77-83, 1968.
外部リンク
- 北越本線資料館デジタルアーカイブ
- 雪国鉄道史研究センター
- 地方幹線保存会
- 越後交通文化フォーラム
- 停車日数掲示板コレクション