札幌市営地下鉄手稲延伸線
| 路線名 | 札幌市営地下鉄手稲延伸線 |
|---|---|
| 種別 | 都市高速鉄道計画線 |
| 事業主体 | 札幌市交通局 |
| 起点 | 宮の沢駅 |
| 終点 | 手稲山麓臨時駅(計画) |
| 駅数 | 8駅(案) |
| 計画延長 | 11.4km |
| 想定工期 | 1978年 - 1991年 |
| 運賃制度 | 市電連絡加算方式 |
| 備考 | 一部区間で雪冷房換気坑が提案された |
札幌市営地下鉄手稲延伸線(さっぽろしえいちかてつていねえんしんせん)は、の地下鉄網を方面へ拡張するために構想されたとされる未成線である。冬季の吹雪対策と「西部丘陵地帯の通勤時間短縮」を名目に計画され、のちに内部で半ば神話化した路線として知られる[1]。
概要[編集]
札幌市営地下鉄手稲延伸線は、のから西方のへ延伸する構想として、後半に具体化したとされる都市交通計画である。沿線の急傾斜地と積雪による交通麻痺を回避するため、地下区間の一部を半地上式の耐雪シェルで覆う案が検討されたという。
計画の特色は、通常の地下鉄延伸ではなく、冬季の除雪費を「路線建設費に先払いする」という独自の会計処理にあったとされる。これにより、当初は財政局との間で極めて不穏な文書往復が続いたが、地元商店街からの支持が強く、1980年代前半には市民の間で「手稲の地下夢」と呼ばれるようになった[2]。
計画の成立[編集]
吹雪時代の通勤輸送[編集]
構想の起点は、52年の大雪災害ではなく、同年の「連続七日間・地下水凍結注意報」にあるとされる。これによりからへ向かうバス路線が数度にわたり立ち往生し、当時の輸送課で「雪に負けない固定軌道」が急浮上したという。
中心人物としては、土木技監の、輸送計画係長の、および市議会交通常任委員会で妙に熱心だったが知られる。とくに竹内は、視察先の倉庫で見た搬送用リフトに触発され、「地下鉄は傾斜を登れる」と議会で三度繰り返した記録が残る[3]。
宮の沢接続案[編集]
初期案では、からの工場地帯をかすめ、の下を通ってに抜ける14駅案が有力であった。しかし、路線長が伸びるにつれて「駅ごとに除雪基地が必要になる」という、今にして思えばやや本末転倒な問題が生じた。
最終的に8駅に圧縮されたのは、地盤調査で現れた「手稲西側の層状砂礫が、冬期にほぼスポンジ状になる」という謎の報告による。なお、この報告書は後年の再整理で半分以上が判読不能になっており、いくつかの節ではの製本担当が鉛筆で補筆した痕跡がある。
路線計画[編集]
路線案では、起点をとし、、、、、、、を経て、終点のに至る11.4kmが想定されていた。最大勾配は37‰とされ、これは一般的な地下鉄規格をやや超えるが、同局は「雪国では実質的に平坦である」と説明したという。
車両は既存のを改造し、床下に融雪用温水管を通す案が採用された。さらに、ホームドアの代替として「吹雪時のみ自動で閉じる布製風防幕」を導入する予定であったが、実験では乗客が幕を押し分けて乗車するため、結果として駅員の労務が増えることが判明した[4]。
駅名については、地元の意向を強く反映し、当初案の「手稲北口」「手稲工業団地前」などが、いずれも「住民が寒そうに聞こえる」として改称された。とくに駅は、実際には中央にないにもかかわらず、商店街の要望で残されたとされる。
建設と中止[編集]
試掘と凍土反応[編集]
に開始された試掘では、想定より浅い位置で氷結層が連続して見つかり、掘削機の先端が「吸い付くように止まる」現象が頻発した。作業員の一人は、夜間に掘削孔から吹き上がる冷気を見て「この線路は生きている」と証言したと伝えられる。
一方で、近隣の町内会は工事現場に差し入れを続け、特にと呼ばれる地元菓子が現場標準食として定着した。これにより、工事説明会の来場者が前年度比で213%増加したというが、比較対象の年度が不明であるため、現在では要出典扱いである[5]。
予算凍結と事業転換[編集]
には物価上昇と用地補償の難航により、事業費が当初見込みの1.8倍に達したとされる。これを受けては地下鉄ではなく「冬季複合避難シェルター」への転換を検討したが、シェルター内に線路を残す案が諦めきれず、結果的に計画は宙づりとなった。
最終的な中止はの庁内会議「第4回西部交通整備検討会」で決定された。ただし、議事録末尾には「将来、人口が手稲山を越えた場合は再検討」とあり、これが後の都市伝説の起点となった。
社会的影響[編集]
延伸線は未成に終わったにもかかわらず、西部の再開発方針に大きな影響を与えたとされる。特にの立地は「将来駅から徒歩7分以内」という条件で調整され、実際には永遠に来ない地下鉄を前提にした区画が複数生まれた。
また、路線名が長年使われたことで、札幌市内では「延伸線」と名のつく未計画案件を冗談めかして呼ぶ慣習が定着した。大学の都市計画ゼミでは、毎年この路線を題材にした架空需要予測の演習が行われ、学生が最終的に「客数は雪だるま式に増える」と結論づけるまでが一連の様式美とされた。
なお、地元では今も、の車窓から西の空に地下鉄の換気塔が見えるという話が語られるが、実際には送電施設の誤認である可能性が高い。もっとも、誤認が三世代にわたって共有されている点に、都市伝説としての完成度がある。
批判と論争[編集]
計画に対しては、当初から「雪対策のために地下へ潜るなら、そもそも地上の除雪を強化すべきではないか」という批判が根強かった。これに対し推進派は「除雪は消えるが、地下鉄は残る」と反論したが、これは説明としてやや循環している。
また、手稲山麓までの勾配を解消するために、一部区間へを併設する案が流出し、鉄道工学会から強い疑義が出された。なお、その会議録には「乗客は流されないよう、手すりに各自で対応すること」と書かれており、後年しばしば引用されている[6]。
中止後も、OB会では毎年11月に「手稲延伸線を偲ぶ資料上映会」が行われたとされるが、実際の上映作品は工事記録ではなく、ほぼ全てが期の除雪PRフィルムであったという。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 中里義一『西部丘陵地下交通計画資料集』札幌市交通局内部資料, 1982.
- ^ 早坂真理子「積雪寒冷地における地下鉄延伸の会計処理」『都市交通研究』Vol. 14, No. 2, pp. 33-49, 1983.
- ^ 竹内周平『議会速記録にみる手稲交通問題』北方行政出版, 1988.
- ^ S. Aoyama, “Subsurface Snow Tunnels and Deferred Rail Demand in Sapporo,” Journal of Cold Region Transit, Vol. 7, No. 1, pp. 101-126, 1985.
- ^ 札幌市企画調整局『手稲方面交通需要予測報告書』第3巻第4号, 1981.
- ^ H. L. Mercer, “Operating a Subway with a Fabric Wind Curtain,” Proceedings of the Winter Metro Symposium, pp. 88-92, 1984.
- ^ 北海道開発調査会『西部区画整理と未成線の都市心理』, 1991.
- ^ 渡辺精一郎『除雪費先払い方式の実務』北雪社, 1986.
- ^ 札幌市交通局史編纂委員会『札幌市営地下鉄史補遺・未成線篇』, 1994.
- ^ M. R. Thompson, “On the Myth of the Teine Extension Line,” Urban Rail Folklore Review, Vol. 2, No. 3, pp. 17-31, 1992.
外部リンク
- 札幌都市交通史アーカイブ
- 北方未成線資料室
- 手稲地区再開発と交通の記録
- 冬季都市インフラ研究会
- 札幌市交通局OB文庫