名士別部村
| 正式名称 | 名士別部村 |
|---|---|
| 読み | めいしべつぶそん |
| 英語表記 | Mishibetsubu Village |
| 成立 | 1898年頃 |
| 廃止 | 1937年(事実上) |
| 行政区分 | 準自治村落 |
| 管轄 | 北海道庁 名士整理係 |
| 主産業 | 印章制作、式辞代筆、別部証明書発行 |
| 人口 | 約1,240人(1926年推計) |
| 通称 | 別部村 |
名士別部村(めいしべつぶそん)は、後期に北東部で成立したとされる、名士の寄留と「別部」登録を一元管理したである。地元では「肩書きが一人歩きする村」として知られている[1]。
概要[編集]
名士別部村は、北東部の湿原地帯に設けられたとされる特殊な村落制度で、一定の社会的肩書きを持つ者のみが「別部」として登録できた制度である。名士の保養地、学校教師の冬季滞在地、退役官吏の半隠棲地が重なって形成されたため、通常の自治村とは異なり、戸籍より先に名刺が通用すると記録されている。
成立の背景には、がに実施した「地方有力者の分散移住計画」があるとされる。これは開拓地の治安維持と資金導入を兼ねた政策で、札幌の実業家、旭川の医師、の元官僚らが、各自の「肩書きの濃度」に応じて住区を割り振られたという。なお、この制度は正式には村制ではなく、内部文書上は「名士別部取扱区域」と呼ばれていた[2]。
歴史[編集]
成立前史[編集]
前史は、方面で流行した「肩章札」制度にさかのぼるとされる。これは漁業監督官が名士にだけ配布した識別札で、夜間の会合で誰が誰の後援者かを見分けるために用いられた。後にこの札が、別部登録の原型になったとする説が有力である[3]。
また、当時の商工会議所の会報には、名士を一箇所に集めると道路が荒れにくいという奇妙な提言が見え、これを読んだの渡辺精一郎が、湿原の縁に「名士を別に置く村」を構想したとされる。渡辺は後年、別部村の設計図を自宅の帳簿裏に描いたが、図面の三分の一が献立表であったという記録が残る。
制度化と拡張[編集]
、別部村は試験的に近郊の四つの集落を束ねる形で制度化された。登録審査はきわめて独特で、肩書き、寄贈履歴、演説時間、写真館での撮影枚数が点数化され、合計83点以上で「一等別部」、59点以上で「準別部」とされた。1903年の改定では、碁会所での敗北回数が減点対象に加えられたため、実業家の間で一時的に碁の流行が止まったといわれる。
1909年にはの酪農家やの元教員も登録可能となり、村の範囲は急速に拡大した。とくに「名士の後継者は本人の肩書きを継ぐ」という慣習が生まれ、未成年でありながら名士として扱われる子弟が多数現れたため、学校側が卒業証書の欄に「父の顔色」を印字したという逸話がある。
最盛期と崩壊[編集]
最盛期は末から初期で、村内には印章店、式辞原稿所、寒冷地向けの応接間レンタル業が並んだ。1926年時点の村税収入の約41%は、役場ではなく「肩書き維持料」から得られていたとされ、財政上はかなり健全であった[4]。
しかしの世界的不況により、名士の資産価値そのものが不安定化すると、別部の登録基準も揺らいだ。1932年には、町内会長が自分を「準名士」と称したことをきっかけに、住民の7割が等級再審査を要求し、役場前に長さ18メートルの抗議の名刺束が積まれた。制度はに事実上停止し、戦時体制下では「別部」の語が贅沢品を連想させるとして使用を控える通達が出たとされる。
制度の仕組み[編集]
名士別部村の特徴は、住民を地理ではなく社会的ふるまいで区分した点にある。別部台帳には住所のほか、来客時の第一声、会合での沈黙時間、年賀状の紙質まで記載され、これに基づいて税額と道路清掃頻度が決定された。
また、村には「別部境界石」と呼ばれる標柱が12基あったが、実際には境界ではなく、各名士宅の玄関から見て体裁のよい位置に置かれていた。役場の調査員は境界を測る際、巻尺の代わりに式辞集を用いたという。なお、境界内では馬車のUターン半径が「面目の保全距離」として定義され、最小でも9.8メートルを要したとされる。
制度の運用は名士整理係が担い、のちにの臨時顧問だったマーガレット・A・ソーンダースが視察したことで知られる。ソーンダースは「この村では社会階級が地形の一種として扱われている」と報告したが、同行していた通訳がこれを「地形は階級である」と誤訳し、そのまま内部資料に残った[5]。
文化[編集]
別部式挨拶[編集]
名士別部村には独自の挨拶法があり、通常の会釈の前に必ず肩書きを二段階で確認する必要があった。たとえば「先生でいらっしゃいますか、それとも本日だけ先生でいらっしゃいますか」という前置きが礼儀とされた。最長の挨拶はの村祭りで記録された11分42秒で、当事者は互いに名前を呼ばないまま別れたという。
この形式は近隣のやにも広まり、やがて地域の商談では「本題に入る前の敬称確認」が慣例化した。商工会は一時的に効率低下を訴えたが、逆に名刺印刷業の売上は3倍になった。
式辞と料理[編集]
別部村の宴席では、料理より先に式辞が3品出るといわれた。最初の「前口上」、次の「謝辞」、最後の「補足」が揃って初めて主菜に箸をつけることが許されたため、会食時間の平均は43分から2時間18分へ延びた。とくに名物の「別部鍋」は、鍋そのものより、蓋を開ける際の来賓の反応が重要視された。
この風習はの料理研究家・神田千枝子によって「食べる前に社会性を確認する儀礼」と評されたが、別部村の住民は料理研究ではなく礼儀研究の一環であると主張した。結果として、村内の料理店ではレシピ帳よりも来賓録が分厚くなった。
社会的影響[編集]
名士別部村は、開拓地における有力者の流入を促すことで、近隣の鉄道敷設、郵便局設置、学校の寄付講座創設に影響を与えたとされる。とくにの一部停車計画は、別部村出身の実業家5名が同じ列車の同じ車両に乗りたがらなかったことから再設計されたという逸話が残る。
一方で、肩書きに依存した行政運用は、一般住民の不満も生んだ。1928年の村議会では、無職の青年が「父の名刺で税金が決まるのはおかしい」と発言し、議場で一斉に沈黙が起きた。議長はこの沈黙を「最上級の賛成」と解釈したが、翌日の地方紙はこれを「判断不能」と報じた[6]。
批判と論争[編集]
名士別部村に対する批判は、制度の不透明さと、社会的な序列を自治の外形で固定化した点に集中した。特に後半には、別部登録が「家柄の証明」ではなく「家柄らしさの演出」によって左右されるとの指摘があり、写真館で撮影した際の帽子の角度が点数に含まれることが問題視された。
また、別部証明書の発行手数料が繁忙期には通常の3倍に高騰し、証明書を持たない者は村内の湯屋で「仮別部」扱いになるという実態が暴露された。これに対し役場は「仮別部は暫定的な敬意である」と説明したが、結局はの監査で、証明書の印章の一部が彫り直しではなく貼り替えであったことが判明した。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『名士別部村設置覚書』北海道庁内部資料, 1901年.
- ^ 神田千枝子『開拓地の食と礼式――別部村宴席調査』中央公論社, 1938年.
- ^ Margaret A. Thorne, "Separation of Status in Northern Wetland Settlements", Journal of Imperial Administrative Studies, Vol. 12, No. 3, 1927, pp. 144-171.
- ^ 北村健吾『別部台帳の社会史』日本地方制度研究会, 1964年.
- ^ E. H. Willoughby, "Notes on the Mishibetsubu Registration System", Transactions of the Hokkaido Anthropological Society, Vol. 5, 1910, pp. 22-39.
- ^ 佐伯初子『名刺と戸籍のあいだ』東京書房, 1972年.
- ^ 高瀬一郎『村税の変質と肩書き維持料』地方財政評論 第18巻第2号, 1981年, pp. 61-88.
- ^ L. P. Harrington, "A Village Where Rank Became Topography", The Northern Review, Vol. 9, No. 1, 1935, pp. 5-19.
- ^ 松永あやめ『別部鍋とその儀礼的蓋』食文化研究 第4巻第1号, 1990年, pp. 9-27.
- ^ 『北海道庁名士整理係年報』第7巻第1号, 1933年, pp. 3-14.
外部リンク
- 名士別部村アーカイブス
- 北海道地方制度史データベース
- 別部証明書保存協会
- 湿原自治研究所
- 式辞経済年鑑