半前・菅間の戦い
| 時代 | 中世後期 |
|---|---|
| 日付 | 1478年8月17日 - 8月19日 |
| 場所 | 半前平野、菅間丘陵、白糸渡河点 |
| 結果 | 半前側の戦術的勝利、ただし政治的には膠着 |
| 交戦勢力 | 半前方陣 / 菅間連合軍 |
| 指揮官 | 丹羽宗成 / 菅間左馬助、ルカ・デ・ヴェッリ |
| 兵力 | 約8,400人 / 約9,100人 |
| 戦死者 | 推定1,300人以上 |
| 主要兵器 | 長槍、短弓、鉄皿、硝石投擲筒 |
半前・菅間の戦い(はんぜん・すがまのたたかい)は、にとの境界で起きたである[1]。後世にはの初期事例として語られ、の勢力図を数十年単位で変えたとされる[1]。
背景[編集]
半前・菅間の戦いは、を流れるの水利権と、の牧草地租税をめぐる対立が数年かけて先鋭化したことに端を発する。両勢力は本来いずれもの下にあったが、の旱魃を契機として年貢輸送路が逼迫し、塩と鉄の供給をめぐる争いに発展したとされる[2]。
当時のは、城下町の鍛冶組と結びついた比較的新興の軍事政権であり、対するはの放牧権と関税徴収で優位に立っていた。特にの渡し賃をめぐる「三枚銀帳簿」事件は、後年の史家によって開戦の直接原因とみなされているが、実際には記録用の墨がにじんだだけだった可能性もある[要出典]。
経緯[編集]
戦闘は未明、北端に布陣したの縦深陣と、が率いる丘陵斜面の迂回隊が睨み合う形で始まった。午前中は互いに矢戦が中心であったが、午後にと名乗るイタリア人技術者が菅間側に雇われ、硝石を詰めた投擲筒を試験投入したことで、戦場の構図が一変したとされる[3]。
ただし、この投擲筒は実際には火薬兵器というより湿気を嫌う土産物入れに近く、乾燥時にのみ「鈍い爆ぜ音」を発したにすぎなかったという異説もある。それでも前線では心理的効果が大きく、半前側の槍衾が一度崩れたのち、の鍛冶組が投入した重鉄皿隊が接近戦を制し、夕刻には南麓まで押し戻した。19日早朝、霧を利用した半前側の逆襲により菅間軍は潰走し、へ退却したとされる。
影響[編集]
戦術上は半前側の勝利であったが、翌月に締結されたでは両家の境界線がほぼ従前のまま確認され、政治的な帰結は限定的であった。もっとも、戦後に半前家が採用した「斜面回廊式陣地」は、の標準教範に取り入れられ、以後30年ほど丘陵戦の基本形となった[4]。
また、この戦いで戦死者の遺体を防腐処置するためにの薬種商が大量の樟脳と塩を供出したことから、後世の軍需市場が発達したとする説がある。さらに、菅間側が用いた旗印の青緑色が湿地帯で見えにくかったことを受け、にが制定されたが、これは実際には染料職人の納税調整を戦訓に見せかけたものではないかとも指摘されている。
研究史・評価[編集]
後期の軍学者は、この戦いを「戦術の勝ち、補給の負け」と評し、兵站の重要性を説く典型例として引用した。これに対し、期の史料批判では、そもそもの実在性が疑問視され、彼の残したとされる『菅間陣中日記』も、紙質が後半のものであることから後補の偽作とみなされている[5]。
一方で、に入ると、の倉庫から発見された木札41枚と、炭化した配給札2,300枚の照合によって、少なくとも数千人規模の動員があったことはほぼ確実となった。ただし、戦死者数の推定は1,300人から4,800人まで幅があり、研究者のあいだでは「霧の多い戦場では史料もまた濡れていた」と表現されることがある[要出典]。
戦場の構造[編集]
半前平野[編集]
は、東西に細長く広がる沖積地で、中央をが蛇行していた。乾季には馬の移動に適したが、雨季には泥が足首まで沈み、重装歩兵の機動を著しく阻害したとされる。戦闘当日も午前9時ごろから地表温度が急落し、馬の蹄鉄が3割ほど外れたという記録がある。
菅間丘陵[編集]
は視界のきく高地で、見張りには有利であったが、補給路が細く、荷車が1日平均で7台しか通れなかった。菅間側はこの地形を頼って長期戦を想定していたが、半前側は夜間に斜面へ木杭を打ち込み、翌朝には即席の逆障害として利用した。
白糸渡河点[編集]
は石積みの浅瀬で、渡し守の一家が代々管理していた。戦闘前夜、この一家が両軍にそれぞれ異なる水位表を売っていたことが後に判明し、戦術判断を混乱させた要因とされる。もっとも、彼らは単に古い木枠を新調したかっただけだという口伝も残る。
戦後処理[編集]
戦後、はに凱旋したが、戦利品として持ち帰ったのは敵旗18本と、なぜかの台所目録97冊であった。これにより城下の食料会計が一時的に整備され、後の「軍用献立帳」の原型になったとされる[6]。
は降伏後も一族の所領を保持したため、一般には「敗北したが滅亡しなかった戦い」として記憶されている。また、菅間軍の残党がに築いた避難小屋群は、のちに巡礼宿となり、毎年の「霧見供養」が行われるようになった。
批判と論争[編集]
この戦いをめぐって最大の論点は、が本当に勝利したのかという点である。戦場占有の記録では半前側が終日優勢であった一方、外交文書では後の境界がほぼ不変であるため、成果を誇張した軍記物の可能性が高いとする見解がある[7]。
また、菅間軍が使用したとされる硝石投擲筒は、近代以前にしては過剰に洗練されており、実際には後半の祭礼用花火を後世が逆算して書き込んだのではないかという説もある。とはいえ、戦場周辺からは焦げた麻布と硫黄臭の残る土塊が発見されており、完全な創作とも言い切れないため、研究者の評価はなお割れている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 高瀬玄平『東海軍学拾遺』青嵐堂, 1824, pp. 41-68.
- ^ M. A. Thornton, “Logistics and Mud Warfare in Late Medieval Inland Confederacies,” Journal of Irregular Battle Studies, Vol. 12, No. 3, 1998, pp. 201-229.
- ^ 丹羽宗譜編『桐戸戦記録抄』半前文庫, 1512, pp. 7-19.
- ^ 佐伯礼一『白糸川流域の租税と渡賃』地方史研究会, 1976, pp. 88-104.
- ^ Luca de Verri, “On Sulfur Capsules and the Psychology of Retreat,” Quaderni di Frontiera, Vol. 4, No. 1, 1479, pp. 1-17.
- ^ 半前文書館編『菅間家台所目録集成』半前市史料室, 2003, pp. 112-146.
- ^ 北見兼蔵『中世丘陵戦における視認性の問題』戦史評論, 第18巻第2号, 1958, pp. 55-73.
- ^ Eleanor P. Wainwright, “The Blue-Green Banner Problem in the Hanzen Campaign,” Transactions of the Society for Anachronistic Warfare, Vol. 9, No. 4, 2011, pp. 77-96.
- ^ 久保寺静江『霧と軍旗色規定の成立』東洋軍制史叢書, 1989, pp. 9-31.
- ^ 『菅間陣中日記』影印本解題、半前歴史資料館報, 第7号, 2016, pp. 3-14.
外部リンク
- 半前市史料アーカイブ
- 東海内陸諸侯連盟研究センター
- 菅間古戦場保存会
- 白糸渡河点復元事業記録
- 霧見供養実行委員会