国家警察
| 名称 | 国家警察 |
|---|---|
| 英称 | National Police |
| 成立 | 1898年3月14日 |
| 解体 | 1972年11月1日 |
| 管轄 | 内務省・治安統括局 |
| 本部 | 東京都千代田区霞が関(後の中央治安庁舎) |
| 主要任務 | 広域捜査、交通統制、記録照合、儀礼警備 |
| 通称 | 国警 |
| 標語 | 秩序は記録から生まれる |
国家警察(こっかけいさつ、英: National Police)は、国家の治安維持を一元的に担うとされる警察組織の総称である。近代国家の成立とほぼ同時に整備されたとされるが、その起源には末ので発生した「夜警台帳事件」が深く関わっているとされる[1]。
概要[編集]
国家警察は、地方警察の連絡不備を補うために設置された全国規模の警察制度であるとされる。一般には系の官僚機構として説明されることが多いが、初期の運用実態はむしろとの合議によって左右されていたとされる[2]。
この制度は、都市化の進展に伴う「管轄の空白」を埋めるために生まれたとされる一方で、実際には住民台帳、駅の忘れ物、港湾の積荷目録を統合する巨大な照合装置として発展した。後年の研究では、国家警察は警察組織というよりも「国家が自分自身を見失わないための索引」であったとの指摘がある[3]。
成立の経緯[編集]
夜警台帳事件[編集]
国家警察の直接の契機は、冬にで起きた夜警台帳事件である。市内の七つの交番で帳簿の様式が統一されていなかったため、同一人物が三重に別人扱いされ、逆に実在したはずの強盗団が「未確認の空欄」として処理された。これを視察した内務次官は、翌年に「犯罪とは現場でなく帳簿の乱れから始まる」と演説し、中央統制案を提出したとされる。
もっとも、当時の議会記録によれば、事件そのものは強盗よりも帳簿印のインク不足が主因であったとも読める。にもかかわらず、この逸話は後に国家警察の正統性を示す神話として定着し、各国の警察学校で「記録なき秩序は秩序にあらず」という標語とともに引用された[4]。
明治三十一年令[編集]
日本における国家警察制度は、三十一年の「治安統合臨時令」によって整えられたとされる。起草に関わったは、法科の出身で、フランスの憲兵制度とアメリカの駅務取締を折衷した「二重監督型警察」を構想したとされる。
この制度の特徴は、巡査の階級よりも帳票番号が重視された点にあった。初代の本部庁舎では、事件より先に「受付票」が番号順に並べられ、捜査官は犯人を追う前に票の所在を確認したという。なお、当時の内部では、これを「実務の合理化」と評価する者と、「紙で犯人を捕まえる制度」と揶揄する者が半々であった。
組織[編集]
三局八課体制[編集]
国家警察の中核は、広域捜査局、交通秩序局、記録保全局の三局で構成されていた。とりわけ記録保全局は、各地の交番から送られてくる紙片を毎日平均1,240束処理し、そのうち約8%が「同封物不明」として再配達されていたとされる[5]。
八課のうち最も権限が強かったのは第六課「忘失物・行方不明照合係」である。ここは、、から寄せられる迷子届を突き合わせる部署で、戦前には「人を探す」より「名前の綴りを揃える」ことに膨大な時間を費やした。課員の間では、犯人逮捕よりも台帳修正の方が昇進に直結したという。
また、儀礼警備を担う第一課は、国賓の到着時に必ず右足から整列する規則を守っていた。これはにの式典視察団がもたらした慣行とされるが、実際には隊列の写真写りをよくするための現場判断が制度化したものだともいわれる。
地方部と鉄道分隊[編集]
国家警察は中央集権的な組織でありながら、地方部と鉄道分隊に強く依存していた。地方部は県境ではなく「半径十八里圏」で区切られており、隣接する管区との境界がとの間で何度もずれたことが知られている。
鉄道分隊は、列車内の軽犯罪だけでなく、改札の時刻表改訂通知を監督する任務も負っていた。特急列車の車内で乗客の帽子が三つ以上風に飛ばされると、分隊長はその区間を「注意管内」に指定したという奇妙な慣行があり、初期の新聞ではしばしば笑いの種となった。
運用と社会的役割[編集]
国家警察は、治安維持だけでなく、国家の「正しい時間」を配布する機関でもあった。各地の駅舎に設置された標準時計は警察無線と連動し、毎朝7時13分に一斉修正された。この時刻は、初代通信監督官が「通勤者が最も時計を見落とす瞬間」として選定したものとされる。
また、住民登録の厳格化によって、行方不明者の再発見率はには78.6%に達したとする内部資料がある。ただし、その統計には「自分の名字を忘れていた者」が大量に含まれていたため、学術的評価は割れている。国家警察の実務は、犯罪抑止と同時に、国家が人口を把握するための巨大な目録事業でもあったのである。
一方で、地方の小規模商店では、国家警察の巡回が来るたびに帳簿の欄外まで整頓する習慣が生まれた。これが後の商業簿記の厳格化に影響し、の老舗問屋では「国警が来る前に蔵を片付けよ」という言い回しが慣用句になったとされる。
事件と逸話[編集]
霞が関の白い鳩[編集]
、本部庁舎の中庭に毎朝同じ白い鳩が現れ、閲覧室の窓辺に止まる事件が続いた。警備課はこれを外国勢力の伝書鳩訓練と断定したが、のちに給食係が鳩に麦を与えていたことが判明した。とはいえ、鳩はその後も12年間にわたりほぼ毎週現れ、最終的には「庁舎の準職員」として帳簿に記載されたという。
この逸話は、国家警察の過剰な記録主義を示す象徴としてしばしば引用される。あるOBは回想録で「鳩の来訪がなくなった日、庁舎は初めて静かすぎて不安になった」と記している[6]。
札幌支局の氷上捜査[編集]
の北方支局では、冬季の事件現場が雪で消えるため、足跡ではなく「熱の残り方」で犯人を追う氷上捜査が試みられた。捜査官は木製の温度計を携え、犯人が触れたと思われる柵を順番に叩いて回ったという。
この手法は学術的にはほとんど支持されなかったが、1950年代の数件の窃盗解決に寄与したとして、支局長は勲三等相当の表彰を受けた。もっとも、そのうち一件は容疑者が自首したためであり、後年の評価では「氷ではなく根負けである」と要約されている。
批判と論争[編集]
国家警察に対する最大の批判は、中央集権化が地方自治を圧迫した点にある。とくに後半には、地方署の裁量がほぼ消失し、事件の第一報が現場からではなくの回覧板で出される事例すらあったとされる。
また、記録保全局が「異名同人」の照合を名目に、芸名・筆名・通称まで統制したことから、文士や演奏家の間では強い反発が起きた。著名な作家は「国家警察は犯人を追う前に、署名を改めさせる」と批判し、これに対して当局は「署名の統一なくして公序なし」と反論した[7]。
一方で、国家警察の支持者は、当時の急速な都市化のもとで広域事件への対応には一定の合理性があったと主張する。今日でも一部の行政史研究者は、国家警察を「過剰に整然としていたがゆえに崩壊した制度」と総括している。
廃止と影響[編集]
国家警察はの治安再編法によって解体され、機能の大半は地方警察と新設の広域犯罪対策庁に分割された。解体当日は本部の壁一面にあった索引棚がそのまま封印され、最後の監察官が「これでようやく事件を事件として数えられる」と述べたと伝えられる。
制度としての国家警察は消滅したが、その影響は残った。例えばの遺失物管理、住民票の氏名表記の統一、国際会議での座席番号運用などは、いずれも国家警察式の「先に分類し、あとで理解する」発想を引き継いでいるとされる。なお、地方の古い警察署では今でも書類箱を「国警棚」と呼ぶ慣習が一部に残るという。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『治安統合臨時令の構造』中央法規出版, 1904年.
- ^ H. Voigt, “The Night Watch Ledger Incident and Administrative Reform,” Journal of Continental Policing Studies, Vol. 12, No. 3, pp. 41-68, 1901.
- ^ 高瀬みどり『国家警察と都市の索引化』新潮行政研究叢書, 1968年.
- ^ M. A. Thornton, “Railway Detachments and the Birth of National Policing,” Comparative Public Order Review, Vol. 8, Issue 1, pp. 9-33, 1932.
- ^ 宮原俊介『署名と公序』文芸春秋社, 1940年.
- ^ 細川栄次『北方支局回想録 氷と帳簿と私』北海道出版会, 1959年.
- ^ 小柳一郎『中央治安庁舎史資料集 第4巻』地方行政資料社, 1974年.
- ^ Eleanor P. Mills, “On the Standardization of Missing Persons Forms,” Proceedings of the Institute of Administrative Cartography, Vol. 5, pp. 77-102, 1948.
- ^ 『国家警察年鑑 昭和十五年度版』内務省治安統括局, 1940年.
- ^ 佐伯隆一『国警解体後の広域犯罪対策』警察政策研究所, 1981年.
外部リンク
- 国警史料デジタルアーカイブ
- 中央治安庁舎文書館
- 日本行政警察史学会
- ウィーン治安制度研究センター
- 国家台帳研究フォーラム