因島高校体操部
| 名称 | 因島高校体操部 |
|---|---|
| 設立 | 1958年頃 |
| 所在地 | 広島県因島市(当時) |
| 種目 | 体操競技・島嶼型基礎錬成 |
| 顧問 | 松浦 恒一郎(初代とされる) |
| 標語 | 跳ぶ前に、まず島を見る |
| 代表的器具 | 潮風床、桟橋つり輪、段々馬 |
| 関連組織 | 因島町教育委員会、広島県高等学校体育連盟 |
| 活動場所 | 因島高校第一体育館 |
因島高校体操部(いんのしまこうこうたいそうぶ)は、・に所在するとされる高等学校の体操競技系部活動である。島嶼部における校内体育の高度化を目的として、30年代に半ば官製の形で整備されたと伝えられている[1]。
概要[編集]
因島高校体操部は、の地形的制約を逆手に取って発展したとされる体操部である。島内のや斜面地を利用した独自の練習法で知られ、全国でも珍しい「船上補助輪転」や「潮待ち倒立」などの技法を確立したとされる[2]。
同部は単なる学校部活動というより、の青少年育成政策と一体化した準公共事業に近い存在であったとする説が有力である。とくに開通以前の離島社会において、島外遠征を前提とした体力・平衡感覚の養成機関として機能したとされ、地元の造船業者やゆかりの一族が器具提供に関わったという記録が残る[3]。
また、部の活動記録には、毎年の「高潮期記録会」との「桟橋閉鎖前演技会」が頻出する。いずれも公式大会ではないが、島外の審判員が招かれた年には、採点にの潮位表が併記されたという異例の運用が確認されている[4]。
歴史[編集]
創設期[編集]
創設は頃とされる。初代顧問のは、戦後の内で体育教育を担っていた元中学校教員で、因島への赴任直後に「島では走力よりも重心移動が重要である」と判断し、体操部の設立を進言したとされる[5]。当初は床運動と跳馬のみの小規模な活動であったが、地元の木工所が供出した船材の端材を加工した練習台が予想以上に好評で、部員数は翌年にからへ増加した。
この時期の部則には、奇妙なことに「練習前に防波堤の角度を確認すること」「海風がを超える場合は平均台を半分の高さで用いること」といった項目が見られる。なお、これらは安全上の配慮ではなく、島民の間で伝わる「風に逆らう者は着地を乱す」という経験則を制度化したものとされている。
黄金期[編集]
からにかけて、因島高校体操部は県内で急速に名を広めた。特にのでは、団体演技の構成に「桟橋静止」と呼ばれる独自要素を導入し、審判団の半数が判定にを付けたものの、技術点では県内最高を記録したとされる[6]。
この頃、同部には「潮目番」と呼ばれる役職が存在し、部員のうち1名が毎日建設予定地周辺の海流を観測していたという。海流と演技の安定性の相関を重視する方針は、当時の体育教育界では異端であったが、後年になって「島嶼環境スポーツ学」の先駆例として再評価された。
また、には部員のうちが同時にけがを負った「着地の年」があったが、これを契機に顧問は床面に微細な砂を混ぜる独自改良を実施した。砂の比率は前後が最適とされ、以後、因島式床材は近隣校からも注目された。
制度化と拡張[編集]
に入ると、同部は学校単位の部活動を超え、の「海風適応体力開発事業」の実験場とみなされるようになった。体操部の器具更新は教育予算とは別枠で処理され、会計簿には「ロープ張替え」「潮除け合板」「小型天候計」など、一般の体育部では見られない費目が並んでいた[7]。
この時期に導入された「段々馬」は、通常の跳馬をに分割し、各段で着地の再加速を行うというもので、島の坂道を模した構造だったとされる。部員の一人、はこの器具でに県大会個人総合となり、島外から来た審査員が「最初は奇策に見えたが、慣れると理にかなっている」とコメントしたという。
平成以降[編集]
期以降、因島高校体操部は少子化の影響で部員数が減少したが、代わりに映像記録と分析手法が精密化した。特にから導入された「潮汐ビデオ解析」は、演技中の重心移動をで検証するもので、部内では「動く前に海を読む」方針の完成形とされた[8]。
一方で、開通後は島外との交流が容易になり、因島式の訓練が全国の指導者から紹介依頼を受けるようになった。ただし、実際に訪問した教員の多くは、最初に案内される「風待ちの廊下」と「器具乾燥室」の異様な広さに圧倒されるという。近年では卒業生が造船、海運、理学療法の分野に進む例が多く、体操部の経験が島嶼地域の職業選択に影響したとする調査もある[9]。
特色[編集]
因島高校体操部の最大の特徴は、練習内容が地域環境と不可分であった点にある。体育館内で完結しない練習体系は、冬季の強風、潮位、桟橋の混雑、さらには特有の急勾配を前提に設計されたとされる。
練習メニューには、朝礼後に全員でを歩いて重心を整える「通学路ウォームアップ」や、強風時にマットの四隅へ砂袋を置く「四点潮止め」などがあった。これらは外部の指導者からは奇妙に見えたが、部員の離脱率は同時期の県平均より低かったという。
また、部の伝統として「演技の後に器具へ礼をする」所作が重視された。これは神事由来とされることもあるが、実際には木製器具のひび割れ確認を兼ねた実務的な習慣であったとの指摘もある。
社会的影響[編集]
因島高校体操部は、島内における学校体育の象徴であると同時に、地域産業との接続点でもあった。造船業、港湾荷役、旅客船運航に従事する家庭の子弟が多く入部し、体操で養われた平衡感覚や握力が将来の職業訓練に直結したとされる[10]。
とりわけの県内教育委員会報告書には、体操部の活動が「島の若者に、狭い足場で恐れずに動く習慣を与えた」と記されていたとされるが、原本はの庁舎改修時に一部散逸したため、詳細は確認できていない。なお、この点をめぐっては「実在の報告書を都合よく再解釈しただけではないか」とする反論もある[11]。
一方で、因島式の器具改良は瀬戸内地方の複数校に模倣され、平均台の端部に滑り止めを追加する「因島型補強」が広まった。もっとも、部内ではこれを「逆輸入された民間技術」と呼んでおり、学校史料においてもやや誇張気味に扱われている。
批判と論争[編集]
因島高校体操部には、独自性の強さゆえの批判も存在した。第一に、器具改造が過剰であるとして、の一部審査員から「競技の統一性を損なう」と指摘された[12]。第二に、潮位や風速を演技評価に取り込む手法が、純粋な体操競技の理念から逸脱しているとの批判があった。
また、に作成されたとされる部内資料『風を採点する方法』には、審判への説明図としての潮流分布が添えられていたが、これが後に「地理教材を誤って審査資料に綴じ込んだだけではないか」と話題になった。にもかかわらず、同資料は現在もOB会で複製が配布されているという。
もっとも、批判の多くは同部の影響力を示す裏返しでもあった。外部の大会では珍妙な存在と見なされながら、島内では「体操部に入ると、桟橋の端でも立てる」と半ば生活の知恵として受け止められていた。
主な出身者[編集]
因島高校体操部の出身者には、体操選手以外の分野に進んだ者も多いとされる。は造船設計者としての企業で活躍し、部で学んだ姿勢制御をクレーン設計に応用したという。はとなり、離島の高齢者向け転倒予防プログラムを立ち上げた。
また、卒のは、県内テレビ局でスポーツ中継のカメラマンを務め、動体追跡の癖が強すぎて「観客より器具を映す」と評された。本人はこれを否定しているが、退職後も桟橋を見ると無意識に肩を入れると証言している[13]。
なお、OBの一部は因島高校の校歌よりも体操部の準備運動歌を先に覚える傾向があり、同窓会では毎回、肩回しから始まるという。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 松浦 恒一郎『島を跳ぶ――因島高校体操部史』瀬戸内教育出版, 1983.
- ^ 山内 俊介「潮風と床運動の相関」『体育史研究』Vol.12, No.3, pp.44-61, 1991.
- ^ 広島県教育史編纂室『離島学校体育の歩み』広島県庁刊, 1979.
- ^ A. L. Thornton, “Gymnastics in Tidal Communities,” Journal of Coastal Education, Vol.8, No.2, pp.113-129, 2002.
- ^ 小早川 章『段々馬設計ノート』因島高校体操部OB会資料, 1988.
- ^ 中西 由紀「桟橋静止の採点問題」『瀬戸内スポーツ年報』第4巻第1号, pp.7-19, 1973.
- ^ H. M. Carter, “Balance Training under Maritime Wind Load,” British Journal of School Athletics, Vol.15, No.4, pp.201-218, 1986.
- ^ 広島県高等学校体育連盟『昭和四十三年度競技記録集』, 1969.
- ^ 村上 玲子『転倒予防と島の身体文化』医歯薬出版, 2008.
- ^ 因島町教育委員会『海風適応体力開発事業報告書』, 1984.
- ^ 高山 透「器具を撮るということ」『放送技術と身体表現』Vol.3, No.1, pp.88-90, 1994.
外部リンク
- 因島高校体操部史料室
- 瀬戸内学校体育アーカイブ
- 島嶼部スポーツ文化研究会
- 潮汐ビデオ解析センター
- 因島OB会デジタル年鑑