四塁打
| 名称 | 四塁打 |
|---|---|
| 読み | しるいだ |
| 英語 | Quadruple Base Hit |
| 起源 | 1920年代の日本野球技術委員会 |
| 初出 | 1926年ごろ |
| 関連競技 | 野球、速記野球、試合記録学 |
| 特徴 | 4つの塁の通過を1打席で記録する |
四塁打(しるいだ、英: Quadruple Base Hit)は、において打者がを経由して本塁に達する、あるいは四つの塁を一気に踏破したと記録される極めて稀な打撃行為である[1]。もともとはにの建設計画に付随して生まれた採点補助概念とされ、後に独立した競技記録として定着した[2]。
概要[編集]
四塁打は、通常のやとは別に、走塁の完遂度を評価するための特別記録として扱われている。一般には打球が外野席の隅を経由し、さらに球場外の補助塁を含む「第四塁」に触れた場合に成立するとされるが、この第四塁の扱いは時代により異なり、統一された定義は長く存在しなかった[3]。
この記録が注目された背景には、末期から初期にかけて、の統計担当者たちが「打球の価値を塁上移動の距離で数える」という独自理論を打ち立てた事情がある。とりわけ出身の記録員・が提案した「塁数加算表」が原型とされ、当初は新聞の見出し用語にすぎなかったものが、のちに公認記録へ格上げされた[4]。
起源[編集]
神宮球場建設期の採点補助[編集]
四塁打の原型は、の仮設記録表に見られる。建設中の外野工区では観客席の導線が未完成であったため、打球が場外に出た際にどこまで走者を進めたかを記録する必要があり、工事監督のが「四点目の塁」を仮設したとされる[5]。この仮設塁は白墨で床に描かれた板で、雨天時にはすぐ流れたため、記録員が帳簿上でのみ維持したという。
当初は競技規則ではなく工事安全上の目印であったが、試合後に打者の移動距離を巡って議論が起こり、が「四塁打なる奇記録」として報じたことで一般化した。なお、この報道では打者名が三度書き換えられており、原稿整理の混乱が逆に制度化を促したといわれる。
統計学派との結びつき[編集]
にはの統計学研究会が、四塁打を「1打席あたりの総移動塁数が4に達した打撃」と定義し直した。これにより、二塁打を2本打つより四塁打1本の方が記録価値が高いとされ、得点効率とは別の「塁距離価値指数」が導入された[6]。
この指数の考案者であるは、野球を「距離の文学」と呼び、打者の筋力よりも球場の歪みを重視した。彼の論文は当初まったく相手にされなかったが、翌年ので、風向きの急変により一打で一塁・二塁・三塁を同時に通過したと誤認される事例が発生し、理論が急に脚光を浴びた。
制度化[編集]
公認記録への昇格[編集]
、は「四塁打認定要綱第7号」を施行し、四塁打を正式記録として採用した。要綱では、打者が本塁に到達するまでに相手野手の送球が3回以上乱れた場合、あるいは観客席の旗竿に触れて進路が変更された場合も四塁打として扱うとされた[7]。
この基準はきわめて複雑で、各球団の記録員は分単位で議論を繰り返した。特にでは、浜風を理由に外野手が「風の補殺」を主張する事例が続出し、1935年シーズンだけで申請件数が41件、認定は9件に留まったとされる。
戦後の再編[編集]
の記録制度再編では、四塁打は一時的に廃止されたが、記録帳の空白が多すぎたため翌年には復活した。復活の中心人物はのデータ班にいたで、彼は紙面編集の都合上、四塁打をなくすと成績表の罫線が崩れると主張したという[8]。
この頃から四塁打は、実際の打球能力よりも「試合を一筆書きで終わらせる美学」の指標として受け止められるようになった。選手の間では、三塁打を打った後に本塁を回るかどうかで評価が分かれ、走塁コーチのは「四つ目の塁を踏んで初めて、打者は会話を終える」と語ったと伝えられる。
競技上の扱い[編集]
四塁打は公式には打者記録に分類されるが、実際には球場構造、外野芝の傾斜、送球網の癖など、複数の要素が絡み合って成立する。特にの初期運用時には、照明の反射で打球の落下点が二重に見えたため、記録員が四塁打を過剰認定したとの指摘がある[9]。
一方で、四塁打は打球が本塁打と同時に成立するという独特の扱いを受ける場合があり、これを「同時四塁打」と呼ぶ。これは得点には影響しないが、記録表上の欄が一つ多く必要になるため、では1957年以降、用紙の増刷を年2回行う原因になった。
主要な四塁打記録[編集]
もっとも有名な記録はの対戦で、の強風を受けた打者が、打球を右翼席の広告看板に当てたのち、走塁中に球審の帽子を踏んで四塁打を成立させたとされる。この記録は当初三塁打として公表されたが、翌朝の新聞各紙が「四塁打」と見出しを変えたため、史上初の公式認定例として扱われている[10]。
またのでは、打者がバットを落とした際に、それがちょうど第四塁の代替標識に接触したことから四塁打が成立したとされる。これはプレーそのものよりも用具の偶然性が注目され、のちに「バット接塁記録」として別項目が作られた。
社会的影響[編集]
四塁打の流行は、一般社会にも微妙な影響を与えた。たとえばの少年野球では、塁間を一気に走り抜ける練習が流行し、の体育指導要領に「無理な四塁打志向を避けること」と書き加えられたとされる[11]。
また、都市計画の分野では「四塁打道路」という俗称が生まれ、交差点を4つ連続で通過するだけで最短距離になる街路設計が一部で検討された。の湾岸再開発では実際に四塁打式導線が採用されたが、住民から「歩くたびに二塁打の気分になる」と苦情が出て、結局は撤回された。
批判と論争[編集]
四塁打には当初から批判が多く、最大の論点は「四つの塁を踏むことが本当に一打席の成果なのか」という点であった。特にの導入以後、四塁打は得点期待値と相関が薄いとして軽視される傾向が強まったが、古参記録員は「数値に出ない感動がある」と反論している。
さらに、のでは、四塁打が本塁打と重複した場合の扱いを巡り6時間半の議論が行われた。最終的には「記録欄が足りない場合は二重線で処理する」と決定されたが、この裁定は現在でも一部球団の記録室で紙文化の限界として語り草になっている[12]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『塁数加算表と四塁打の成立』日本記録体育協会, 1932年.
- ^ 片桐武彦「打撃距離の分類学」『東京帝国大学統計学研究会紀要』Vol. 4, No. 2, pp. 11-39, 1931年.
- ^ 松平忠二郎『神宮球場仮設工事報告書』明治施工資料社, 1927年.
- ^ 石田良平「戦後記録紙面と四塁打欄の復活」『毎日記録評論』第8巻第1号, pp. 4-17, 1949年.
- ^ 吉岡春雄『走塁美学論』大阪運動文化出版, 1956年.
- ^ 日本野球連盟記録部「四塁打認定要綱第7号」『連盟公報』第12巻第4号, pp. 66-71, 1934年.
- ^ 高宮寛一『風と広告看板のあいだ』中部日本スポーツ文化会, 1955年.
- ^ 森本千代治「バット接塁記録の可能性」『後楽園球場記録集』Vol. 2, pp. 102-119, 1963年.
- ^ 佐伯郁夫『少年野球における過剰走塁の研究』文部体育研究所, 1958年.
- ^ Harold W. Bennett, “Quadruple Base Hit and the Spatial Integrity of Diamond Games,” Journal of Unusual Athletics, Vol. 9, No. 1, pp. 1-22, 1968.
- ^ Y. Nakamura & D. Ellis, “On the Fourth Base Problem in Japanese Scorekeeping,” International Review of Baseball Studies, Vol. 13, No. 3, pp. 88-104, 1974年.
- ^ 中西康夫『四塁打論序説』野球記録社, 1979年.
外部リンク
- 日本試合記録学会アーカイブ
- 四塁打研究会
- 旧神宮球場記録室デジタル資料館
- 東京野球史料センター
- 塁間文化博物誌