名古屋事変
| 名称 | 名古屋事変 |
|---|---|
| 日付 | 1784年8月 - 1785年2月 |
| 場所 | 尾張国名古屋城下、熱田、四間道一帯 |
| 結果 | 都市統制令の改定、香具師組の再編 |
| 原因 | 木綿値上がり、見世物興行税、帳面改ざん疑惑 |
| 関与勢力 | 尾張藩町奉行所、香具師仲間、荷問屋連、寺社寄合 |
| 指導者 | 戸田内蔵助、森田与兵衛、長谷川しの |
| 死傷者 | 記録上は12名、実数は不明 |
| 別名 | 四間道帳面騒動 |
| 文書 | 『御用留別冊 名古屋事変控』 |
名古屋事変(なごやじへん)は、後期にの下で相次いだ香具師と役人の対立、およびそれに続く都市統制の混乱を指す事件名である[1]。のちに沿いの諸都市に広がった「帳面騒動」の起点として知られる[2]。
概要[編集]
名古屋事変は、からにかけて下で発生したとされる都市騒擾である。近世都市における・・の三要素が同時に破綻した例として、後世の都市史研究でしばしば言及される。
事件の性格は単純な一揆でも治安出動でもなく、組織が自治を主張したこと、の役人がそれを半ば黙認したこと、さらに商人層が両者の隙間を利用して利を得たことにあるとされる。そのため、同時代の史料でも呼称が一定せず、ある文書では「事変」、別の文書では「御城下の乱れ」、また別の記録では「帳面騒ぎ」と記されている[3]。
なお、の古文書蔵に残る『町方日録』では、事件の夜に灯籠流しの順路が一時的に変更され、見物客がも迂回させられたとあるが、この数字は後世の誇張である可能性が高い[4]。
背景[編集]
名古屋事変の背景には、後半のにおける木綿流通の偏在があったとされる。とりわけ周辺では、伊勢方面から入る反物と美濃方面から入る晒木綿が交錯し、荷主ごとに異なる「見世料」が課される慣行が広がっていた。
また、下の興行は、寺社の縁日と香具師の仮設見世物が重なることで発達したが、配下の帳付役が興行ごとに桁の違う手数料を求めたため、現場では「一芝居に三帳面必要である」と揶揄された。これが不満の蓄積を招き、ら香具師仲間が独自に「正帳面」を作成し始めたことが、直接の契機になったという説が有力である。
一方で、を中心とする藩側は、当初これを単なる会計上の補正と見ていた節がある。しかし、7月に前で起きた露店焼失事故を境に、露店の区画整理をめぐる対立が表面化し、町役人の印章が勝手に複製されたとの指摘がある[要出典]。
経緯[編集]
発端[編集]
事件の発端は、8月3日に起きた「三番帳消え」と呼ばれる出来事である。これは、下の米札市場で、前日まで有効とされた興行許可帳が、朝になって突然無効とされたことを指す。これにより、側の仮設小屋17棟が営業停止となり、客足が方面へ流れた。
同日夜、が率いる帳場女衆が、停止処分の撤回を求めてを行進した。人数は記録により38名から91名まで幅があるが、いずれの記録でも提灯が赤白二色に統一されていた点で一致する。これが都市民衆の連帯を象徴するものとして後世に語られることになった。
拡大[編集]
8月下旬には、が介入し、香具師側に米俵の一時供出を求めたことから、対立は市場全体へ波及した。商人側は「帳面を正せば俵も正る」とする標語を掲げ、事実上の値下げ運動を展開したが、これに対し町奉行所は夜間のみの通行証制度を導入し、かえって混乱を深めた。
を往来する旅人の証言によれば、の渡しでは一晩に三度も関所様式が変わり、同じ人物が二枚の通行札を提示しても「昨日の札である」として差し戻されたという。もっとも、この証言はの瓦版に基づくもので、誇張がある可能性が高い。
収束[編集]
1月、藩は一帯に臨時の「興行改会所」を設け、とを同席させて妥協案を作成した。内容は、香具師組の登録を八組から十一組へ再編し、帳面の様式を藩札と同じ縦書きに統一するというものであった。
2月になると、対立の中心人物であったが突然、寺社寄合の講中に移り、以後は「帳面よりも灯明のほうが正しい」と語ったとされる。これにより直接衝突は収束したが、裏帳面の流通はむしろ増え、事件は終結したのか拡大したのか判然としない状態で幕を閉じた[5]。
影響[編集]
名古屋事変の最も大きな影響は、都市統制が単なる取り締まりでは機能しないことを尾張藩に認識させた点にある。事件後、藩はの免許発給を年2回から年5回に分割し、帳面の押印欄を「昼用」「夜用」「雨天用」に細分化した。これにより、かえって事務量が増大したとする説が有力である。
また、事件を契機としての商人層には「抜け道を塞ぐと別の抜け道が育つ」という経験則が広まり、のちの期における市場再編の下地になったともいわれる。実際、に編纂された『尾張商業沿革誌』では、名古屋事変を「近代会計の先駆的反乱」と位置づけており、これは後世の研究に大きな影響を与えた。
一方で、庶民文化への影響も無視できない。事変後に流行した「正帳面踊り」は、足踏みのたびに片手で印を押す所作を模したもので、の前身とされる仮設寄席で長く演じられた。なお、この踊りの原型がのサロン文化と関係するという説もあるが、信頼できる史料は見つかっていない。
研究史・評価[編集]
同時代評価[編集]
同時代の評価は大きく分かれた。藩の記録では「市中の軽挙」とされ、の記録では「神前の席次を乱したため起きた」と説明される一方、香具師側の口伝では「帳面の過不足を正しただけ」であると主張された。
の『御国日記抄』には、事変の影響で「香具師の声がかえって揃った」とあり、これを都市共同体の成熟として肯定的に読む研究もある。
近代史学の再解釈[編集]
期になると、のが、名古屋事変を「会計制度の衝突ではなく、都市空間の再配分闘争」と定義した。彼の論文は『史学雑誌』第41巻第7号に掲載され、以後の研究の基礎となった。
これに対し、30年代にはが、事変の中心を女性帳場人のネットワークに見いだし、「長谷川しのは象徴的人物にすぎない」と論じた。彼女の研究は支持も多いが、熱田の町方文書における署名数との整合性にはなお議論がある[6]。
現代の評価[編集]
に入ると、名古屋事変は都市ガバナンス研究や観光史の文脈でも再評価されている。内では、事件ゆかりの地を結ぶ「帳面散策路」が整備され、毎年2月の公開講座では「三番帳消え再現劇」が行われる。
ただし、再現劇では毎回、香具師側が最後に巨大な帳面を掲げる演出が追加されるため、史実とはかなり異なる。にもかかわらず、観客アンケートでは満足度が92.4%に達しており、学術的正確さと娯楽性の両立例としてたびたび引かれている。
遺産と影響[編集]
名古屋事変は、の都市社会において「帳面をめぐる交渉」が公的秩序の一部であることを可視化した事件として記憶されている。事件後に整備された興行登録制度は、そのまま初期の営業許可制度へ継承されたという説がある。
また、の一角に残る古い蔵には、今も「正帳面第一号」と刻まれた木札が保存されている。ただし、これは40年代の復元品である可能性が高く、地元の案内板でも小さく「伝」と付されている。それでも、事変が地域の記憶装置として機能し続けていることは確かである。
さらに、事件名そのものが後世の比喩として用いられ、「名古屋事変級の混乱」などという表現が会計監査の現場で流通した。こうした俗語化は、歴史事件が制度史と大衆語彙の両方に入り込んだ珍しい例とされる。
脚注[編集]
[1] 『尾張城下事件年表』名古屋郷土史研究会、1898年。
[2] 田村一成「東海道沿線における帳面騒動の伝播」『日本都市史研究』Vol. 12, No. 3, 1974年, pp. 44-61.
[3] 村瀬玄「名古屋事変の呼称と流布」『尾張文化史料』第8巻第2号, 1968年, pp. 101-119.
[4] 熱田古文書保存会編『町方日録抄』熱田文庫, 1821年写本.
[5] K. H. Endo, “The Ledger Disturbance in Castle Town Nagoya,” Journal of Premodern Urban Studies, Vol. 7, Issue 2, 2009, pp. 88-113.
[6] 柳瀬静江『近世都市と女性帳場』風媒社, 1958年, pp. 203-214.
[7] 北川逸郎「都市空間の再配分としての事変」『史学雑誌』第41巻第7号, 1932年, pp. 17-39.
[8] 名古屋市史編纂室『名古屋事変関係史料集』名古屋市役所, 1987年.
[9] H. R. Bell, “Accounting Rituals and Street Authority in Owari,” Transactions of the East Asian Historical Society, Vol. 19, No. 1, 2016, pp. 1-26.
[10] 『御国日記抄』巻三、尾張藩文庫蔵写、1786年.
関連項目[編集]
脚注
- ^ 田村一成「東海道沿線における帳面騒動の伝播」『日本都市史研究』Vol. 12, No. 3, 1974年, pp. 44-61.
- ^ 村瀬玄「名古屋事変の呼称と流布」『尾張文化史料』第8巻第2号, 1968年, pp. 101-119.
- ^ K. H. Endo, “The Ledger Disturbance in Castle Town Nagoya,” Journal of Premodern Urban Studies, Vol. 7, Issue 2, 2009, pp. 88-113.
- ^ 柳瀬静江『近世都市と女性帳場』風媒社, 1958年, pp. 203-214.
- ^ 北川逸郎「都市空間の再配分としての事変」『史学雑誌』第41巻第7号, 1932年, pp. 17-39.
- ^ 名古屋市史編纂室『名古屋事変関係史料集』名古屋市役所, 1987年.
- ^ H. R. Bell, “Accounting Rituals and Street Authority in Owari,” Transactions of the East Asian Historical Society, Vol. 19, No. 1, 2016, pp. 1-26.
- ^ 熱田古文書保存会編『町方日録抄』熱田文庫, 1821年写本.
- ^ 『尾張城下事件年表』名古屋郷土史研究会, 1898年.
- ^ 大橋霧子『帳面と都市秩序の民俗誌』青陽書房, 1991年, pp. 77-95.
外部リンク
- 尾張郷土アーカイブ
- 名古屋事変史料デジタル館
- 四間道歴史研究所
- 帳面騒動文庫
- 東海道都市騒擾研究ネット