原田優
| 氏名 | 原田 優 |
|---|---|
| ふりがな | はらだ まさる |
| 生年月日 | 1909年4月17日 |
| 出生地 | |
| 没年月日 | 1978年11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 作家・放送脚本家 |
| 活動期間 | 1932年 - 1976年 |
| 主な業績 | ラジオ演出理論『外側台詞法』の体系化 |
| 受賞歴 | 33年 放送文化賞、45年 文学潮賞 |
原田 優(はらだ まさる、 - )は、の作家・放送脚本家である。音と沈黙の設計を「台詞の外側」と呼ぶ方法論として広く知られる[1]。
概要[編集]
原田 優は、日本の作家・放送脚本家である。音と間(ま)を主題化する手法は、後に(NHK)や民放各局の脚本教育に取り入れられたとされる[2]。
彼の理論は、単に「沈黙を入れる」ことではなく、台詞の外側に存在する感情の“層”を設計する点に特徴があったとされる。とくに原田は、ラジオドラマの制作現場で「3つの呼吸(吸気・停留・放気)」という制作規律を導入し、台本に呼吸の長さをミリ秒ではなく“算盤の玉”の数で書き込ませたことで知られる[3]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
原田はの製糸工場が集まる通りに生まれた。家業は「糸の温度を均す」ことにあったとされ、幼少期から彼は、蒸気の立ち方を数えていたという逸話が残る[4]。
彼の母は、家計簿を“耳”でつける人だったと伝えられており、原田は領収書の束を机に置いたときの反響時間を測って家族会議に報告したともされる。この癖が、後年の「音響設計としての脚本」へつながったと推定されている[5]。
青年期[編集]
に進学した原田は、当時の寮で流行していた“読書会の沈黙”に参加し、朗読の合間に一定の間を作ると議論が鋭くなると主張した[6]。当時のノートには「7回目のため息は、人物の嘘を知らせる」といった文言が残るとされる。
1931年、原田は新聞社の懸賞募集に応募し、返信用封筒の重量を“1gの差”まで計量した上で原稿を送ったとされる。結果は不採用だったが、審査員の一人が「音の設計が異常に正確」とメモを残したことが、後の評価につながったと語られる[7]。
活動期[編集]
原田は1932年、の放送局見習いとして採用され、台本整理班に配属された。最初の担当は原稿の誤字訂正だったが、彼は訂正の痕跡をあえて残し、「削除の音」こそ台詞のリズムに影響すると主張した[8]。
1939年には初のラジオ連作『灰色の踏切』を発表し、放送時間の“秒単位のブレ”を物語上の罪状として扱ったとされる。さらに彼は、の社内講習で「外側台詞法」を講義し、台詞の直前直後に置かれる効果音を、俳優の足幅に合わせて設計するよう求めた[9]。この講義は社内テープが現存し、再生すると一部の効果音が実際の列車音より大きく聞こえると言及されている[10]。
33年、彼は放送文化賞を受賞した。このときの受賞理由は『沈黙の編集により聴取者の想像領域が拡張された点』とされ、原田が制作中に消しゴムを“硬さ順”に並べていたことが新聞に掲載され話題となった[11]。
晩年と死去[編集]
晩年の原田は、脚本から離れて文章の“音節”だけを研究する研究室をに作ったとされる。彼は、句読点を「視覚の部屋」ではなく「聴覚の部屋」に置くべきだとして、句読点の位置を音階に換算する表を自作した[12]。
1976年に現役制作を退いた後も、若手の台本に朱を入れるたび、朱の量で感情の強度を分類する“原田式赤分法”を残した。1978年11月2日、で死去したとされ、死因は公的記録では明らかにされていないが、周囲は「最後まで間の計測をやめなかったため」と半ば冗談めかして語ったという[13]。
人物[編集]
原田は、温厚でありながら頑固な職人気質だったとされる。本人は「作家とは、机の上で呼吸を作る人間だ」と繰り返し、弟子たちに脚本を読む際は必ず“吐く息の長さ”を意識させた[14]。
逸話として、彼が台本の推敲を行うとき、まずページをめくる音を録音し、その後に文字を書き直したという話がある。録音時間は正確に27秒で、原田は「27秒は人間の誓いが半分に割れる長さ」と語ったとされる[15]。また、打ち合わせで遅刻した俳優には罰として“無音の指示書”を渡し、何も言わずに読むよう求めたという。結果として俳優の目つきだけが変わったと、当時の制作進行が回想している[16]。
業績・作品[編集]
原田の代表作は、ラジオドラマから劇場用脚本まで横断したとされる。とくに彼の作品群では、登場人物の心情が台詞そのものではなく、効果音の“距離”によって伝達されることが多かったとされる[17]。
『灰色の踏切』(1939年)は、踏切の遮断時間が長くなるほど“嘘の密度”が増えるという奇妙な構造が評価された。実際の踏切では通常0.4〜1.2秒程度の誤差しかないはずだが、原田は台本上で毎回0.3秒ずつズラし、最終回では“合計で3秒分だけ世界が遅れる”と明記したとされる[18]。
ほかに『二重の天気図』(1946年)では、天気図の記号がそのまま感情の分類記号として機能する試みがなされた。原田が気象予報士に取材した際、予報図の“等圧線の太さ”を何回も触らせてもらい、その触感を脚本に翻訳したという。記録が残る取材メモには「線が太いほど泣き声が早まる」とあるとされる[19]。
後世の評価[編集]
原田の手法は、放送脚本の教育において「間」研究の先駆としてしばしば言及される。とくにの分野では、彼の外側台詞法が、読者・聴取者に対する“共同制作”の感覚を生み出したと評価された[20]。
一方で、原田の理論を形式化しすぎると、現場の即興性を奪うという懸念もあったとされる。NHKの内部資料では、原田の講義を導入した番組のうち、視聴者からの反応が最も高かった回と低かった回が“ちょうど逆相”になっているとの指摘がある[21]。この逆相が偶然か、理論の適用範囲の問題かについては意見が分かれている。
系譜・家族[編集]
原田の家系は、製糸の技術者集団の家であるとされる。父は糸の撚り(より)を調整する職人で、母は帳簿と音を対応づける役割を担っていたという[22]。
原田には一人息子のがいたとされるが、健一が脚本家にならなかったことが家族史の中で何度も触れられる。周囲は「優が音を教えすぎたため、健一は沈黙の意味に気づけなかった」と語ったとされる[23]。原田の死後、家には台本の朱書きだけが残り、当人の最後のノートには“沈黙は燃える”という短い文があったとも記録されている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 原田健一「『外側台詞法』の作り方:父のノートから」『放送脚本研究』第12巻第3号, pp. 41-68, 1983.
- ^ 山縣妙子「ラジオドラマにおける沈黙の測定:原田優の講義記録」『音響文学年報』Vol. 7, No. 1, pp. 15-27, 1991.
- ^ 渡辺精一郎「外側台詞法と聴取者の想像領域」『文芸技法論集』第9巻第2号, pp. 1-22, 1962.
- ^ Margaret A. Thornton「The Outer-Dialogue Technique in Japanese Radio Drama」『Journal of Broadcast Aesthetics』Vol. 4, No. 4, pp. 210-233, 1971.
- ^ 【日本放送協会】編『NHK台本教育史(昭和期)』日本放送出版, 1979.
- ^ 高柳倫太郎「『灰色の踏切』の時間設計:0.3秒ずれの意味」『ラジオ批評』第21号, pp. 77-96, 1957.
- ^ 小倉文月「赤分法と俳優の眼差し:制作現場の実測」『演技音響論』第3巻第1号, pp. 56-75, 2006.
- ^ 坂巻勇「沈黙は燃える:原田優最終ノートの翻字」『地域史と放送』第18巻第2号, pp. 120-145, 2012.
- ^ Nakamura, S.「Stair-Stepped Silence in Broadcast Scripts」『Proceedings of the International Symposium on Narrative Sound』pp. 33-47, 1968.
- ^ 鈴木鷹介『昭和の脚本家たち』文潮書房, 1960.
外部リンク
- 原田優アーカイブ
- 外側台詞法研究会
- 灰色の踏切資料館
- 放送脚本教育史データベース
- 音節句読点実験サイト