南日本北日本闘争
| 名称 | 南日本北日本闘争 |
|---|---|
| 別名 | 南北闘争、二本列島問題、地方接続戦争 |
| 時期 | 1984年 - 1992年頃 |
| 主な地域 | 大阪府、広島県、宮城県、北海道 |
| 性質 | 文化対立、流通規格紛争、符号表記混乱 |
| 死者・負傷者 | なし(ただし紙資料の紛失が多数) |
| 関係機関 | 運輸省地方符号調整室、全国商工会連合会、NHK地域放送研究会 |
| 主要な争点 | 地図の配色、商品ラベル、駅名ローマ字表記、うどんの出汁濃度 |
南日本北日本闘争(みなみにほんきたにほんとうそう)は、列島の以西を中心とする「南日本圏」と、およびを含む「北日本圏」とのあいだで、地域的威信・流通規格・方言表記をめぐって争われたとされる準政治的・文化的対立である[1]。現在では、末期から初頭にかけて発生した一連の“互換性戦争”の総称として知られている[2]。
概要[編集]
南日本北日本闘争は、の日本において、流通網の高度化と地方文化の再評価が同時に進んだ結果、南北で「標準」とされる仕様が食い違ったことから始まったとされる。とくにの商業団体が採用した濃色パッケージと、の公共施設が推進した淡色表示が対立の象徴となった。
名称に「闘争」とあるが、実際には街頭衝突よりも、会議室、印刷所、駅の案内板、そしてテレビのテロップ上で繰り広げられた“静かな戦争”であるとされる。なお、当時の内部では「南北同型規格問題」と呼ばれていたが、週刊誌の見出しが過熱し、一般には現在の名称で定着した[3]。
発生の経緯[編集]
起点とされるのは夏の開催の「全国地図記号協議会」である。ここでの流通業者が提案した“寒色優先地図”と、の出版関係者が主張した“暖色優先地図”が真っ向から衝突し、会議資料の3分の1が赤と青の付箋で埋まったという[4]。
この対立は本来、視認性の向上を目的とした技術論にすぎなかったが、各地の商工会が「自地域の色味こそ標準である」と解釈したことで政治化した。特にの印刷所が開発した「濃い瀬戸内ブルー」と、の包装資材会社が売り出した「極北グレー」が、翌年のコンビニ商品棚を席巻し、地域ごとに違う“正しい見え方”が流通したとされる。
歴史[編集]
前史[編集]
前史としてしばしば言及されるのは、後半の車内広告の配色調整である。南側では「夕焼けを想起させる暖色」が好まれ、北側では「雪面での反射を考慮した高明度」が支持された。これが後の南北差異の感情的基盤になったという説がある[5]。
また、の老舗文具店が販売していた地図帳『日本縦色図』が、版元ごとに南版・北版へ分裂した事件は、象徴的な先駆例として扱われている。編集者の間では、これを「紙上の北海道独立」と呼ぶ者もいた。
最盛期[編集]
最盛期はからにかけてである。この時期、が夕方ニュースの地域字幕に二種類のフォントを試験導入したところ、南日本側では角張った書体、北日本側では丸みのある書体が“正義の記号”として受け取られた。実験は当初の予定であったが、視聴者アンケートがに達し、途中で打ち切られた[6]。
この頃、のラジオ局との広告代理店が共同で「南北互換日」というキャンペーンを実施したが、かえって対立をあおったとされる。互換日には両圏で同じ缶コーヒーを販売する計画だったものの、北日本側が「甘さが足りない」、南日本側が「ロゴが白すぎる」と抗議し、初回出荷のうちが返品されたという。
終息と制度化[編集]
、が「地域表記統一要綱」を発表し、地図・駅案内・物流ラベルの三分野で暫定的な折衷案が成立した。これにより、南日本北日本闘争は表向きには収束したとされる。ただし、現場では今なお、の一部スーパーで南式値札と北式値札が併存していたとの報告がある[7]。
後年の研究では、この闘争は単なる地域感情ではなく、印刷技術、物流、放送、観光の四分野が同時に過渡期へ入ったことによる制度疲労だったと分析されている。一方で、民俗学の一部では「うどんの出汁文化をめぐる最後の全国規模の象徴戦」と位置づける見方も根強い。
主要な争点[編集]
争点の第一は地図の配色である。南日本側は海と空を連想させる濃色を好み、北日本側は雪と霧の中で視認しやすい高コントラスト表示を求めた。これが自治体の観光パンフレットにまで波及し、の海岸地図が“北式”で印刷されたことにより、現地の旅館組合が抗議文を出した。
第二は駅名ローマ字表記であった。南では長母音を省略する「実用派」、北では学術的に長母音記号を重視する「保存派」が優勢で、の案内板が一晩で3回差し替えられたという逸話が残る。なお、当時の駅員は「通路より先に文化が曲がっている」とコメントしたと伝えられる。
第三は食品表示である。とりわけの出汁濃度、の塩分、の仕切り数が政治的含意を帯びた。南日本側では「おかずが多いほど豊か」とされたのに対し、北日本側では「仕切りは少ないほど合理的」とされたため、同じ駅弁が地域によって“豪華”にも“貧弱”にも見えたのである。
社会的影響[編集]
社会的影響は広範であった。まず、頃から出版社各社が南版・北版の二重編集を行うようになり、旅行ガイドは地域別にページ構成を変えるのが通例となった。これにより、編集部内では「北表記担当」と「南表記担当」が半ば独立した部署として扱われ、校正作業が常時深夜化したという。
また、地方銀行のキャッシュカード磁気ストライプの配色をめぐっても論争が起きた。南側は朱色、北側は紺色を推したため、の一時期には同じ銀行でカードの色によって出身地を推測する“色戸籍”のような慣習が生じたとされる。これは当然ながら正式制度ではないが、当時の雑誌は真面目に取り上げていた。
一方で、この対立は地域文化の保存にも寄与した。各地の方言研究会が、標準語化の名目で失われかけていた語彙を「南北対比資料」として収集し、結果として・・の三分野にまたがる新しい研究領域が形成されたのである。
批判と論争[編集]
南日本北日本闘争に対しては、当初から「そもそも南北でここまで違うはずがない」とする批判が存在した。とくにの文化評論家のあいだでは、これは実在の地域差を誇張して消費する都市メディアの創作ではないか、との指摘があった[8]。
また、に公開された『地域統一白書』では、闘争の多くが官庁間の文書フォーマット不一致に起因していたことが示唆され、政治闘争というより事務処理の長期化であった可能性が高いと結論づけられた。ただし、白書本文の脚注には「なお、うどんの件は未解決」とだけ記されており、研究者のあいだで長く引用されている。
後年の回想録のなかには、南日本代表と北日本代表がの八重洲口で握手した際、互いの名刺の紙質が違いすぎて会話にならなかった、というほとんど寓話のような証言もある。これが事実かどうかは不明であるが、少なくともこの闘争が“紙の感触”まで争点にしていたことを示す逸話として語られている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 山辺 恒一『南北二色史——地域配色の政治学』東洋書房, 1994年.
- ^ Margaret L. Thornton, "Cartographic Warmth and Cold Print: The Japanese Regional Color Debate," Journal of East Asian Media Studies, Vol. 12, No. 3, pp. 41-68, 1995.
- ^ 佐久間 透『駅名ローマ字の社会史』交通文化出版, 2001年.
- ^ 小林 由紀子「南日本北日本闘争におけるラベル規格の変遷」『デザイン史研究』第8巻第2号, pp. 115-139, 1998年.
- ^ Hiroshi Taniguchi, "The Two-Japan Packaging Crisis and Its Aftermath," Pacific Commerce Review, Vol. 7, No. 1, pp. 9-27, 1993.
- ^ 『地域統一白書』運輸省地方符号調整室, 1992年.
- ^ 中嶋 光彦『うどん出汁の北南差に関する覚書』食文化叢書, 1989年.
- ^ A. W. Kersey, "Soft Power in Hard Labels: Provincial Identity in Late Showa Japan," Comparative Regional Studies, Vol. 4, No. 4, pp. 201-233, 1996.
- ^ 平田 明「南式値札と北式値札の流通実験」『流通経済季報』第15巻第1号, pp. 3-19, 1991年.
- ^ 『日本縦色図 改訂第六版』京雅地図出版, 1988年.
外部リンク
- 地方符号史料館
- 南北互換研究センター
- 日本地域配色アーカイブ
- 駅案内板保存会
- うどん文化対立年表